サクラムースとマッコウクジラ
ヒグマのおやつ
第1話 はじめ
「ねぇ。」
わたしのかけた声に微笑むだけで鏡の向こうの彼女はわたしの後ろ髪を持ち上げた。
土曜の晴れた午前、開け放たれた窓からは四月のやわらかい風が入り込んできた。
「ほんとうにかわいい髪をしているよね。ナチュラルに栗っぽい色でゆるくウェーブしていて、ふわふわとやわい。やばいね、いつまでも触っていたい。」
「もう聞き飽きたよ。はいはい、ありがとう。」
唇をへの字に曲げてお愛想で礼を口に出した。でも、これじゃ、ただ単にわたしがすねているみたいだ。いや実際、すねているんだけど。
彼女は気にすることもなく、わたしの髪に霧吹きで水をかけた。ふわりと水に含まれたサクラの香りが漂ってきた。それから彼女の指はわたしの髪をすくい上げて毛先を整え始めた。
「ボクは短い方がいい。」
「ダ〜メ。リリィはセミロングが似合うの。リリィのいう通りにベリショにしちゃうと子供っぽくなっちゃうよ。」
「いいじゃん。フラれたんだから、髪を短くして再出発する。」
「乙女じゃん。」
「乙女じゃない。」
「ボクってボーイッシュな言葉使っても、リリィはかわいい女の子なんだから。まあまあ、この天才ヘアデザイナーにまかせなさい。」
手際よくカットが進み、わたしはいつものセミロングの髪型に戻った。
小さな洗面所にスツールを持ち込んだ彼女の言う通りにうつ伏せになって洗髪もしてもらい、入念に頭皮マッサージからトリートメント、その他諸々フルコース、自分の髪を彼女にまかせていた。
新進気鋭のヘアアーティストとして評判になった彼女のサロンは予約が満杯でそれなりのお値段もする。それをわたしは彼女の恋人という特権でいつも同棲しているこの古い団地のようなアパートで享受していた。
でもそれも今日で終わりだ。
半月前に彼女からお別れを告げられたわたしは彼女と毎晩話し合った。
冷めたのでもなく、違う恋人ができたのでもなく、浮気したりされたりでもなく。
彼女は自分がわたしと一緒にいるとわたしがダメになっちゃうと主張を繰り返してきた。
付き合いはじめの頃、職場の男が忘年会の席でわたしの恋人が女であることをでかい声で暴露してしまうという最悪のアウティングをくらい、わたしは退職という逃げをかました。
メンタルも体もボロボロされたわたしは彼女の住むこのちいさな2LDKのアパートに転がり込んだ。そこから知人の紹介でマッサージやアロマテラピー、簡単なトレーニング指導などをする小さなサロンに就職した。
身も心も支えてくれた彼女はわたしからみると本物のワンダーウーマンで、こんな面倒な女を癒しながら、自分の才能を発揮できるチャンスを掴みとって、あっという間に雑誌の写真にキャプションが載るようになった。
だからダメになるのは彼女の方で、わたしじゃないし、彼女がわたしなどいらないというならそれを甘んじて受けるし、去るのも厭わない。
でも、彼女はダメになるのはわたしだと言う。
すっかり混乱したわたしだったが、いつも最後にやさしく彼女はわたしを抱擁して寝かしつけてくれた。
四月の桜の満開の日に別れることになったわたしは成り行きを知る年配の友人、寺田さんを頼ることにした。といっても顔を合わせたことがないSNS上での友人なんだけど。
しばらく逡巡されていた寺田さんは一人暮らしのマンションの一部屋を開けてくれた。
彼女に報告するとまるでネコみたいだねと笑った。わたしは顔を真っ赤にして怒って、同棲して初めて一人寝をすることにした。
暖かいドライヤーの風でうとうとしていたわたしの両肩に彼女が手を置いた。いつの間にか終わっていたらしい。
「はい、かわいい。ほら、かわいい。」
自分の出来に満足なのか、目の前の姿見に映った彼女のチェシャ猫のように細めた目は垂れ下がっていた。
「よかったね。」
「うん。百合子さんにするのはこれで最後よ。これからはサロンに予約してきてね。絶対に優遇してあげる。」
「百合子さんって。リリィって呼んでよ。ずっとそう呼んでくれたじゃない。」
