第8話

 LINEの無料通話を通して僕が近くのTUTAYAにいると伝えると、すぐに行くと返された。一階部分で待つことにする。

 と、ここに来て初めて僕はある事実に気づいた。

 彼の顔を覚えていないのである。

 とかく日本人は他人の目を見ることを遠慮する文化的傾向にあるようだと、そう大学入試対策の英語の問題文に書かれてはいたが、これが見事に裏目に出たといえる。僕は彼の顔をまったく見た覚えがなかった。まあ彼の顔が平凡なだけという可能性もあるにはあるが。

 仕方がないので、適当にそっぽを向いている僕に話しかけてきた相手が彼だということにしよう。というわけで、僕は近くで地元群馬県のネギがスーパーの野菜売り場で売られているのを何とはなしに眺めていた。群馬のネギといえば下仁田ネギだが、そんな群馬県民ですら普段は手が出せない高級品を、そこらのスーパーで販売しているわけはなかった。

「あ、どうも。櫻井くん?」

「あ……はい、そうです」

 作戦は成功した。目の前に立った男は、ああなるほど、いつぞや秋葉原で会った彼であった。スーツである。確かにあの時もこんな感じだったと思い出していると、その彼の斜め後ろにもう一人、男が立っているのに気づく。

「こちら、丸山さん」

「どうもどうも、こんにちは」

「怖い顔だけど、ホントは優しいから」

 スキンヘッドのおっさんは別に怖そうには見えなかったが、顔をクシャっとさせたその笑った顔は柔らかな印象を受けた。高橋克実に似ている。

「じゃあ、行きますか」

 加藤が促して、スーパーから出る。

「ええと、加藤さんと、丸山さん」

 一人ひとり名前を確認する。人の顔を覚えていなかった僕だが、人の名前もなかなか覚えられない僕だったのだ。とりあえず僕は藤井聡太の敗戦がまだ完全には忘れられていなかったので、将棋棋士の丸山九段と結び付けて覚えるようにした。名人位を二期獲得した大棋士の一人である。

 てっきりおいしいお店を知っていると教えられてときわ台に誘われたのだから、何を食べようかといった話で盛り上がるのかとも思ったのだが、彼らは無言で、当たり前といった風にファミレスの扉を叩いた。群馬にはないチェーン店なのだろうか、店の名前は僕の知らないものだった。

「家庭教師をやっているんですけど、担当の子が小四から不登校らしくて、一切口きいてくれなくて……」

 日曜日ということもあり、店内は混んでいた。丸山が近くのガストの込み具合を見て、空いていたらそっちにしようと、僕に意見を聞くでも了解をとるでもなく、二人だけで予定を立てていく。丸山を待つ間に、これまたいつものように、色々と僕のことについて加藤が訊いてくるので、僕も応える。市ヶ谷に住んでいることも話してしまったのはやや早計に過ぎたと、僕は数時間後に後悔することになるが。

 結局、ガストは空いていたので僕たちはガストで食事をとることになった。こちらは僕も名前を知っている。超有名チェーン店だ。別にガストを馬鹿にするつもりは全くないが、おいしい食事はどこに行ったのだろう。

 というよりも、今日はPCゲームの話をするんじゃなかったか? さすがにファミリーのレストランでそんな話をするのははばかられると思うのだが、二人は何を考えているのだろうか。

 席に着いたところで、加藤がトイレに立った。これはつまり、僕と丸山二人きりということを意味する。そしてこの二人は初対面なのである。お互いにメニューを見るばかりで、会話らしきものはしばらく現れてはくれなかった。

 しかし中々加藤は帰らない。数分間沈黙は続いた。その後どちらが口火を切ったのかは分からないが、さらに数分後、就活のことについて丸山からアドバイスを受けていたのを思い出すと、案外朗らかな間柄にはなれたのかもしれなかった。

 その後、ようやく加藤が帰ってきて、各々料理を注文することになった。エレベーター修理の職に就いているらしい丸山は、こないだ新潟にある原発のエレベーターの修理に出向いた際、急に携帯電話が動かなくなったとまことしやかに話していた。原発から離れたら元に戻ったらしいが、今から思えばそんなもの『ほんとうにあった怖い話』くらいに胡散臭いものだが、現実の人間から聞かされる話は妙になまめかしく、僕は「専門的な技術を駆使して働く大人カッケー」くらいにしか思っていなかった。

 生、めかしく。

 加藤が席を外していた時間よりも短いんじゃないかというスピードで料理はやってきた。

 僕の注文した料理はねぎとろ丼のご飯大盛りである。ある程度予想はしていたが、それを上回って肝心のねぎとろは少なかった。もはや少し多めのガリくらいの量しかない。

 両親からいただいた生活費はもちろん、バイトの収入だって大切な、大学生にとってはとてもとても大切なものである。勢いあまってミケランジェロの美術展なんかに行ってしまうからというのもあるが、大学生はいつだってお金に困窮している。普段は昼食など、ましてや外食なんてもってのほかなのだが、こうして人と会う時などは少しくらいの贅沢も許してほしいものである。

「櫻井くんは魚好きなの?」

「普段は高いんで、あまり食べないんです。だから、こういう時にちょっとした贅沢というか……」

 正確に言えば魚ではなく生の魚が好きなのだが、話がこじれるので黙っておいた。それに魚が高いというのも事実なのだ。下手な豚肉や鶏肉の方がよっぽど安い。

「お二人はどんな関係なんですか?」

「……間に池田ってやつがいて、その、うん」

 親しそうに会話をする反面、お互いにお互いのことをよく知らなさそうな加藤と丸山。

 食事中の会話といえばそれくらいで、それ以外はそれぞれが自分の食事を平らげるのに夢中だった。食事が終わったところで丸山が、僕が左利きだということに気づいて、同じく左利きである加藤と、「左利きあるある」のようなものを数個話し合った。やはり、ファミレスによくある、左側だけが尖っているあのおたまは、群馬だろうが東京だろうが、どこへ行っても左利きに猛威を振るっているのだということが分かった。


 そしていよいよ僕は、今までに知ることのなかった新しい世界に踏み込むことになる。意識ははっきりしていて、それなのに、どこか平衡感覚を失ってしまったかのように現実から認識が逸れていく。そんな精神だけが体から独立してしまったかのような――幽体離脱でもしたかのような――混迷の感覚とともに。

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