その二

その二

杉三が沼津まで出かけている間、蘭はまたレポートの制作に取り組んでいた。刺青の依頼さえなかったら、とにかく勉強するようにしている。まず、杉三がやってきたら勉強はまずできないので、こういうときこそ絶好のチャンスである。

今日の内容は、北朝鮮の白丁について、なのだが、とにかく資料となる文献を探すのに苦労した。やっと一冊手に入れたけど、本当に北朝鮮って資料がないんだねと改めて思った。

時折、買ってきた朝鮮語についての本を照らし合わせながら、一生懸命レポートを書いていると、インターフォンが五回鳴った。

はれれ、もう帰ってきたのかと思ったら、また五回鳴った。

「おい、今日はいるだろ!予約入ってないと言ってたくせに、いくらレポートが忙しいからって言っても、無視はするなよ!」

「まあ仕方ない。一度やりだすと、夢中になるのも蘭だから。」

「ええー、それじゃあ困る。せっかくお願いに来たのによ。」

なんでまた水穂まで連れてきた!

「とりあえず、出直そうか。」

と、水穂がつぶやくと、いきなり玄関のドアが開いて、

「杉ちゃん、約束が違うじゃん。展示会が終わったら、すぐに製鉄所に帰ってもらうことを条件に、一緒にいってもらったんだよ。それなのになんでまたこっちまで連れてきたの!」

と、蘭その人がでかい声で言った。

「知らない。てか、そんな約束した記憶ないぜ。」

「それなら、これからは契約書に書いてもらおうかな。」

「そんなことできないや。文字なんてかけないからな。」

そうか、それもできないのか。紙に書くこともできないのなら、どうしたら約束を守ってくれるのだろう。

「僕からしてみたら、そんな契約をやり取りしていたほうが悲しいや。僕は別に高額な契約料金が必要な、高級品でもなんでもないんだから。」

二人のもめごとの原因となってしまった水穂がちょっと悲しそうに言った。

「ほら、本人もそう言ってら。それでいいんだよ、それで。」

「そういうわけじゃないでしょうが。本当にさ、もうちょっと配慮ってもんがないのかよ。例えばさ、負担になるかもしれないから、君は先に製鉄所に帰ってろ、それくらい言えないのかよ。」

「言えない。言う必要はないもん。本人がいいっていうならそれでいいじゃないの?」

「単純素朴な答え。」

「だって言えないのかよっていうから、その通りに答えたんだ。」

「全く君って人は、、、。」

「いいよいいよ、どうせ製鉄所に帰っても、教授からも、恵子さんにも、早く寝ろ寝ろしか言われないから。もう、寝ていたって退屈でしょうがない。だったらこっちに来たほうがよほどいい。」

水穂が、二人の間に割って入って、もういい加減にしてくれという顔で言った。

「そうだけど、悪くなったらどうするんだよ。そういう心配はしないのかよ。」

「しません。とにかくさ、いつまでも玄関でもめているわけにはいかないからさ、中へ入らせてもらえない?」

杉三がそういったので、

「もう、杉ちゃんには効果なしか。とにかく入れ。」

蘭は、仕方なく二人を中へ入れた。

「で、なんだよ。一体何があったんだよ。」

テーブルの上にある本やレポート用紙を片付けながら、蘭はぶつぶつと言った。

「本当によく勉強しているな。お前らしいよ。一度勉強始めると、答えが出るまで辞めないところ。」

「でも、答えは出ないよ。それに、ご飯を食べるテーブルで勉強するのはやめたほうがいいと思うよ。机くらい買いな。」

「もう、杉ちゃんも水穂もからかうのはやめてくれ。人が頑張っているのを馬鹿にするのはそんなに面白いか?で、なんで僕のうちに来たんだよ。」

「ああ、こういうことだ。君の武則天母ちゃんに、あるビーフン屋の再建資金を投資してもらいたいんだけど。」

杉三がいきなりそういったので、蘭は思わずはあ?と首を傾げた。

「いや、とてもいい店なんだけど、売れないんだって。今年いっぱいで、閉店するんだって。それでは困るから、何とかしてもらいたいんだよ。君の武則天母ちゃんだったら、ちっとやそっとの金くらいだしてくれるんじゃないの?」