わたしは彼女がわたしのことをリリィって呼ぶ、その甘ったるい響きが大好きだった。
でももう終わりらしい。
「そうよ。でもこれからは百合子さんなの。とても大事な心の友の百合子さんなのよ。」
「ジャイアンじゃない。」
膨れっ面のわたしの鏡像がゆがんだ。
そっと彼女の人差し指が伸びて涙をすくった。
「ずるい。そういうのはボクがするんだよ。」
「あら、ごめんね。」
今日でお別れなのに、彼女はいつもと変わらない。わたしより小柄だけど、のびた背すじでテキパキと片付けをする彼女を鏡ごしに見ながら、今度は自分で目元を拭った。
「お昼は寺田さんが一緒に食べようって。食べながらルールを決めようって。」
「そう。じゃあ、これでお別れね。」
わたしの荷物は今年のお正月に一緒にベトナム旅行した時に買った大きなキャリーケースに入れてある。
家具は彼女のものだし、仕事なんかで使う本やその他の私物はダンボールに詰めて送ってある。本当に寺田さんにはご迷惑をかけた。ヘテロの独身おばさんだろうけど惚れちゃいそうだ。
後片付けが済んだ彼女は小さなソファに腰を下ろして、コーヒーを飲みながらわたしの身支度を眺めている。
綿ローン素材の生成り色のノースリーブワンピースはガーゼよりも柔らかくて絹のようにさらさらとした肌触りだけど、透ける素材なので響かないように編みレースでシャンパンカラーのキャミソールを合わせた。
「新しいね。」
「うん。昨日見つけて買ってきた。」
「百合子さんはやっぱりそういう服が似合うよ。」
「わかってる。でもこういうボクが好きだっていう女の子は少ないんだよ。」
「それも知ってる。」
彼女が立ち上がった。
もう出る時間だ。
わたしはキャリーケースを持ち上げて小さな玄関に向かった。
ここ一番という時にいつも履くことにしている赤のサンドリヨンに足を通した。
振り返るといつもの彼女がいた。
わたしの肉の薄い体に細くて白い両腕を軽く回し、彼女は両のほおに唇を寄せた。
「じゃあね。」
「じゃあね。」
笑顔で彼女は左手を振った。その指にわたしがプレゼントしたリングはもうない。
わたしは振り返すこともできず、彼女に背を向けて足早に玄関を出た。
重たいキャリーケースを抱えて階段を降りて、歩道に出ると突然の風に桜の花びらが水色の空に舞った。
絶対酷い顔だから帽子をかぶって隠したかったけど、せっかく彼女が整えてくれた彼女にしかできないお餞別を崩すような真似はできなかった。気合いで涙を引っ込め、顔を隠しながら歩いた。
地下鉄を乗り継ぎ、たくさん歩いて、聞き馴染みのない土地にたどり着くとやたらと高級そうな住宅街だった。
とぼとぼとキャリーバッグを引きながら歩いていると教えられた住所にたどり着いた。
目をあげるとそこはちょっとひくくらいの高級マンションだった。
ありがちな虚栄心を高く積み上げたタワーマンションではなく、赤い煉瓦造り三階建てでその玄関から中を覗くと三ッ星ホテルのようなエントランスにはコンシェルジュがいるのだろうか、小さなカウンターが見えた。
教えられた通りにインターホンを押すと、寺田さんが出た。
「はい。」
「吉屋です。」
「えっ?」
風邪でもひいているのだろうか、かすれた声が聞こえた。苗字だけではピンとこなかったのだろうと思い、いつもやりとりしているハンドルネームを名乗った。
「ボクです。リ助です。」
「あっ、えっ、……はい、どうぞ。」
自動ドアが開いた。
大理石のような綺麗な床のエントランスを抜け、ヨーロッパにでもありそうなアンティークな格子戸ドアのエレベーターに乗りこんだ。
二階の奥のドアが寺田さんの住む部屋だ。
ここでもう一度インターホンを鳴らした。
ドアが開く間に身支度を整えた。顔は諦めた。事情は寺田さんも知っているからいいや。
かちゃりという音とともに開いたドアの向こうにいたのは。
「て、寺田さん?」
「ええ。はじめまして、吉屋さんでしたっけ?」
男だった。
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