唯我!

高岡ミヅキ

小学生編

第1話 孤独の子 小山内唯我

 俺を産んだ親の顔を、この世界の誰も知らない。そのことを、俺自身は何とも思ってないけれど、周りのバカな奴らにとってはわかりやすくて、いじめの種に十分なるらしい。

「今日も施設にお帰りか?唯我ゆいが

「孤独の子には家はないものな!」

 学校の校門を抜け、大人の目が無くなった瞬間、同じクラスのバカとアホが、甲高い声で耳元で叫ぶ。すると、あごまで伸びた俺の長い髪がふわっと揺れる。耳に膜ができたみたいに、少しの間、音が小さくなる。

 二人は、俺を挟んで歩き、肩をゆすり、プラスチック製の下敷きで頭上をこすり、長い髪の毛が逆立つのを見て大笑いする。そうして満足すると、笑いながら離れていく。

 二人の姿が交差点を通っていった黒い車の向こうに消えるまで睨み続けた。俺はズボンのポケットの中で握っている小さいカッターの刃を、ゆっくり出しては、ゆっくりと戻すことを繰り返す。いつか、あいつらの喉をさいて、あの甲高い声を二度と出せなくしてやる。俺は密かな野望を、ポケットの中にずっとしまいこんでいる。

「いたっ!」

 ポケットの中で自分の指を切ってしまうことはよくあることで、その度に、俺もバカなんだなと思う。指には細い切り傷ができて、そこからつっと赤い血がにじみ出し、手のひらをゆっくりと垂れていく。ぐっと手を握り、痛みに耐えながら、独り、施設に帰る。

「お帰りなさい、唯我」

 玄関の前を掃除している優里子が俺に気づいた。

「たーいま」

 俺は昔から、優里子に笑った顏でじっと見つめられると困ってしまう変な癖があった。そっぽを向くと、優里子はいつものように近寄ってきた。

「たーいま、じゃないでしょ?ちゃんと言いなさい。もう小学4年生でしょ」

「……ただいま」

「はい、お帰り」

 しゃがみ込んで、俺と同じ高さの視線になった優里子の顔は、長いまつ毛と大きなきれいな瞳をしていて、クスっと笑う赤い唇がいつもより近くなる。俺の胸はぐっと奥に押されたような感覚がする。すると、帰り道につけた手の傷がズキンと痛み、思わず握った手を背中に隠した。

 優里子はこれを見逃さなかった。俺より大きくて柔らかい手で、隠した俺の手を掴み前に出すと、優里子はすぐに傷を見つけた。

「またこんな傷つくって帰ってきたの?まずは手を洗って、絆創膏はろう。それから、またポケットにカッター入れてるんでしょ。前に言ったじゃない。もうカッターをポケットに入れないでって!」

 優里子は全てお見通しである。全て言い当てられると、俺は余計に困った。

「怒るなよ」

「怒ってない。注意したことを、もう一度言わせているのは誰?」

「誰だよ」

「お前だよ!」

「……悪かったよ」

「さ、早く手当しよう。唯我」

 優里子は俺の手を優しい力で握り、施設の中に入った。優里子の手の温かさが傷にしみる時、俺は少しだけ、嬉しくなる。ほっぺがぽわんとほてる。


                 ****


 雪の降るクリスマス、生まれたばかりの俺は、ギャアギャア泣きながら、この一般財団法人立並児童養護施設の前に置き去りにされていたらしい。施設長が俺を見つけた時、俺は適当な毛布にくるまれていて、手には「小山内唯我おさないゆいが」とだけ書かれたレシートを握っていたらしい。

 その頃から施設に遊びに来るようになっていた施設長の娘、優里子は当時9才。優里子は、施設に遊びに来るたびに、俺を抱いていた。その証拠写真が、施設の玄関から廊下から、他のガキどもと一緒に写る写真にしっかりと残されている。

 医務室で二人きり、優里子は俺の手を両手で握って離さなかった。

「ほら、絆創膏貼れたよ」

「サンキュ」

「あんた、最近やけに格好つけるようになったわね。好きな子でもできた?ふふ、同じクラスとか?」

「なわけねえし。同じクラスの奴らなんて、みんなバカガキにしか見えねえよ」

「あんたも十分、ガキだけどねえ」

「何だと!?」

「何よ!」

 俺も優里子も、無意味な言い合いをするところがある。ムキになって、お互いを睨み合って、フンと顏を反らして終わる。

 チラッと優里子の横顔を見る。優里子の横顔は少しずつ大人びていく。昔よりまつ毛が長くなったし、頬も桃みたいに柔らかそうに見える。長い髪を耳にかける仕草もきれいだと、時々思うことがある。