「どこにあるんだ、その会社。」

「沼津の商店街。駅の北口から歩いて、ちょっと裏道に入ったところにある。それに、会社ではなく、ビーフンをラーメンに対抗して食べさせる店だ。」

「もうしっかり言ってくれ。一体何があったんだ。沼津いって、着物の展示会を見に行ったんじゃなかったの?」

「勿論見に行ったよ。そのあとで、昼飯時刻になってしまったので、ご飯を食べるところを探していたら、偶然見つけたんだ。ほら、駅の近くはもう、ラーメン屋ばかりで有名だからさ。あのお馬鹿さんな市長のせいで。」

確かに、蘭もあのラーメン激戦区の中で、ビーフンを提供するのは難しいだろうなと思った。

それくらい、あの辺りはラーメンばかりで、ほかのものはこれ以上来るなという雰囲気もあるのは知っていた。確か、市全体が打ち込んでいる、観光客獲得のための必死な作戦であることも、テレビか何かで報道されているような気がする。

「そんなわけだから困るだろ。ラーメンばっかりになったら、水穂さんのような人は何も食べるものがない。あの時のビーフン屋は本当に必要だったんだ。それがつぶれたら本当に困るから、そうなんないように、金を出してやってほしいの。」

なるほど。やっと杉ちゃんの話している内容が理解できた。

「そういう事か。それならよくわかった。しかし、杉ちゃん、いくら杉ちゃんには必要な店なのかもしれないけれど、他の人にとっては、そうでもないだろ。ビーフンなんて、どこのスーパーにも売ってないから知名度もないし。杉ちゃんのような人は、ビーフンがどういうものなのか知っているから、すぐに何かわかるんだろうけど、普通の人は、食べにこないよ。」

「普通の人なんてどうでもいいよ。必要な人にだけ売ればいいんだ。もう、必要ない人なんて、目を向けてたら、商売にならん。」

「杉ちゃん、まあ確かにそういう事が通用出来る商売もあるけどさ、食べ物を売る商売は、そうはいかないんだよ。」

「なんで?お客さんが一人でもいれば、商売は続くらあ。そのお客さんから誰かに伝えてくれることだって結構あるらあ。」

「お客さんって誰のことだ。まさか僕のことか。」

水穂が、思わず言うと、

「当り前だ。君意外に誰がいる?」

杉三はそう答えを出した。

「いや、現実問題頻繁に沼津へ通うのは無理なんだから、商売は続かない。ああいう商売は一日一回は客が来ないと、金が入らないだろ。一人だけお客さんがいれば何とかなるという商売じゃないんだよ。わかる?」

「まあそうだけどさ、一人でも客がいればさ、店を続けてくれる起爆剤にならないかなあ。それでさあ、店さえ続けていれば、別の客が来るかもしれないじゃないか。それにさあ、水穂さんみたいな病気の患者さんには、ラーメンを食べられなくても、ラーメンに似たようなものを食べられるんだから、うれしいことだと思うけど?」

「杉ちゃん、ああいう症状を出すのはね、二万人に一人程度しかいないんだよ。そう考えると、富士市に何人いると思う?富士市の総人口が二十四万人って考えると、二万で割ったらどうなる?」

「知らない!僕に計算なんかさせないでくれ。」

「ダメだこりゃ、、、。杉ちゃんには何を言っても通じないんだな。あーあ、困ったな、どうやったらわかってもらえるんだ、、、。」

蘭は頭を抱えて大きなため息をついた。

「まあね。僕らは、身近にいるように見えるんだけど、病院に行っても目を丸くされることのほうが多いよ。専門的なところなら知っているのかもしれないけど。一般的に言ったら、血を出すと言えばまず労咳しか思いつかないでしょう。そうなると、とっくに過去のものなってるのに、何をいまさらって笑われることのほうが多いんだからねえ。」

