第10話『刑法百七十七条』2


「…………」


「…………」


 お互いに黙った。


 けれど僕と彼女で決定的に違うところがある。


「…………」


「じ~っ」


 どうしようもなく見られているのだ。それこそ彼女自身が擬音を口にするほど。視界の端にちらついてしょうがない。僕は諦めてもう一度彼女の方に向き直った。


「……何かな?」


「お兄ちゃん、暇?」


 質問が質問で返されてしまった。


 疑問文には疑問文で答えろと学校で教えているのだろうか。


 まぁいい。その辺りを追求してしょうがない。


「ふーむ。どうだろう?」


 それにしても百墨真白は暇なのか。これは難しい問題だ。


 華黒の買い物を待つのも一つやるべきことではあるけれど、だからといって今この時間を持て余していることもれっきとした事実だ。


 忙しいのか。暇なのか。


「うーん、スプリットデシジョンで暇の判定勝ち?」


「うむ?」


 幼子には理解できなかったようだ。


「ごめん。気にしないで。暇ではあるけどここは動けない。そんな感じかな」


「ガールフレンドとデートの待ち合わせとか?」


「だったらどんなによかったか」


 映画俳優ばりに肩をすくめてみせる。


 華黒がどう思っているかは知らないけど、僕としてはただの家族サービスだ。


「もしかして待ちぼうけくわされてたり?」


「相手は恋人じゃないけど、一応そういうことになるかもね。韓非子の守株待兔ほどではないにしろ」


「しゅしゅとりあん?」


 どうしてさ。


 “しゅしゅ”しか合ってないじゃないか。


「北原白秋と言えばわかるかな」


「だーれ?」


「待ちぼうけって歌知らない? 最近の小学校の教材曲なんてわからないけど」


「あ! 待ちぼうけ~♪」


 知ってたようだ。


「そう。待ちぼうけ~♪」


 僕も続けて歌ってみる。


「えへへ~♪」


 何が嬉しかったのか。彼女は破顔一笑した。


「えへへ~♪」


 合わせるように僕も笑ってやる。


 子供をあやすときのコツは相手のテンションに同調してやること。これに尽きる。


 そうやってひとしきり笑った後、少女はとぼけたように問いかけてきた。


「ねぇ、何の話してたっけ?」


「僕に聞かれても。君から話しかけてきたんじゃないか」


「そうだっけ?」


「違ったっけ?」


 あれ。僕の勘違いかな。


「ふむふむ、一分前のコミュニケーションに対して重大な記憶の欠落がみられる。アルツハイマー型認知障害の恐れあり、と」


「何にメモしてるのさ!?」


「何って……ヘミングウェイちゃんも絶賛したモレ○キン手帳? 世界に羽ばたけ白い紙」


「いやいや」


 誰がメモ帳の社名を教えてと言ったか。


「そうじゃなくて、何を記録してるのさって聞いてるの」


「若年性アルツハイマーにおける下限年齢域の低下を提唱するための統計実験?」


 いやに難しい言葉を知ってる小学生だこと。


「語尾が疑問系なのはおいといて、それはどんな学会に売り込めばいいんだろう」


「ううん、記者クラブに」


「発表しちゃえばデマも真実……」


 くれぐれも国家の利益を損なう報道はしないように。


「ってそれも違う。あのね。話を進める気、ある? ないならこっちにも考えがあるんだけど」


「どんなー?」


「たとえばこのメモ帳は没収するとか」


 埋めがたい身長差を利用して、上から摘んでそのままヒョイと釣り上げる。意地悪してるみたいで気が引けるけど常識の範囲内だろうと自己完結。けれど相手は納得しなかった。


「あーん、返してよー」


 可愛らしい両手を精一杯伸ばして何とか取り返そうとしてくる。


 足りない高さを補うためか、僕の頭や肩に手をかけてよじ登るのだと齷齪、……するのはいいんだけど、


「ちょっと、おっぷ……!」


「返してってばー」


 取り返すこと以外に気が回っていないのか。息が出来ないほど僕の顔と少女の体が接触しているのに彼女は気にした風もない。むしろ手よ届けとばかりに一層密着してくる。


「それはパパの……いなくなったパパの大切な……」


 続く言葉は意外にも悲痛のそれだった。涙声とはまた違うけど、彼女の言葉には必死さが垣間見える。


 ていうか父親の形見? 地味に重くない?


「あ、ごめん」


 さすがに気まずくなって素直に返してやる。


 受け取られる手帳と安心したような表情。少女は大切そうに手帳を抱きしめると吐息を一つついた。


「これは、パパの大切なものとは何の関係もない只の手帳なの」


「…………ほほぅ」


 つまるところ、


「もしかして僕、からかわれてる?」


「うん♪」


 そういうことらしい。


 屈託のない瞳をしてらっしゃった。


 泣いてもいいだろうか?


「よちよち。いい子だから泣かないの」


「自然な流れに納得しちゃいそうだけど、さりげなく僕の心を読まないでくれるかな?」


「それで、お兄ちゃん暇なの?」


「…………僕の発言はスルーかい」


 どこまでも弄ばれてるなぁ僕。


「……よし。もう些細なことは気にしないことにしよう」


「大人って大変だねー」


「そう思うのなら自重する。ついでに、さっき言ったように待ち人があるから君とは遊んでられないよ」


「嘘つきー。暇だってゆったじゃん!」


「そりゃ待ってるだけ暇ではあろうけど……」


「ならいいでしょー? 私とデートしようよ」


 逆ナン?


「知らないお兄さんについていっちゃいけないって学校で習ったでしょ。それにお兄さんの待ち人は怖い人だから、そんなこと言ってると頭から――」


「――食べられてしまうとでも仰りたいんですか?」


「…………あいやー」


 よくおわかりで。


「楽しそうですね兄さん」


「……あう」


 僕の後ろに黒い影。


「……華黒。買い物はもう済んだのかい?」


「ええ、兄さんが浮気している間に♪」


 影差す妹の顔がニコリと笑った瞬間、僕は脳内で遺書を記し始めた。

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