「お前こそ、好きな男でもできたのかよ」

「へっ!?な、な、何よ。突然!」

「わっかりやす。何焦ってんだよ」

「唯我!大人をからかうんじゃない!」

「優里子のことなんて、大人だと思ったことは一度もねえよ」

「呼び捨て禁止!」

「今更かよ。顏真っ赤だぞ。熱計るか?ほら、体温計」

「本当に怒るよ!?」

 もう怒ってんじゃん。なんて思ったが、それは言わないことにした。荒い息を整え、優里子は照れくさそうに言った。

「べ、別に、好きになった人がいるからって、あんたには名前なんて言わないんだから」

 顏を赤くして、髪を撫でている優里子は、少し女に見えた。なるほど。つまり、好きな男ができたわけだ。

「優里子、俺は誰を好きになったかなんて聞いてねえよ」

「んなっ!」

 優里子は顏を余計に赤くして驚いた顏をした。俺は椅子から立ち上がり、先に医務室の扉を開けて外に出た。扉の取っ手から手を離した時、カッターで切った傷がズキンと痛んだ。絆創膏は少しだけ赤くなっていた。それを見ると、俺は少しイラっとした。

 優里子に好きな男は度々できる。そして、その度にフラれているのを俺はよく知っている。その度に、優里子が一人で悲しい気持ちになっていることも、よく知っている。

 医務室から遅れて来た優里子が、俺の横を一緒に歩いていた。優里子は俺を上から睨みつけてきた。

「またフラれたら、俺がなぐさめてやるよ」

「うるさい、ガキんちょ。そんなことには、なりませんよーだ!」

 優里子のムスッとした時の顔は、小さい頃のまま変わらない。そう思った時、俺は優里子との年の差なんて感じない。優里子が同じ背丈の10才の女の子に思える。それが嬉しくて、ついプッと笑ってしまう。顏を反らして、にやける口元を隠すのだった。

「何笑ってるの?ちょっと、唯我?」

 俺はすっかりイライラした気持ちなんて忘れてしまった。


                ****


「唯我兄ちゃん!今日NステにAファイブ出るって!!早く見よう!」

「うるせえな。黙って食え」

「えー?兄ちゃあん」

泰一たいち、唯我の言う通り、今は夕飯をゆっくり食べる時間よ。よく噛んで、いっぱい食べなさい。大きくなれないわよ?」

「すみません。僕、大きくなる!だからいっぱい食べる!」

 同じ施設の7歳のガキ、泰一は俺をよく遊びに誘う弟分だった。こいつの面倒は俺が見るような空気が流れると、優里子が一緒になって面倒をみようと声をかけてくれる。

「泰一君ったらAファイブ好きね。ジェニーズって女の子が好きになるものじゃない?男性アイドルグループなんだし」

 そう言うのは、中学3年生の佳代かよ。佳代は隣にいる、ようやく歯が生えたチビの充瑠みちるにご飯を食べさせている。

「でも、泰一は女性アイドルも好きよね」

 優里子の隣に座っている眼鏡は小学6年生の文子ふみこ

「テレビに出てる有名人ってカッコイイんだもん!でもAファイブが一番好き!僕、唯我兄ちゃんはジェニーズになれると思う!!なってよ!!」

「はあ?俺がジェニーズとか、あり得ねえよ」

「あはは。あり得ない、あり得ない。確かに唯我はスポーツ万能だけど、口も態度も悪いから無理でしょ」

「ああ?何だと」

「はいはいはい。皆、ご飯いらないならごちそうさましますよ?」

 優里子の声が食堂に響く。皆は黙ってご飯を食べ続けた。嫌みを言った文子と目が合うと、文子はウィンクした。このブサイク女。俺はイライラしたが、優里子が場を収めてくれた手前、声は上げられなかった。ただ、「チッ」とだけ舌打ちを返してやった。

