本篇8、びいふんのある店

増田朋美

その一

びいふんのある店

その一

富士の隣に、沼津という町があった。富士に比べるとかなり大きな大都市として有名で、中には東京へ直通できる電車が存在し、観光名所としても有名な御殿場へ行く電車も、本数はわずかながらついている。バスも、たくさん走っているし、はずれの方へ行けば、水族館などもあって、県外から人が訪れることもある。少なくとも富士よりは、住みやすいと言ってよいだろう。

そういうわけだから、富士の駅前商店街よりはるかに商店街は活気があった。駅の北口にも南口にも商店街は連なっていた。食べ物を売っていたり、着るものを売っていたり、文房具を売っていたり、実にいろいろな店がある。富士の商店街が、ほとんど居酒屋と女郎屋で占められているのとはわけが違う。

要は、富士の商店街にないものがここにはあると言っていいだろう。車社会でもあるから、ちょっと車を走らせれば、すぐに着くから、いろんなところから人がやってくる。電車も東京から直通するから、県外からも来れる。いろんな面で恵まれているこの沼津市。地図をみても、隣接する富士市に対して、どうだ、俺はすごいだろとでも言いたげに、富士市を腕組みをしてにらみつけるように立っている。他に、これほど広い面積を持っている市は少ないので、もしかしたら静岡県東部では帝王と呼ばれる市なのかもしれない。

しかし、その王者の都市も時代が変わって、いつの間にか商店街の運営者も変わっていき、北口は、コンサートホールが建設され、南口にあった大百貨店も撤退してしまった。

そうなると、自動的に店たちは移動を迫られ、商店街は以前あった商店街よりもかなり変わってしまったのである。

「いやー、面白かったねえ。でも、最近の着物は日本の吉祥文様のルールを忘れていてなんだか嫌だねえ。」

そんな事を言いながら、杉三と水穂が、駅前商店街を歩いていた。丁度駅近くの大きなコンベンションセンターで行われている、着物の新作展示会に参加したのだ。

「まあねえ。でも少しでも安く提供しようとする取り組みは悪くないと思うけどね。」

水穂が言ったような感想が一般的だと思うのだが、

「だめ。いくら安くても日本の伝統品だということは忘れちゃいかん。」

と、杉三は言った。

まあでも、そうなると、全く手が出なくなってしまうのが、日本の伝統品であるのだが。

今の時代、日本人は日本にいながら、日本人でなくなってしまったねえなんて、カールさんが漏らしていたこともある。それくらい、昔の人と今の人は変わってしまっている。

それなのに、変なところで伝統が生きていて、それとあたらしく西洋からもたらされた思想とが、ガチンコバトルを繰り返し、若い人がそれに巻き込まれて、精神疾患にかかるなどの被害が出る。時に、死亡者が出ることもまれではない。しかし、日本政府は全く対策を施していないのだけど。

どっちかに行ってくれないかなと思うが、どっちもできないのが、今の日本の現状であった。

「まあいいや。これはいつになっても解決しないよ。とりあえず、駅へ戻らなきゃ。」

「駅へ行く前に何か食べようぜ。それより腹が減った。」

「そこだけは素直だね、杉ちゃんは。」

思わず苦笑いする水穂だった。

「素直だっていうか、お天道様が真正面にくるから、昼飯の時間だよ。」

まあ、確かにそうだ。今日はよく晴れているので、太陽の位置がよく見える。まさしくその通り、きんこんかんと正午を告げる鐘が鳴った。

「ほら、時間もぴったりだ。何か食べてから帰ろうや。」

「しかしねえ、食べるものが何もないよ。」

水穂は正直に言った。とはいうものの、そこは商店街だから、食堂は数多くあった。それに、多くのサラリーマンが、食事を求めて行列を作っていた。なにもないということはない。