水穂が、とりあえずの現状を言ってみる。

「水穂さんも笑わないでくれ。自分の事で笑われて腹を立てないやつがどこにいる。そういうことで馬鹿にされたら、うるさい、黙ってろ!くらいのセリフを言えばそれでいいのさ。障碍者は生きてはいけないなんて、法律はどこにもないんだからな。」

わかりやすく説明したつもりでも、杉三は主張をかえなかった。いずれにしても、蘭も、集客見込みのないビーフン店に、晴が関心を示すとも思えないし、まさか資金援助をするようなことはありえない話だと思った。

「水穂さんも、あれだけよくしてもらったんだから、つぶれるのをしょうがないなんて言って、平気なのかよ。それじゃあ、義理も何もないじゃないの。あんないいおじさんだったのにさあ。」

「まあ、確かに、そうなんだけどね。でも、沼津の市長さんの命令を取り消すことはできないよね。」

うん、権力者の命令には確かに逆らえないのであるが、それでも文句を言うのが杉三なのである。これはちょっと、強硬手段でなければだめだと思った蘭は、このように切り出してみた。

「杉ちゃん、店を援助するにしても、店の名前を知らないと、何もできないだろ。せめて、店の名前とその店長の名前くらい知っておかなきゃ。」

「おい、蘭。よせ。杉ちゃん傷つけると、大変なことになるよ。」

水穂は、蘭の意図を読み取ったが、そういうやり方は、自身は好きではなかった。でも、ある意味障碍者を動かすにはこういう事も必要なのである。蘭が、こういうやり方をしないと黙らないだろ、と、いう表情で目配せしたので、それ以上反論はしなかった。

「おう、わかったよ。水穂さんに頼んで、聞いてきてもらった。僕はメモを取ることはまるでできないからな。ちょっとさ、教えてやっておくれよ。」

杉三に言われて、水穂は巾着から手帳を取り出し、余っているページに書き込んだ、店の名前を蘭に提示する。しかし、そのページを見て、水穂の達筆な筆跡で書かれた店の名前を見た途端、蘭はまた貧乏くじを引いた!と思ってしまった。

「安藤ビーフン店、店長安藤忠男、、、。もうなんで杉ちゃんがこんな人と接点を持つのかなあ。それに、なんであの人が、こんな辺鄙な場所に店なんかだすんだ!」

「どうしたの蘭。もしかして知ってたの?あの店の事、、、。」

心配そうに水穂が聞くが、水穂にまで心配させて、本当に自分はダメな男だなと思う蘭である。

「知ってるっていうか、安藤忠男さんと言ったら、お母さんが良く商談していた料亭の板長さんだよ。多分、お母さんと、沼袋さんだったらよく覚えているんじゃないか。」

あらら、、、。これでは杉三に、投資を諦めさせようと思ったのに、逆にやる気を出させる結果になってしまった。

「しかしなんで、そんな人がつぶれそうな店をやってるんだろうね。あんなしょぼくれた顔して、とても板長って感じじゃなかったね。それに、板長なら、店の繁盛する工夫を生み出せると思うのだが、、、。」

と、疑わしそうに杉三は言ったが、

「いや、あの接客態度と、料理の味からしてみて、納得がいった。もしかしたら、演技していたのかもしれない。それに、ビーフンの事だって結構研究してるような感じだったし。」

水穂がそういった。事実そうなのである。ただの素人料理人ではなさそうな気がする。

「しかしね、僕が知っていたころの安藤板長は、うどんを作っていたと思ったが、、、。それがね、ある日突然、店から姿を消したと聞いたことがある。それ以降は、ずっと消息不明だったんだよ。」

知っている事実を語る蘭。

「わかったわかったわかった!つまりこうです。息子さんが水穂さんと同じような病気になったとわかったので、安藤板長は店をやめて、こっちへ逃げてきたんだよ。そして、ばれないようにしょぼくれおじさんを演じていた。確かに僕もそうだと思ったぜ。しょぼくれてたけど、料理の事になるとやたらしっかりしていたもんな。」

