第2話 採用試験
国立劇場の歌手になるには、劇場が毎年行う歌手採用試験に合格しなければならない。
採用試験を受験するには、身分のある人の推薦が必要だ。どんなに実力があっても、貴族にコネが無ければ受験出来ない仕組みだ。
採用試験は課題曲と自由曲を三人の試験官の前で歌う。自由曲は自分で選べるが、課題曲はその場で与えられる。この二曲をきちんと歌えなければ、試験に合格出来ない。
採用試験が行われる一週間前、侯爵夫人は森の中のお屋敷からケルサの街にあるお屋敷に移った。
「森の中の屋敷では国立劇場に通えないでしょう」と侯爵夫人は、私が既に試験に受かったかのように言う。私は試験に落ちたらどうしようと不安になった。侯爵夫人は「あなたなら大丈夫よ」と励まして下さった。
採用試験当日。
私は侯爵夫人に付き添われて試験の行われる国立劇場に行った。
侯爵夫人は劇場の貴賓室へ、私は一人、受験生の控え室に入った。
受験生の中に見知った顔があった。イルマだ! 私は立ちすくんだ。イルマもまた、私を見つけ、どなった。
「この乞食女、さっさと出てお行き。ここはお前の来る所じゃないよ」
イルマが、私に飛びかかってきた。
「君、何をするんだ、やめたまえ!」
若い男の人がイルマを止めてくれた。
「離せよ、離せってば!」
イルマが掴まれた腕を振りほどこうともがいている。男の人は手を離して、イルマと私の間に立った。がっちりとした背中で私を庇ってくれている。
「君、この人と何があったか知らないが、受験の控え室で暴力沙汰は非常識じゃないか」
肩で息をしているイルマが怒鳴る。
「こいつは、隣の国から流れてきた乞食だ。一体、どうやってここに潜り込んだんだか。なんだい、そんなドレスを着て! どこで盗んだ! え! どこで盗んだんだ! さっさと出てお行き!」
イルマがもう一度、私に飛びかかって来た。
「君、やめたまえ!」
イルマと若い男の人が揉み合っている。私は叫んだ。
「盗んだんじゃないわ! 私、この人にヴェールを取られて、竜の平原に追い払われたんです! そしたら、助けてくれた人がいて、私の歌声を聞いて、国立劇場の試験を受けるようにって」
イルマがいきり立った。
「嘘だ! 嘘に決まってる!」
「嘘じゃないわ」
「じゃあ、誰の世話になってるか、言ってご覧よ! 言えないから」
私は黙った。
「ほうら、言えないじゃないか。ここはね、乞食の泥棒がいていい場所じゃないんだよ。さっさと出てお行き」
私は侯爵夫人の名前を出していいかどうか迷った。
「私ですよ。ギルの世話をしているのは」
控え室のドアが開いて侯爵夫人が騎士達と共に入ってきた。
「この騒ぎはなんです?」
「奥様!」
その場にいた受験生全員が、固まった。
「控えよ、こちらは、ローゼンタール侯爵夫人である!」
守りの騎士が大声で呼ばわった。
皆、深々とお辞儀をする。しかし、イルマだけが傲然と頭を上げて立っていた。
「ギル、大丈夫だった? さっさと私に世話になってるって言えばいいのに」
「あの、ご迷惑になったらと」
「律儀な子ね。遠慮しないで、何時でも私の名前を出していいのよ」
「奥様、ありがとうございます。これからはお言葉に甘えます。あの、どうしてここに?」
「召使いがここで騒ぎが起きてるって報せてくれたの」
侯爵夫人はイルマの前に立った。
「あなたが、騒ぎの元かしら?」
イルマは恐ろしい顔をして、侯爵夫人を睨んだ。守りの騎士がイルマの頬を軽くうった。
「女、なんだその目は! 控えよ」
イルマは悔しそうにしながらも顔を伏せ、腰をかがめてお辞儀をした。
「大変申し訳ありませんでした。お許し下さい」
「ほほ、いいのよ。あなた、名前は?」
イルマが黙っている。
「女、答えよ」
守りの騎士が怖い声で答えを促す。
「イルマ・モンザ、と申します」
後ろの「と申します」は、取って付けたように絞り出していた。
「そう、あなた、ギルを盗人よばわりしてたわね」
イルマが悔しそうに下を向いている。
「ギルは私が面倒を見ているの。このドレスも私がギルに与えたのよ。今回の試験を受けるように段取りしたのも私。これで、あなたの疑問も解けたかしら」
イルマがぎゅっと握った手をぶるぶると振るわせながらうなずいた。
「そ、良かったわ。……、あなたはどなたの推薦?」
イルマがさっと顔を上げた。真っ青だ。
「男爵には言わないで! あたし、捨てられる!」