「じゃあ、行列のなるべく少ない店を探そうよ。」

「そういうことじゃないよ。このあたり、ラーメンの激戦区だから、食べるものがないんだよ。」

廻りを見渡すと、確かにあるものはラーメン屋さんばかりだった。ラーメンというものは凶器であることは杉三も知っていた。ずっと前、ある店に行って、失敗したことがある。

「でもさ、チャーハンとかそういうものもあるから、大丈夫じゃないの?」

まあ、確かにそれはそうであるが、油の質や中に入っている具材によっては、凶器になることもあった。

「一番安全なのはかっぱ巻きだが、このあたり、すし屋は一軒もなく、みんなラーメン屋さんになってしまったと思ったな。」

その通りだった。沼津市長のプロジェクトだか何かで、ラーメン通りが建設され、すし屋が撤退したと聞かされている。

「そうだけど、野菜チャーハンとかそういうもんを食べれば大丈夫じゃないの。それよりさ、もう腹が減ってたまんないよ。今から製鉄所に戻ったら、ぶっ倒れちゃうんじゃないの。」

「杉ちゃんのご飯の時間は時計より正確なんだね。だけどさ、これくらいの行列では、待ってるだけでもかなりの時間がかかるとおもうよ。」

どの店も、長蛇の列ができていた。待っていたら確かに30分は待たされそうだ。

「そうか。やっぱりだめか。」

「ごめんね。塩ラーメンでも食べられればよかったね。」

待つことはさほど苦ではないが、ラーメン屋さんに入れないのが申し訳ないなと思った。そもそもラーメンと言えば、原料の小麦がまず第一の、そしてスープに使う醤油が第二の凶器になる。せめて醤油のない塩ラーメンでも食べられればいいのだが、それすらも食せない。杉三が例として挙げてくれたチャーハンも、完全に安全とはいいがたいし。なんでも安全第一主義にしてしまうのは、まだ早い年齢なのは知っているが、大迷惑をかけてしまうよりはいいと思っている。

「おい、この店は、行列してないぞ!」

不意に、杉三が、裏通りにある小さな店を指さした。

「ほら、やっぱりあるじゃないか。表ばっかり見るからダメなんだ。絶対にラーメンを食べれない人はいるんだから、そういう人たちに支持される店はきっとある。」

と言って、杉三はどんどん車いすを動かして、その店の前へ行った。急いで水穂もそのあとをついていった。何を食べさせてくれるのかと思って、看板に書いてある文字を読んでみると、

「安藤米粉店、、、。」

と書いてある。となりに平仮名で、

「びいふんが食べられる店。」

とも書いてあった。水穂は声に出して読んだ。

「あ、ビーフンの事ね。これなら絶対大丈夫だ。すぐ入ろうぜ。これでやっとご飯にありつけた。」

「でも、看板に書いてあるけど、粉屋さんでは?」

「違うよ。水穂さんは、ビーフンの事知らないのかよ。」

それが、よく言うビーフンの事だと理解するのに少し時間がかかったが、確かに中国語ではビーフンの事を米粉と書くのだとやっと思い出した。そういえばそうだった。英語ではライスヌードルと言って、うるち米を粉にして、ラーメン様に加工した麺料理がある。ビーフンとはその一つである麺のことだ。まあ確かにコメが凶器となったことは一度もない。かっぱ巻きだって、コメでできているのだし。

「よし、入ろう。もう、腹が減っては、戦はできないから。」

といって、ガラッと入り口の戸を開けて、杉三は店に入ってしまった。水穂も、戦なんて極端なことをいうなと言いながら、店にはいった。

「なんだ、昼飯時なのに誰もいないじゃん。おい、伯父さん。お客さんだよ。何か食べさせてよ。」

ところが、店の中はしーんとしていて、設置されているテレビだけが、うるさく鳴っていただけなのであった。店は小さなテーブル席と、奥に座敷席が設置されているのみ。座敷席には床の間も見られ、中華料理屋というよりも、和食屋という感じがしてしまうのである。

そして、そのテーブル席の一つに、しょぼくれたおじさんが、一人で座ってテレビを見ていた。

「おじさん!二人来たぜ!あ、もしかして全聾だったんかな。でも、それならテレビなんか見ないはずだな。」

杉三がそういうと、おじさんはやっと気が付いてくれたようで、

「はい、いらっしゃいませ。こちらへどうぞ。」

と言い、二人を隣のテーブル席に座らせた

「ちょっとお待ちくださいよ。」

そう言って二人の前に、ほうじ茶が置かれる。

「あ、僕、できれば水のほうが、」

水穂が訂正するが、

「ほうじ茶だから多分大丈夫。玉露じゃないから。」

と、杉三が急いで言った。

「あ、わかりました。ちょっと待ってくださいよ。今出しますからな。」

と言って、おじさんは氷を一杯入れた水を持ってきてくれた。本当は氷なんて必要ないのだけれど、ずいぶんきれいなグラスなので、それが結構調和して、入れたほうがかえってよかった。