それをきいて、杉三がそう結論付けてしまったが、その推理が一番近いのではないかと、蘭も水穂もそう思った。わかったを三回繰り返すのは、ギリシャの哲学者と一緒だな、なんて蘭は、あきれてしまった。

「確かに、自分の子が、うどんを食せないとわかったら、うどんなんか作るのは、嫌になるよね。繊細な人であれば、余計につらいだろ。」

水穂も、なんとなく気持ちがわかったような気がした。食べられないものを作り続けなければならないのは、本当につらい。

「よし、そこを利用して、何とかしてあの店潰さない方向に持ってこうぜ。お金の面では蘭の武則天母ちゃんにも協力してもらってさ、そういうところを武器にすれば、なんとか立ち直れるような気がする!」

と、決断をしてしまった杉三に、水穂が、蘭を皮肉るようにこういった。

「蘭、作戦は失敗だな。」

あーあ、また貧乏くじを引いた。結局、杉ちゃんにあきらめてもらおうと発言したら、余計にやる気を出させるようになっちゃったよ。僕は、なんでこういう風に、変な結果をもたらしてしまうのだろう。

「とりあえず、お母さんに言ってみるよ。」

そういうのが精いっぱいだった。

「おう。頼むぜ、蘭。じゃあ、すぐに電話かけてくれ。こういう事は、善は急げ。早く電話しろ、電話。」

「本当に気が早いなあ、今は会社が操業中だろ。その時に、電話なんかしたら、びっくりするだろ。」

「じゃあ、沼袋さんに伝言してもらえば?」

「いや、沼袋さんも忙しい。運転しているときに電話を鳴らしたらどうするの。事故のもとになるよ。」

「まあ、そうだな。車を運転するときに電話には出られないよな。」

「だから、後で僕がお母さんに電話しておく。会社は五時には終わるから、その時くらいにかければいいだろ。多分、自ら紙を漉いて、残業をすることはないと思うから、すぐ帰ってくるよ。」

蘭は、一生懸命とりつくろってみたが、杉三にごまかしは効かない。

「まあ、そうだろうね。社長と呼ばれれば残業はしないよね。じゃあ、頼むよ、蘭。少なくとも僕が杉ちゃんに同行したことは言わなくていいから。きっと、君のお母さんは、すごく怒るだろう。」

水穂には申し訳ないが、そうしなければならなかった。

「悪いなあ。それよりも、お前は体の事が心配だから、もう製鉄所に帰れ。」

「蘭、本音を丸出しにしてはいけないぞ。それが一番言いたいんじゃないの?」

心配したつもりなのに、杉三にまた言われてしまった。どうして僕が考えていることは、こうしてすぐに周りの人にわかってしまうもんだろうか。それほど、僕は単純な顔をしていただろうか。あーあ、水穂みたいに、綺麗な顔であればもうちょっと、誤魔化せるかなあ。

「いいよ。そんな心配しなくたって。早く寝ろとか早く休めとかそういう事ばっかり言われると、かえってこっちも落ち込むから、嫌だよ。」

「ごめん。」

水穂にまで言われるとは。今日は、貧乏くじを何本引いたらいいのか。

「じゃあ、そうしておく。明日には結果を知らせるから、とにかく今日はもう製鉄所に帰ってほしい。もう、心配で仕方なくて、こっちも気が落ち着かない。どうか、嫌だとは言わないで、僕がこれだけ心配だという事をわかってもらいたい。」

「わかったよ。そのくらい知っているよ。それを拒絶していたら、お前がつらいのもわかるから、もう今日は製鉄所に帰るよ。じゃあ、お母さんに、電話しといてくれよ。吉と出るか凶とでるか、結果はどうであれ、とにかくやってみてくれ。」