 その時、食堂の扉が開き、「ただいまあ」という低い男の声がした。顏を出したのは駿兄だった。駿兄は高校3年生で、この施設では最年長者だった。Yシャツにネクタイをきっちり締めている姿は、俺のあこがれだ。食堂には「お帰りなさい」というガキどもの声で溢れた。

「お先に夕飯いただいています。今日も学校で勉強?遅くまで頑張るわね」

「まあね。後で夕飯いただきます」

「はい。待ってるね」

 手を軽く振ると、駿兄は扉を閉め、自分の部屋へと戻った。駿兄の影が遠くなると、文子が小さな声で言った。

「ねえ、優里姉。駿兄の帰り、最近ますます遅くなってない?もしかして、彼女できたとか!?」

「さあ、どうだろう?気になるなら、直接聞いてみたら?」

「ええ?聞けるわけないじゃん!」

「私だって聞けないよ」

 優里子と文子が話をしている横で、わかりやすくビクビクと反応しているのは、沈黙を通す佳代だった。「はい、アーン」と充瑠の口元に箸を持っていく手が小刻みに震えている。わかりやすくていいことだ。

 最近のことではないが、佳代は駿兄と付き合っているようだった。バカでブスの文子の目には、佳代の様子は全く映らないらしかった。優里子はわかっているが、佳代と駿兄のために、あえて知らないフリをしている。

 夕飯を終えると、各々好きなように過ごしていた。居間にあるテレビの前は人気の場所で、真ん中を独占して踊り狂っているのは泰一だった。テレビ画面にはNステが映っており、泰一が言っていた人気アイドルグループAファイブが映っていた。

『それではAファイブの皆さん、スタンバイお願いします』

 俺は風呂から上がった足で居間のテレビに近づいた。泰一は立ち上がり、踊る気満々で構えていた。曲が始まると、泰一は歓声に合わせて「Aファイブー!」と叫び、それを文子に「うるさい」と𠮟られていた。泰一は小声で口ずさみながら適当な感じで踊っていた。いつもの光景に笑えた。

 その時、廊下を挟んで向かいにある職員室の電話が鳴った。夜は8時を過ぎていた。こんな遅くに施設の電話が鳴るのは珍しいことだった。電話に出たのは優里子だった。相づちを打つ声が聞こえたので、俺は職員室を覗いた。

 優里子は困った様子だった。優里子と一緒に職員室にいたのは、優里子の父親の施設長だった。施設長は俺が覗いていると気づくと、ワタワタと両手を動かし優里子を見た。まるで「電話を止めろ」と言っているようだった。

「ですから、何度も申していますけど、うちの唯我をお宅のアイドルに、というお話を受け入れることはできません。もう二度とこちらに連絡しないでください!」

 優里子はイライラした様子で「全く」と言いながら受話器を置くと、職員室を覗いていた俺に気づいた。明らかに「まずい」という顔をしている。施設長は気まずそうな顔をしていた。

「唯我、今の電話……、聞いてた?」

「優里子、今の電話、何だよ。俺のこと?」

「ううん。何でもないの。気にしないで」

「お前、気にするなっていうような顏してねえじゃねえか。一体何の話だよ」

「唯我、お前にジェニーズからのスカウトの電話がきてるんだよ」

 そう言ったのは、いつの間にか後ろに立っていた駿兄だった。俺の頭にポンと手を置き、駿兄はニコッと笑ってきた。

「はあ?ジェニーズ?Aファイブの?」

「そうだよ」

「ちょっと、駿君!」

「優里姉、こいつも10才になる一人の男だぜ?別に聞かせちゃいけないことじゃないだろう」

「そんなこと……」

「10才なめんなよ?なあ、唯我」

「優里子、施設長、いつから何の話がきてるっていうんだよ。職員室だけで話してんじゃねえよ」

 すると施設長が俺に手招きした。俺は素直に施設長に近寄った。駿兄は職員室に入り、静かにその扉を閉めた。

「いいか、唯我。よく聞きなさい」

「はい、施設長」

「ジェニーズってわかるよな。男性アイドルグループが所属する大きな芸能事務所だ。そこの社長からな、お前にアイドルにならないかっていう話がきてるんだ」

 一瞬、よくわからなかった。一体何の話だ?俺が、ジェニーズの社長から、アイドルにならないかって言われてる?

「俺が……、アイドルになる!?」


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