「へえ、これ琉球硝子か?きれいなもんだな。確か、沖縄で米兵が落っことしていったビール瓶を、住民がこういう風に加工したのが始まりという。」

「よく知ってますね、お客さん。じゃあ、お客さんにもお出ししましょうか。」

メニューを置きながら、おじさんが杉三に言ったが、

「あ、いい。僕はお茶のほうが好きだ。それより、お品書きの内容を読んでくれ。僕、読み書きができないので。」

杉三は当たり前のようにそういう。時折変な顔をする従業員も少なくないので水穂は心配したが、おじさんはさほど変な顔はしなかった。まあ、外国の芸能人が自分は読み書きができないと告白するのが最近はやりだから、それを知っていたのだろう。

「杉ちゃん、読むのならやるけど?」

「いいよ。おじさんに説明してもらったほうが早いよ。そのほうがここの名物をいち早く聞けるでしょ。」

そういう楽しみもあるのか。杉ちゃんいいな。いろんなものが食べられて。少なくともこのお品書きには、いろんな種類のビーフン料理が掲示されているが、自分が食せるとなると、一つか二つしかない。

「それに、君にとって食べ物の名を口にするのもつらいでしょう。」

「そうなんだけどね。」

事実そうなので、苦笑いする。大体、どこの店でも注文するのは杉三である。食べ物の話はつらいだろうからしなくていいよ、なんていつもニコニコしていってくれるけれど、すし屋であればそれは通じる。しかし、こういうときは、隣でおじさんと一緒に食べ物の話を切り出すんだろう。まあ、生まれつきの事なので、気にすることはないのだが、辛くないのかというとそうは言えない。

「おじさんよ。まず教えてくれ。この中で肉魚一切抜き、醤油も油も使わないで、安全に食べられるものはどれなんだ。口で言われてもわからないので、指さしてくれると嬉しいな。あと、できれば、次に来た時のために、写真を撮っておいてくれると嬉しいんだけど。」

「杉ちゃん、そんなにべらべらと、言うもんじゃないよ。」

礼儀上言えばそうなるんだが、杉三にとってそんなこと言っても通じないのは知っていた。

「何を言うとるんだ。君にとって、本当に一大事じゃないの。大事なことは一番先に言っておく。後になって説明したら、余計な弁解をしなければならなくなって、更に面倒なことになる。ま、言ってみればぼろは最初に見せておけ、だ。相田みつをさんは天才だ。」

杉ちゃん、すごいね。そういう事を平気でいえるなんて。日本人は隠す文化だが、こうして大っぴらに見せびらかしてしまうのもすごいよ。

「あ、わかりました。そうなると焼きビーフンは避けたほうがいいですね。このね、塩味汁ビーフンというのはどうですか。まあ、醤油を使わないとなると、ちょっと限られてきちゃうんですが、その代り、野菜を大量に入れて、つまらなくないように工夫してあります。」

「あ、ちゃんぽんみたいな感じだね。」

「そうですね。塩味って、つまらないという人が多いので、ちょっとかわいそうなメニューかなと思って、具材を面白くしました。」

「よし、水穂さんにそれ出してやってくれ。そして僕はどうしようかなあ。ま、一番粗末なものでいいや。」

一番粗末って、そんな失礼な言い方をするものではないと思ったが、杉ちゃんには多分他の語彙は思いつかないと思う。

「わかりました。じゃあ、豆もやしビーフンはいかがでしょ。」

文句言わずに対応してくれるおじさん。申し訳ないくらいだった。

「じゃあ、それ頼むぜ。」

「わかりました。ご注文を確認させていただきますね。豆もやしビーフンと、塩味汁ビーフンですね。では、しばらくお待ちくださいませ。」

おじさんは伝票に商品名を丁寧に書いて、厨房のほうに歩いて行った。

「へえ。ずいぶん丁寧なおじさんだねえ、、、。ぼへっとテレビ見てて、なんかしょぼくれててさ、大丈夫かなと思ったの。だから、ああして試してみたというわけさ。自分の商品にどれだけ自信があるかどうか、テストしてみたかったんだ。それが、商売繁盛への決め手かな?」