「水穂さんも、妥協なんかしなくていいんだぜ。もうちょっと、強くないといけないよ。」

杉三が、そう口をはさむが、水穂はいいんだよと言って、帰り支度を始めた。蘭は、自分だけにすごい重大な使命を課されてしまったので、やっぱり貧乏くじだと思った。

とはいえ、水穂を一人で帰らせるのは心配なので、製鉄所までタクシーで行ってもらうことにした。杉三が、製鉄所までタクシーで一緒に乗っていくと言い、二人は連れ立って、蘭の家を出て行った。まあ、製鉄所へ行くと、また馬鹿話をしていくのが杉三なのであるが、青柳教授もいるし、ある程度やって止めてくれるかなと予測できた。

そうこうしていると、五時の鐘が鳴った。杉三はまだ製鉄所から戻ってこなかった。多分教授や恵子さんを巻き込んでしゃべっているのだと思った。全く杉ちゃんは、余計なことばかりする、とため息をついたが、自分もしなければならないことがあった。杉ちゃんが戻ってくる前に、電話をかけたほうがいいなと思ったのだ。もし戻ってきたら、またそれこそ余分なことを言って、肝心なことを言わせなくさせる可能性もないとは言えない。

蘭はスマートフォンをとり、沼袋さんに教えてもらった、晴の番号を回す。

呼び出しベルが三度なり、受話器を取り上げる音。多分沼袋さんだと思って、

「あ、もしもし、蘭ですが。」

という。ところが、聞こえてきたのは沼袋さんでなくて、晴自身の声だった。

「何を改まったこと言っているの。親に敬語なんか使う子がどこにいるの?」

「あ、お母さん、忙しい時にごめんなさい。」

慌ててご挨拶をする。

「親に電話するときに、忙しい時にごめんなさいなんて、他人事のようにかけるもんじゃないでしょ。」

いつものきつい口調ではなく、なんだか穏やかで、優しいお母さんという感じの言い方だった。

「あ、ああ、すみません。」

「もう、よしなさい。そんなに改まるのは。元気でやってる?ご飯ちゃんと食べているの?」

「食べてるよ。それに、元気じゃなければ、電話なんかしないよ。」

「そうか。まあ、あそこまでお料理の名人である杉ちゃんがいれば、ご飯に困ることはないわね。で、今日は何の用なのよ。」

何の用だといういい方はきついが、商売人なのでやむをえなかった。でも、急に親らしいことをいうようになっていた。お母さんも年をとったのかな。

「あ、実はね。安藤忠男さんって覚えてない?ほら、僕が子供のころよく通っていた、沼津の料亭である、墨家人とか言うところで板長をしていたじゃないか。」

蘭は、恐々そう切り出す。もしかしたら、怒り出すのではないかと、不安だったので、額に汗がにじむ。

「はいはい、墨家人ね。あの料亭は、五年くらい前かな。火事にあって建物が燃えちゃってね。そのまま廃業になっちゃったのよ。安藤さんはそうなる前に姿を消したから、てっきり経営破綻で夜逃げでもしたのかと思ってたわ。」

「なんだ、お母さんも知っていたのか。」

「知っているっていうか、もう料亭なんてそういうところばっかりよ。昔ながらのやり方でやっていると、そういうことになっちゃうのよ。この田舎では。」

と、いう事はそれだけ料亭の廃業は後をたたないのか。

「で、お母さん、その安藤さんなんだが、今沼津市でビーフンの店をやっているんだよ。なぜか知らないけど、今日杉ちゃんが見つけてきてしまった。その店が、もうつぶれそうになっているので、何とかしてくれないかと杉ちゃんは言うのだが、、、。」

少し間をあけて、蘭ははやく結論を出そうと思った。

「無理だよね。お母さんの事だから。」

答えは予測できているので、もう電話を切ろうと思ったが、

「相談したいのに、自分で結論を出すなんて、変な子ね。それじゃあ、電話なんてかける意味がないでしょ。全く、人のいうこと聞かない子なんだから。」

と、からからと笑っている声がする。

「あ、ああ、ごめん、すみません。」

思わずそういうと、

「だから謝るのはやめなさい。近いうちに行ってみようか。店がどこにあるのか教えてくれれば、沼袋に道を知らせて、車を出させるから。」

という返答が帰ってきた。

「どこにあるって、、、。」

実は知らなかった。沼津市にあるのは確かだが、水穂が知らせてくれたのは、店の名前と店主の安藤忠男さんの名前しかなく、沼津駅から、どうやって行くかとか近くに目印になりそうな建物はあるかとか、全く知らなかったのである。

