第29話 魔術士の落胆
アクア・マリンドールは慌てていた。似たような錆びた倉庫が並ぶ港の一角。気づかれないように尾行していたケベルの姿が突然消えてしまったのだ。
ケベルは何かを隠している。そんな予感がしたアクアは魔天楼閣時代の信頼できる友人に問い合わせ、ケベルの経歴を調べてもらった。すると、重大な事実が判明した。
ケベルの卒業した魔術学校、卒業後の赴任先、そしてこのアルムウォーレンに転勤になった理由。
全ての経歴が自分に伝えられていたものと違ったのだ。街の私塾から努力を重ね、魔術都市サルカエスの魔術士協会本部で働いていた、と聞いていたが、実際は魔天楼閣と犬猿の仲の魔術学校、閻魔導城の出身であった。
「お前、嵌められたなぁ」
伝話の先で旧友は笑った。
「魔術都市から離れても、お前が魔天楼閣を首席で卒業したって事実は変わらねえからなぁ。お前を陥れて、利を得ようとする不届きな連中ってのはごまんといるわけだ。どうせ、そのケベルとかって部下もお前を陥れるために炎魔導城から送り込まれた輩だろう。辺境の地で羽根を伸ばすのもいいが、背中には気をつけろよ。何か企んでるかもしれん」
懐かしい友は自分を心配してくれていた。
アクアは自分の浅はかさを恥じた。友の言う通りだ。いくら魔術士協会の腐敗や出世争いや派閥抗争から目を背けてみても、世界が変わったわけではないのだ。魔術後進都市であるアルムウォーレンにやってきて、これからは平穏に過ごしていけるなどと思ったが、それは幻想であった。
自分は目を背けても、自分が捨てた世界は自分から目を背けてはくれない。自分はまだ魔術士たちの陰湿で冷酷なあのドス黒い憂鬱な渦の中から一歩も抜け出していなかったのだ。この街に来れば何もかも変わるなんて思い違いをしていた。部下とはいえ、安易に心を開くべきではなかった。
この一ヶ月のケベルとの思い出が頭をよぎる。出会って間もないが、彼女は熱心に働いていた。最近の若者らしく個人主義ではあるが、道で困っている子供に優しく道を教えているところを見たこともある。
飲み屋にも行った。これから一緒に頑張ろうと誓い合った。それらが全て嘘だったとは、信じたくない自分がいる。
ケベルは酔うとグデンと机に頬をつけて、回らない口で語っていた。
病気の母に迷惑をかけまいとバイトで金を貯めて魔術学校に入ったことや、勉強の合間にも働いて母の治療費を捻出したこと。
ケベルは早く結果を残して魔術都市サルカエスに戻って親孝行したいのだ、と顔を火照らせながら話していた。
今となってはどこまでが本当で、どこまでが嘘だったのかわからない。だが、裏切られたとわかっていても、あの時のケベルの瞳や、共に頑張ろうと誓った笑顔を思い出すと、やるせない気持ちになる。
自分を貶めようとする組織から派遣されている相手に貴重な魔道具を盗まれ悪巧みをされているというのに、それでもたった一人の部下のことを憎めない自分が情けなかった。
甘さと優しさは違う、と学生時代に先生によく叱られた。敵に手心を見せると付け込まれると、再三言われた。でも、言われたからといって簡単に直せるものでもない。出世や派閥争いのために、平然と嘘をつくことは自分にはできないし、今更だけど、やはり自分には魔術士は向いていないようだ。
もし、魔術を二度と使わないことを誓い魔術士協会を脱退したら、こんな思いをしなくていいのだろうか。
かつて共に学び、そして袂を分かつことになった友のことを思い出す。
トオル・エメラルド。君なら今の僕を笑うだろうか。魔術士の世界がこうも濁っていることなんて、最初からわかっていたはずなのに、それなのにその世界でもがいて、もがいて、もがき疲れて、今更嫌気がさした自分を、彼はあの翠玉色の瞳で見つめて、なんと言うだろうか。
……ともかく、感傷に浸るのは後だ。ケベルが悪事を働く前に止めなければ。ぐっと奥歯を噛みしめる。
立ち並ぶ倉庫の列。太陽は海と混じりながらも、溶け落ちることはなく、橙色の夕焼けを残したまま水平線を滑っていく。伸びる影を連れてアクアはケベルを探した。
定時に事務所を出たケベルを尾行してやってきたのがこの港だ。人気はない。こんなところに何の用だ。
閑散とした倉庫街はひっそりとしていて似たような倉庫が連なっている。迷いながらケベルの行方を追った。
向こうで海鳥たちが一斉に飛び立った。アクアが白い鳥たちの飛び立つ方角を見ると、稲光のような激しい明滅とともに轟音が響いた。
「……これは魔術だ。誰かが戦っている?」
手前の倉庫が邪魔で正確な位置はわからないが、ここからそう遠くない場所で争いは行われている。魔術の反応はいくつか。少なくとも二人以上の魔術士が魔術を打ち合っていることになる。どんな状況であれ魔術を駆使した戦闘が行われているとなれば、魔術士協会的には大問題である。
せっかく新しい支部をこの水上都市に作って、
「ともかく急がなければ……」アクアは駆け出した。
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