「まあ、それも確かにそうだけど、、、。」

「だって誰もお客さんがいないから、大丈夫かと思って。昼飯時なのに、繁盛しないのは、なんかおかしいだろ?」

確かにそうなのだが、わざわざテストしてみようという気になるのもすごい。

「ちょっとごめんね。」

後を振り向く前に、魚のにおいとよく似た液体のほうが先に出る。本来、向かい合って座るときは、向きを変えて咳をするのが一般的だが、そんな暇も与えてくれない。

「ああん、またやる。朝飲んだのがそろそろ切れたんかね。ほんじゃあ、何か食べてすぐに飲まなきゃだめね。だから、製鉄所に戻るなんてことはしたくなかったんだよ!」

図星か。杉ちゃんに、はじめからそういうこと読まれていたのか。なんか、文字は読めないけれど、他の事を読むのはすぐにできちゃうんじゃないか?ほかにも、考えることはあったはずなんだけど、咳に邪魔されてそれすらできない。青柳教授が、自己管理くらいしっかりするようにというけど、強いのは飲むと眠くなって一日中寝てしまうことになるので、よほどのことがない限り使いたくない。

幸い、指を汚した程度で、床まで汚すことはなかったが、もしそうなったら確かに余計な弁解が必要で、あらかじめ杉ちゃんが説明してくれてよかったと思った。

「これで拭きな。」

杉三から渡された手拭いで指を拭く。小さくごめんと言ったが、

「謝んなくていいよ。しょうがないよ。ご飯を食べたら急いで帰って、休ませてもらえよ。」

と、責めたり、謝罪を要求することはしないのも杉三である。

「はいどうぞ。塩味汁ビーフンです。食べるのがおつらかったら、無理しなくていいですよ。まあちょっと、熱いかもしれないから気を付けて食べてくださいよ。」

おじさんが、水穂の前に器を置いた。

「へえ、結構栄養ありそうな。よし、しっかり食べろ。」

「はいこっちは、豆もやしビーフンですね。」

杉三の前にも皿が置かれる。一番粗末というが、もやしが大量に入っていて、とてもそんな表現はふさわしくない。

「いただきまあす!」

箸をとって、杉三はがつがつと食べ始めた。水穂も箸をとってビーフンを口にした。

「うまいうまい。うまいなあ。これ、結構いけるよ。味付けもしっかりしてるし、麺もこしがあってしっかりしている。」

確かにその味は、水穂も馬鹿にしてはいけないなと思われる味だと思った。

「まだ心配か?大丈夫だよ。お米の粉だから、安心して食べれるよ。ご飯と一緒だと思ってね。」

原料こそそうかもしれないが、どこか平打ちのうどんに近い食感で、ビーフンとはわからないくらいである。

「ほらあ、食べろ。それとも血が出て食べれないんか。そうしたらまた、相談してこなきゃならんね。」

「はい。」

幸いそれ以上の吐き気は生じていなかったが、なんだかビーフンなのか平打ちのうどんを出されているのかはっきりしないため、不安だったという気持ちもある。

通常、ビーフンというと、基本的に細麺で、おそうめんに近いような麺だったような気がするので、、、。

「これは、ビーフンというか、タイビーフンだ。タイでは、こういう風にうどんに近いビーフンが食べられるんだ。日本ではほとんど知られていないけどさ、ビーフンの種類は千差万別。中には、君みたいな病気の人のためと称して、ペンネとかコンキリエを真似したビーフンだってあるよ。」

「まあ、それは知っている。杉ちゃんが、前に買ってきたことがあったね。正直、びっくりしてしまった。パスタなんて一生食べられるもんじゃないと思っていたから。あと米粉で作ったケーキを焼かれたときもびっくりした。」

「タイ語で言ったら、びーふんじゃなくて、せんやいというそうなので、商品名をかえて、混乱しないようにすることだね。だから、この店が繁盛しないんだ。とりあえず、完食するまで食べないと、薬も効かないよ。」

そうだね。こうなったら、そう信じ切って食べるしかなかった。味だって申し分ないんだし、ちゃんと栄養面を考えて作ってくれてあるんだから。それに今まで杉ちゃんが人をだますようなことをしたことは、一回もない。

最後の麺を口にしたが、確かに吐き気も何も生じなかった。と、いう事はうどんではなかったんだとやっとわかる。

「はい、こちら伝票でございますよ。ど、どうでしたかねえ、、、。種明かしをすると確かに、お客さんが言った通り、タイビーフンを使わせてもらっています。店を出すとき、アジア各地のビーフンを研究して、このスープには平打ちのビーフンのほうが合うなと思ったんですよ。」

おじさんが、伝票を持ってやってきた。ということは、看板のビーフンが食べられる店というのは間違いではなかったということである。

「へえ、いいじゃん。よく研究して、もっと立派な店にしてください。彼のように、必要とする人は少なからずいる。もう、周りのラーメン旋風に押されてぶっ壊れそうになっても、彼の顔見て思い出してくれれば幸いです。」

杉三が即答した。まあ確かに、芸能人にも引けをとらないこの顔であるから、忘れるのはなかなか難しいと思われる。

「そうですね。ありがとうございます。店を出した当初は、ビーフンではなくせんやいで販売していたんですよ。でも、意味がわからないとからかわれて、ビーフンに書き直しました。」

「あそう。それが間違いだったよ。それじゃあ商品名偽装だよ。ちゃんと、正式名称で販売しないとまずいでしょ。」

「そうなんですけどね。ケチャップ味のみーふんごれんとか、カレー味のイディアッパムとか、はじめのころは正式名称で出していましたけれども、変な片仮名名を出されてもわけがわからないと苦情が出てしまって、それではだめだと思ったんですよ。こちらでは米の麺なんて、普及していないでしょ。まずそこから説明しなければ、何も始まらないので、、、。それだったらある程度、一般的に普及しているビーフンと呼んだほうがいいのかなと。」

まあ、そうである。アジアでは、小麦ではなく米で麺を作る国家は多いが、日本ではラーメンが普及している以上、説明が難しいと思う。

「普及していなくたって、混乱させてはだめだよ。このわかりにくいお品書きを改造してさ、写真付きにして、ちょっと解説文句を入れればいいんだよ。いいか、必要とする人は少なからずいるんだから。」

「そうですね、、、。でも、商店街からは撤退を命じられていて、今年中にはしようかなと思っているのですが。」

おじさんは残念そうに言った。

「なんでだよ。必要とする人は少なからずいると言ったはずだぜ。少なくともまた来月に展示会は開催されるから、僕らはまた来るよ。水穂さんだって、安心するだろ。沼津に来たらこの店に来ればいいんだってさ。」

「もうちょっと早く来てくれれば、何とか持ち直せたかなと思ったんですけど、もう、この一帯を全部ラーメンで統一することが決定してしまった以上、撤退は止むをえないことだと思います。」

おじさんは残念そうに言った。

「沼津は大都市ではあるのですが、その代り派閥争いが大きくて、結構店の興亡が激しいところだったもんですからね。市長さんが、観光促進目的で、商店街の統一を進めていて。」

「頭の悪い人だね。こういう少数派もいるってことに気が付かないんだからね。」

杉三はそう言ったが、

「東京なんかではよくあるよ。一年も店が持たないの繰り返しで、観光客がまた来ようと思ったら、すでにつぶれていたとか。そのせいでかえって観光客が遠のくから、その対策として、テーマ別のエリアを作ったんだろ。」

と、薬を飲んだ水穂がそういった。

「お馬鹿な市長だね。やっぱり政治家ってそうだよね。表沙汰の利益になるところしか見ないで、権力で勝手に何かする。」

「面白いお客さんですな。まあ確かに沼津は最近の風評被害で観光客が減少してますから、その対策なんでしょう。現に、ここを捨てて、安全な場所へ移民してしまう人が後を絶たないようです。ほら、この間大きな地震があって、非常に大きな大津波が発生したじゃないですか。あの後、静岡県が各市町村に調査をさせたところ、沼津は津波で被災する可能性がワーストワンだったそうで。」

「へえ、そんなこと初めて聞いた。ってか、どこ行ったってやられるときはやられるわ。災害は地震ばっかりじゃないじゃないか。きっと、近いうちに、市民全員防災頭巾をかぶって武装してさ、町のいたるところに防空壕が設置されてさ、大雨警報があっちこっちで放送されて、戦時中と変わらない生活をしいられる時代がやってくるぜ。それが進めば、きっと原始時代に戻っていくと思う。」