「馬鹿ね。店がつぶれそうになっているのであれば、店がどうなっているのか、まず現状を把握することから始めなきゃ。ここで聞いたって、見てみなきゃ全体像がしっかりつかめない。場所はどこにあるの?」

もうすぐに取りやめになると確信していたため、場所なんて聞かなかったと正直に答えたら、さらに叱られるだろう。

「杉ちゃんが言うってことは、あんたも一緒に行ったんでしょ?杉ちゃんが一人でご飯屋さんに行くのはまずできないでしょうし。第一に、メニューを誰かに読んでもらわないと、注文ができないわ。それとも、忘れたの?」

「いや、わすれてはいないけどさ、、、。ごめん、また後でかけなおしていいかな?」

「いいえ、今言いなさい。この後、近所で寄り合いがあって、それに出るから、帰ってきたら遅くなるし、今まとめたほうがいいわ。」

こうなったらもうだめだ!と思った蘭は、

「違うんだ、一緒に行ったのは僕じゃなくて、水穂なんだよ。僕はレポートの提出期限が近いので、勉強するからダメって言ったんだけど、杉ちゃんがどうしても、展示会に行くって言って聞かないから、しょうがないから水穂に頼んでいってもらったんだ。あいつの体のこともあるから、展示会が終わったらすぐに帰って来いと約束していたのに、途中でご飯まで食べてきて、安藤さんの店を発見してしまって、、、。」

と、正直に言った。母の親切な態度もこれまでだ、と固唾をのんで身構えてしまう。もう、あいつの名を出せば、母は間違いなく怒るだろう。まだ付き合っているの!すぐにやめなさい!という反応が出るかと思ったが、

「あら、水穂さん大丈夫?沼津まで出して。できる限り休ませてあげたほうがいいんじゃないの?もうちょっとスケジュールを考えて、できるだけ負担になることは避けてあげたほうがいいわよ。」

と言う、思いもしない反応が返ってきて、思わず卒倒しそうになってしまう。

「蘭、聞こえてる?水穂さんになんでもほいほいお願いしちゃだめよ。あんたの方が、健康に近いんだから、できる限り、杉ちゃんに同行してやるようにしなさい。勉強もいいけど、今は、学生とは違うんだから、自分の役割をしっかり考えて行きなさいよ。」

「あ、ああ、すみませんすみません!」

「謝っちゃだめ。じゃあ、水穂さんに申し訳ないけど、場所を教えてもらってきなさい。そうしたら、もう一回電話しなさい。そして、二人で行ってきましょうね。いまちょっと、会社の予定が立たないから、日付はまた後日決めましょうね。わかった?」