「男爵? まさか、インゴ・フンメル男爵? さっき、インゴの従者を見かけたけど」
イルマが震えながらゆっくりうなずいた。
「いいわ、言わないでおいてあげる。あれは乱暴者ですものね。そのかわり、うちのギルにこれ以上悪さをしないと約束して頂戴。もし、あなたが約束を破ったら、インゴにあなたが控え室で騒ぎを起したと言うわよ。わかったわね」
イルマがガクガクと頷く。よほど、男爵が恐ろしいらしい。
「侯爵夫人、そろそろ、試験開始の時間でございます」
試験の係官が、暗に侯爵夫人に退出を促した。
「今行くわ。ギル、がんばりなさいね。受験生のみなさんも頑張ってね」
侯爵夫人が出て行くと、イルマが私を睨みつけた。そして、フンと鼻をならしてそっぽを向いた。
「君、侯爵夫人の世話になっているの? 凄いね」
さっき、私を庇ってくれた若者が言った。
「ええ、あなたは?」
「僕は、ダニエル・グライナー。宜しくね」
「私、ギルベルタ・アップフェルト。ギルでいいわ」
係官の声が響いた。
「それでは、試験の説明をします。試験は二曲歌ってもらいます。まず、課題曲。そして自由曲です。みなさんには、これから試験会場の舞台袖に移動して貰います。名前を呼ばれたら、一人づつ、舞台にあがって下さい。舞台で楽譜を渡しますから、それを三分間読んで下さい。それから歌ってもらいます。初見でどれくらい歌えるか試す試験です」
係官は言葉を切った。受験生に自分の言った言葉が伝わるのを待っている。皆を見回して、咳払いを一つすると続けた。
「次に自由曲を歌ってもらいます。みなさんの好きな歌を自由に歌っていいですよ。それではみなさん、こちらへどうぞ」
私達は舞台袖へと連れて行かれた。そして、一人目が呼ばれた。ダニエルだ。やがて歌声が聞こえてきた。素晴らしいテノールだ。二人目が呼ばれた。上がっているのだろう、課題曲の出だしでとちった。
落ち着かない。
次にイルマが呼ばれた。
イルマの声は魅力的なメゾソプラノだ。本人に言わせるとソプラノなのだそうだ。
イルマは初見の楽譜をなんとか歌いこなした。しかし、高音部がのびない。審査員が首を振っている。二曲目、イルマの自由曲はポランさんの劇場で歌っていた歌だ。こちらは、イルマお得意の歌だ。イルマの苦手な高音部がない。
私はいつ呼ばれるのだろう。受験生が次々に呼ばれて行く。怖い!うまく歌えるだろうか?
とうとう、最後の二人になった。私ともう一人の女の子。その子が私を振り返ってにこっと笑った。ひそひそ声で話しかけて来る。
「私、ミルト。ミルト・ケーニッヒ。ミルトって呼んで。私もあなたをギルって呼んでいい?」
私は嬉しかった。私もひそひそと言った。
「ええ、いいわ。ミルト」
「あなた凄いわねぇ。侯爵夫人の庇護を受けているなんて! ふう、こうしておしゃべりしてないと緊張でどうにかなりそう!」
ミルトは大きな目をぐるっと回して天井を見上げた。
「私も怖くて! うまく歌えるかしら?」
「静かに!」
係官が声を低めて言う。
私とミルトは目を見合わせて笑った。
ミルトの名前が呼ばれる。ミルトは私に手を振って、舞台へ出て行った。
ミルトの歌声は、アルトだ。課題曲と自由曲をなんなく歌った。
最後に私の名前が呼ばれた。
きっと、運命が決まる時というのはこういう物なのだろう。
どこか淡々と自分の体が動いて行く。興奮しているのに冷静。楽譜を渡された時も、三分間集中して楽譜を読んでいる時も、どこか冷めていた。
だけど、いざ、歌い出すと。
私は私の世界にいた。歌が、音楽が、私と世界を満たす。自分自身が楽器になって空気に溶ける。幸せ。歌に満たされる幸せ。
気が付くと、拍手が起きていた。イルマを除く、他の受験生達が拍手をしているのだ。歌は終わっていた。咳払いが聞こえた。審査委員長を務める、オギー・カウンタック先生が立ち上がった。
「受験生のみなさん、気持ちはわかりますが、拍手はやめるように。さて、これで全員終わったようですな。みなさんはもう一度、控え室に戻って下さい」
私達はもう一度、控え室に戻された。
結果はなかなか発表されなかった。
何が話し合われているのだろう。長い。いつまで待ったら、結果が発表されるのだろう。控え室は受験生の緊張でシーンとしている。私は手を組んでお祈りした。
──神様、お願いです。どうか、どうか、合格していますように!
