10.HAGOROMO2018-1

 あのあと、あたしはあのひとから、ウシガエルが本来アメリカから食べ物として日本に持ち込まれたカエルさんであること、結局誰も食べずにウシガエルが日本のあちこちで増えて悪さをしていること、あの人たちはそれを憂いてカエルを捕獲して調理をしていること等々を教えてもらった。


 ウシガエルは、十分な日本の食糧不足の状況を改善するために、アメリカから日本に飛ばされた善意の矢印の一本だった。


 それが今では、誰も何も得せず、ただ何の罪もないウシガエルたちが、これまた善意で殺されていく悲しい結果に終わってしまった。



 ウシガエルとは善意の業を背負った生き物なのである。悲しき哉。






 そのあとは、あのひとの日用品の買い物に付き合って、らーめん、というものを一緒に食べて、銭湯に入ったら日が暮れていた。


 つないでいた手と手は、あのひとが顔を真っ赤にして慌てて外して以来、そのままだ。


 温かくて、柔らかかったなあと思う。

 からっぽの手をにぎにぎした。



 言葉少なく、二人並んで歩いた。

 あのひとの住む街には、まだ電気、というものが通っていないらしくて、真っ暗だったのが印象に残った。


「あ……」


 この声を漏らしたのはどちらだっただろう。

 気がつくと、あたしとあの人が出会ったあの坂道に来ていた。


「……」


 何か言う間もなく、あのひとは歩き出した。

 冷たいなんて思わない。だって、暗闇でよく見えないあのひとの顔は真っ赤だっただろうから。


 それだけで十分だから。


「いきなり抱いたのは感心しませんが、拾ってくれて、ありがとうございます」


 先をゆくあのひとの背に、言葉を投げた。

 

 言葉が刺さった。あのひとが、ぴくっと震える。

 早足になる。かわいい。


 もう少しいたずらしようと思って、その背に近づく。


 そうしたら。



「……暗くて足元が見えなくてつまづいた」


 あのひとは、振り向くや否や、覆いかぶさるように抱きついてきた。

 衝撃、あのひとの息遣い、体温、心音……。それから自分の心の底から沸き立つ感情。

 全部感じていた。


「そうですね……。気を付けてくださいよ」

 そっと抱き返す。


 なんとなくだけど、この人があたしに抱いているものは性欲ではないと思った。



 余談だが、ちょうどこの五時間後、伊月は「やっぱりこの人は私の体目当てだ」とぼやく羽目になる。






 停電で暗くどんよりした階段を上がり、静まり返った廊下を抜け、あのひとが部屋の鍵を開ける。


 真っ暗な部屋の中、最初に目についたのは、あたしの光る羽衣。

 羽の部分が虹色に光るようになっていれば、あたしは月に還れるのだが……。


「うわあ羽衣の光が!?」

「どうしたの伊月!まさか!?」

「なにも変わってないのです……」


 あたしに駆け寄ってきたあのひとは、ずっこけた。


「そうですか……変化なしですか……」

 まだまだ善行が足りないとは思っていたが、色が全然変わらないのは、今日のお前の善行の評価は0点だ、と言われているような気分で、つらい。


「いいじゃない、伊月みたいな透明な光だ」

 あのひとは言った。

「それに、明日からも頑張るんだろ?私も手伝うよ」


 胸の中が、あたたかいものでいっぱいになった。






 そのあとは、ゆったりとした夜の時間を過ごした。

 あたしは、なんとなく羽衣に袖を通した。

 あの人に至っては、あたしの羽衣から出る光を灯火がわりに使って、本を読んでいる。くつろぎすぎだろう。


 真っ暗な部屋の中、やることがなく暇で、学習用椅子に座ってくるくる回っていると、突然『それ』はやってきた。

 



「……かぐや様?」




 ただならぬ雰囲気に、あのひとが顔を上げた。


「すみません!すこし席をはずします!」


 あたしは三階のベランダに転がり出て、そこから、文字通り

 羽衣を着たあたしは、そんじょそこいらの地上人と比べ物にならない神秘的な能力を持っている。


 羽衣は、月光を受けて輝き、あたしは宙にひとり。

 ベランダから、隣の工事現場までひとっとび。

 きらきらきら、と輝いて、あたしは土の小山の上に降り立った。


 見上げるは下弦の月。かぐや様のおわす月の都。


 あたしは月からの交信を聴いた。

 交信機器を持たずにかぐや様の声を聴く。

 そんなことが可能かって?

 燦燦と降る月光があるだろう。そこに込められた月の女王の声は、三歳児でさえも聞き逃すまい。


「はい。はい。かぐや様……。あたし、今、しあわせですよ……」


 交信は終わった。もっとも、こちらから月の都には発信できないので、交信と呼ぶよりは、一方的な受信、と呼んだほうがいいのかもしれない。

 


「いつきー!」

 あのひとが、寝巻姿のまま、工事現場の中に駆け込んでくる。

 滑稽だった。


 やがて、工事現場の土を持った、無粋な築山の上に、あたしとあのひとは並んで立った。

 電気の死んだこの街で、光源はあたしとお月様だけ。

 二人だけの世界。静かで気持ちいい。


「いったい急にどうしたの伊月。私本当に心配したんだから」

 息を切らしてあのひとはそう告げた。なんだろう。罪悪感で胸がちくり、と痛んだ。

「ごめんなさい。月からをしていました」

「そう……。それで」

「こう言われました。『次の満月の夜までに、必ず還ってきなさい』と」


 このとき、あのひとは、心底驚いた顔をした。


 ああ、そうか。この人はあたしに地上にいてほしいんだ。


「帰ろう、伊月」

 何か言いたげだったあのひとは、あたしの腰に手を回し、ゆっくりと、二人で築山を降りてゆく。



「……伊月、君が還る日は?」


「ここの暦で、2018年9月24日です。必ず、この日に、あたしを月に還して……なのです」


「……わかった。わかったよ」



 あのひとの手に力がこもる。

 自分が、あのひとを利用して月に還ろうとする悪い女のように思えて仕方なかった。



 また、月光が降る。かぐや様からの追伸だ。


「『幸せな日々を』ですか……」





 ええ、九月の二十四日まで幸せに過ごします。かぐや様。





                      第一部・完





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