もう、、、。いつの間に変わってしまったんだよ。これでは武則天母ちゃんではなく、母御前でもなく、ただの優しいママじゃないか。

「聞こえてるの?返事位しなさいよ。早くしないと、寄り合いに間に合わなくなるわよ。」

「はい、わかりました!じゃあ、もう一回連絡します!」

あーあ、最悪の結果だ。

「なるべく早く連絡頂戴ね。蘭も、涼しくなったとはいえ、風邪をひきやすくなるから、気を付けて過ごしなさいよ。」

と言って、電話は切れてしまった。

あまりの変わりぶりに、しばらく呆然としてしまった。確かに言葉はまだきついけれど、明らかに変わっている。

変わらないのは母ではなく自分じゃないか。

それに、まさか自分が杉ちゃんの言いだした計画に参加する羽目になるとは、、、。

本当に自分って貧乏くじばっかり引いている気がする。

一方、製鉄所では。

水穂たちがタクシーで帰ってくると、玄関に草履が一足置かれていた。足の大きさから、また須藤聰がやってきたんだなとわかった。

「あ、おかえりなさい。須藤さんが来てますよ。」

迎えてくれたのは、懍である。

「へ?ブッチャーがまた来たの?タクシー代かからないのか?」

水穂に連れだって一緒にやってきた杉三が、驚いてそういった。

「ええ、何でも、新しい路線バスが開通したので、それに乗れば比較的安価に来ることができるようです。」

「ああ、そう言えば、天間地区を巡回する路線バスが今月から開通したと、新聞に書いてありましたね。」

水穂もそういった。と言っても、そんな山奥にバスを作って、何人の人が利用するのか、果たしてわからないのだが。

「もしよろしければ、お話してみますか?」

懍はそう言ってくれた。すぐ寝ろではなくてよかったと思った。

「勿論、疲れているのなら、横になったままでも結構ですよ。」

「あ、大丈夫です。とりあえず応接室へ行きます。」

「わかりました。それではそうしてくださって結構です。しかし、疲れたらすぐに休むことをお忘れなきよう。」

こういう風に、一応本人の意思を確認してくれるのは、やっぱり青柳教授はすごいなと思う。確かに条件はあるけれど、こうしてくれたほうが、自身がさほど劣等感を感じることはない。

「杉三さんも入りますか?」

「当り前だい。最後までしっかり確認してから帰るわ。」

当然のように言う杉三に、

「じゃあ、お二人ともどうぞ。」

懍は、応接室へ通した。

「おい、ブッチャー。元気かい。てか、元気ではなさそうだな。また売り上げが落ちたのかい、銘仙の。」

杉三が入ると、聰がうなだれて椅子に座っていた。

「どうしたんですか。そんなに落ち込んで。」

水穂が心配そうに声をかけると、

「いや、ネット販売で簡単着物の販売を開始したんですが、銘仙と書いてしまうと、注文が激減してしまって悩んでいます。今日は頭を冷やしに来させてもらいました。」

と、聰はがっくりと落ち込んでいるようである。

「そうですよね。今は、インターネットでわからない単語をすぐに調べることができますからね。僕は見たことないですけど、結構偏見に満ちた記述があったと聞いてますよ。」

「すみません、水穂さん。俺、いけないことを言ってしまいました。」

「いえ、かまいません。それで馬鹿にされるのは、歴史的な事情なので仕方ないことです。」

「もう、素材なんてまじめに書くから悪いんだ。そんなもの、はじめっから不詳にしておけ。そもそも銘仙自体が、当て字だったとカールおじさんも言っていたぞ。だから、あえて出す必要もないんじゃないの?」

杉三が横から口をはさんだ。

「はい、そうですよ。銘仙が発見されたときには、特にブランド名はなかったそうです。最初に売り出したのは三越ですが、とにかく部落民の着用していたという事をしらせないために、縁起のいい字をつけて、ブランド化したと聞いてますよ。」

「あ、なるほどね。だから銘仙なのね。名前だけはかっこいいよね。」

「でも、ちゃんと、素材を書いておかないと、洗濯に困るんじゃないですかね。」

「ばーか。洗濯は普通にクリーニングで大丈夫、くらいで十分だ。大体、正絹すら気にしない人のほうが多いんだから、わざわざ危険信号を出してどうする?それじゃあ、売り上げは落ちるわ。」

「あんまり、歴史的なことを載せてしまうのもまた困りますよね。」

とにかく、扱いはややこしいブランドなんだなということもわかる。

「わかりました!そのように書き直します。でも、インターネットでは、どのように簡単なのか、想像がつきにくいという苦情も多いんですよ。レポートがもう少したくさんあればいいんですが。」

「確かに、文字だけではわからないですよね。着物自体そうですから。」

水穂は苦笑いした。

「だから俺、一度展示会をしたいなと思っているんです。この前沼津で開催された展示会のようにね。同じ会場を調べてみましたが、利用料金が高すぎで。どこかに安い会場がないかなあ。」

「ブッチャーの悩みは尽きないね。」

杉三がそんな事を言った。でも、彼はきっと悩んでいるほうが人生楽しいだろうなと、水穂は何となく感じた。

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