にごりえ殺人事件

美綴

第1話「あの人を殺して」

 青空が広がるある年のある都市の夏。暑さは衰え知らずで連日の猛暑に行きかう人々は「当分夏はいらないな」なんて思っていたそんな夏、僕は一人の女性と喫茶店で会う約束をしていた。

女性の名は夏目ハル。T大学の文学部日本文学科の教授職を退職をしてからは伊豆で余生を過ごしているというおばあちゃん、僕に依頼をしたいので一度会いたいとのことだったけど、この暑さ。テレビでは連日「不用意に外に出ないで下さい」のアナウンスがながれるのに「それでもどうしても一度お会いしたいのです。会って。」と言われては僕も何か逼迫した理由があるのではと赴かざるをえないのだった。でも見せたいものって何?


 「今日も暑いですねぇ」

 待ち合わせの時間丁度に現れた女性は言葉とは裏腹に涼しい表情に見えて僕は彼女があまり汗をかいていないことに気づいた。

 「夏目ハルさんでしょうか?」なぜかそんな気がした。

 「あぁ、すいません。突然話しかけられて驚きましたよね。はい。私がお電話で依頼しました、夏目ハルです。今日はよろしくお願いします。」「こちらこそよろしくお願いします。それにしてもよく僕のことがわかりましたね。」「うふふ。あなたは私たちの世界では有名人なんですよ。名探偵さん。」「いや、名探偵だなんて……」「いやいや、ご謙遜を。もちろん一般的な意味でもありますけど、私はあなたがであることも知っている側でもあるんですよ」

 ほんの少し僕の目の瞳孔が広がったことを彼女に見抜かれた気がした。

「さぁ、中へ入りましょう。私の素性も少し分かっていただけたようですので。」


 喫茶店はがらんとしていて、それはこの夏がいかに人々を街から消し去ってしまったかを簡明に表していた。適当な席、といってもだれもいないのでできるだけ陽の光があたらない席を選んで座る。

「いらっしゃいませ」「僕はアイスコーヒーを。夏目さんはどうしますか」「私も同じものを」「かしこまりました」

 注文をしてコーヒーが運ばれるまで、僕は彼女をもう一度見る。年相応のこの夏に適した服装・化粧。所作諸々も職歴を聞いてからでは僕がいる為の特別なものではなく習慣が作り出した自然なふるまいだと分かる。


 「今年の夏は暑いですね、なんて前置きはお互い不要でしょう。単刀直入の申し上げますと、私があなたにお願いしたい依頼、それはある人を殺してほしいのです。」

「と、言いますと」僕は意味を理解していたけどあえて聞き返した。

「殺人依頼です」

 それは、僕にうってつけの仕事だった。

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にごりえ殺人事件 美綴 @Shikiy

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