第6話

 藤井聡太が負けた。

 何のことはないただの敗戦だったが、しかしそれを取り巻く状況がいかにも劇的だった。唯一全国区で流れるNHK杯将棋トーナメントで、相手は今泉四段。四十一歳でプロ編入試験を合格してプロになった超遅咲きの棋士だ。この対局はつまり、史上最年少でプロになった藤井と、史上最年長でプロになった今泉との因縁の対決なわけだ。片や早熟の天才が、片や中年の苦労人に敗北するという図式は何とも物語的である。

 だが、その余韻に浸っている暇は僕にはなかった。将棋をたしなむ友人にとりあえず対局の感想だけLINEで送って、そのまま駅へと急ぐ。今日こそがあの仏教のような名前の男との食事の日だった。

「暑い……」

 自然とそんな言葉が口をついて出るくらいに外は暑かった。自転車に乗って駅まで向かう。空気抵抗が風の役割を果たしてくれるため、自転車に乗っている間は比較的涼しい。

 市ヶ谷駅から有楽町線に乗って池袋駅まで行き、西武池袋線に乗り換えてときわ台を目指す。ホームから車両に入ると、車内は冷房が効いていてとても心地よい。

 池袋駅からは地上に上がったため、景色がよく見える。太陽が燦々と照っていてとても明るかった。

 のんびりと座席に座り電車に揺られる。読書は趣味の一つだが、なぜだか電車では時間を無駄にしていると考えてしまうのだろうか、車窓や独特の振動を楽しむことを優先して積極的に本を読もうとは思えない。そこで僕は隣に座った男たちの話を聞いていた。

「――だから、僕も色々な人に会ってきたの。うん、ほんとに。この前は、なんかDVっていうの? そういうの起こしたことのある二十歳くらいの男の子と話をする機会があって」

 三人組の真ん中に座っていた男が話す。白髪が少し入り混じった、なかなかにダンディな男だった。ジーンズにTシャツがスリムな体に合っている。簡単に言えば、ロシアW杯のドイツ代表監督みたいだった。

「その子、精神的なストレスでおしっこが出なくなっちゃったらしくて。で、それが原因でさらに荒れるようになっちゃって……でも、それを見かねたお母さんがキリスト教の教会にその子を通わせたらしいの。そしたら精神も落ち着いてきて、おしっこも出るようになったんだって」

「へー。すごいっすね」

 話を聞いていた隣の二人が相槌を打つ。そのまた隣で同じように僕も、相槌は打たないものの自然と頷いていた。

 キリスト教が人類の科学の進歩を千年も遅らせたという話はよく聞くけれど、当たり前だが宗教も人の役に立っているのだなどと感心したのだ。なるほど気持ちのいい話だった。今になって思えば何とも皮肉な挿話だが、しかしこの時点では確かに、僕は宗教というものを、もっと言えば強固なる信仰というものを素晴らしいものだと、見直していた。

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