「本当に面白いこと言いますね。どこかのSF漫画でも読んでいたのですか。お客さんは。」

「知らない。僕が覚えたことは皆、馬鹿の一つ覚えでできている!」

「すみません、店主さん。杉ちゃんこういう話をすると止まりませんから。もう、どっから来たのかっていうくらい、原始時代の話をしたがるんですよ。」

水穂は、申し訳なさそうに言った。蘭であれば、言い過ぎだから謝罪しろと言えるのだが、自分には、そこまでできる強さはなかった。

「いえいえ、かまいません。久しぶりにお客さんが来てくれただけではなく、こんな面白い話をしてくれたので、今日は楽しかったです。お客さんも、食べるものが限定されて、本当にお体がお辛いと思いますけど、頑張って生き抜いてください。厳しい意見も出ると思うし、時には冷たい目で見られることもあるでしょう。まあ確かに、お客さんみたいな病気の人は、理解されるのも非常に難しいと思うんですけど、生きているって、そういう事でもあるのかなっていう気もするんですよ。」

「おじさん、父ちゃんみたいなこと言うんだね。」

不意に杉三がそういう。

「父ちゃんって、本来、頑張って生き抜けと背中を押すとか、そういうことしてくれる存在だって、青柳教授が言ってた。昔の父ちゃんはそれができてたけど、今は全くできてないからダメなんだってさ。まあ、僕も父ちゃん亡くしているから、果たしてどうなんだかわからないけどさ。」

「いや、それについては、本当にダメ人間です。」

再びしょぼくれてしまうおじさん。

「どういうことですか?なんで僕がこうであるとお分かりになったのです?」

水穂も聞いてしまう。自分みたいな疾病にかかる人は、今は非常にまれである。

「そうそう。労咳と勘違いされて、馬鹿にされることも結構あったよね。今時かかるもんじゃないし、かかってもすぐに治っちゃうとか言ってさ。正岡子規じゃないだろとか結構言われたよな。」

杉三が口をはさんだ。明治時代には死病として君臨していた労咳は、今は全く大したことはないとされてしまっている。ただし、症状はそっくりなので、何かあれば必ず勘違いされてしまう。そして、労咳にかかるなんて、よっぽど不衛生なところに行ったなとか、挙句の果てに同和地区にはまだ労咳というものがあるんじゃ、いくら美男子でも汚いなとかからかわれたことも数多い。だから、病院に入院するのは嫌なのである。

「はいはい、わかってますよ。今時労咳なんていう言葉は流行りませんよ。ですから、それは頭から除外しておかないと。食べ物を限定したりとか、醤油がどうのなんて言ってましたから、もう、直感的にわかりました。」

「へえ。じゃあ身近な人が、似たような症状を出したんかね。」

「身近というか、うちの息子がそうだったんですよ。小さい時からラーメンもパスタも禁止されて、学校の先生とも何回も話しあったりして、大変だったんです。おかげでひどいいじめにあってしまって、最終的には不良たちから無理やりラーメンを食べさせられて、翌日に大喀血による窒息死で逝ってしまいました。もう、憧れの中学校にも進学できなかったなあ。」

「そうだったんですか。ごめんなさい。失礼なこと聞いてしまって。」

思わず、頭を下げてしまった水穂だったが、

「いや、やっと仲間ができたんだから、喜べばいいんだよ!それに、ちゃんと教訓を施したというのがすごいじゃん。なるほど、それで商品をビーフンに特化した店を出したんか。だったら、必要としている人がいるって言ってさ、営業を続けさせてもらってよ。それに、日本では清潔志向が強すぎちゃって、こういう過敏すぎる人は増加すると青柳教授も言っていたよ。すでに海外では問題になっているんだって。原住民のほうが免疫力は意外とあるって。だからおじさんも、現代文明の警告灯として、堂々としていてくれればそれでいいの!」

選挙演説するみたいに杉三が言った。本当はそうなんだけど、そうなってくれることは、文字通り大地震でもおこるか、大雨でも降ってくれて甚大な被害が出ない限り気が付かないだろう。でも、気が付かないでさらに悪化し、大量虐殺とかに発展していくほうが多いと思われる。

「杉ちゃんありがとうね。」

そう言ってしまった水穂だった。

「でもね、権力者には逆らえないよね、、、。そうでしょう。」

「はい。」

はっきりと答えを出すおじさん。それがすべてだった。


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