とうとう、控え室の扉が開いて、審査員の先生が入って来た。
「さて、みなさん、私は今回の試験を審査させてもらったオギー・カウンタックです。まず、みなさんに礼をいいたい。素晴らしい歌声を聞かせてくれました。今年は特にレベルが高かった。三人という合格枠を増やしたらどうかという話もあったほどです。ですから、今回、合格しなかったからといって、決して悲観しないように。一年間精進して、来年もう一度受けてもらいたい。それでは、発表します」
オギー・カウンタック先生が一呼吸おいた。手に持った羊皮紙を広げる。
「ミルト・ケーニッヒ!」
やっぱり! 素敵な歌声だったもの……。
「ダニエル・グライナー!」
テノールの彼だ。牛のようながっちりとした体から発せられる声量が凄かった。
「ギルベルタ・アップフェルト!」
呼ばれた……。呼ばれたんだ! 良かった! 私はほっとした。
「こんな女のどこがいいんだい! 他所の国から流れてきた乞食じゃないか!」
イルマがオギー・カウンタック先生にくってかかった。
「イルマ・モンザ君と言ったね。君は何を勘違いしているのか、彼女がどこの出身でも構うまい。ここは実力の世界。素晴らしい声の持ち主だったから採用された。それだけだ。失礼だが、君は最近、声の訓練をしたかね。練習不足は聞き苦しい。さ、行きなさい。君が練習を怠らなければ、来年、もう一度受験しなさい。ただし、ソプラノではなく、メゾソプラノだ。それなら、いい歌手になれるだろう。むろん、礼儀作法がちゃんとしていればだが」
イルマはオギー・カウンタック先生を睨みつけた。それから私の方にきっと向き直った。
「あたしは、あたしはね。男爵に身を売って、やっと受験資格を取ったんだ。自信があったんだ。あんたさえいなけりゃ……。ギルベルタ・アップフェルト、必ず見返してやる!」
イルマは音高くヒールを響かせて控え室を出て行った。扉が大きくバタンと閉る。
──イルマが身を売って推薦を貰っていたなんて……。
私はぞっとした。推薦が欲しくて自分の身を売るなんて、私には信じられなかった。
「さて、名前を呼ばれなかった皆さん。皆さんの実力が劣っていたのではありません。合格した三人がひと際優れていたのです。ぜひ、一年精進してもう一度、試験を受けて下さい。それでは、呼ばれなかった人は帰っていいですよ」
落胆のため息と共に、受験生達は帰って行った。
「合格した皆さん、国立劇場にようこそ。皆さんは明日からこちらの練習場へ通ってもらいます。ご存知のように、十日後にケルサ祭が開催されます。新人の皆さんはこのケルサ祭が初舞台です。明日から練習して初舞台で歌う歌を十日かけて自分の物にして下さい。これが楽譜です」
私達はそれぞれ、楽譜を渡された。その楽譜を見て驚いた。さっき歌った課題曲だ。劇場側は最初から課題曲を初舞台で歌わせるつもりだったのだ。
「初舞台を失敗されては困りますからね。初見である程度歌えないと十日で歌えるようにはなりません」
私が飛び込んだ世界は、物凄く厳しい世界なのだ。うーん、覚悟していたけれど。やっていけるかどうか、急に不安になった。
それから十日間、私は国立劇場に通って歌唱の指導を受けた。奥様のお屋敷に帰ってからもナハイド先生から厳しい練習をさせられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます