ワンハンドレッド・ホラー
上坂 涼
序章 前編 純真な魔宴
役目を終えたはずの蝋燭に、血のような火が灯った。
それらが全て皿ごと床に転がる。——その数、百。
「お、おい! なんだよこれ!?」
クラスメイトの一人が喉から恐怖を絞り出して叫んだ。
木の床に移った蝋燭の火が、通常では考えられない速度で燃え盛る炎となり、血溜まりが広がるように床を喰らっていく。
床から障子戸、壁、天井の順に侵攻し、灼熱の海と化していく。
阿鼻叫喚という言葉が最も適切だった。
クラスメイト達は各々、青や赤の声を上げて、我先にと寺の御堂を飛び出していく。
「環奈ちゃん! 環奈ちゃん!!」
「蛍! 環奈が起きねえのか!?」
「秀君! なんか蝋燭に火が着いたと思ったら、急に倒れちゃって⋯⋯。環奈ちゃん起きて! 死んじゃうよ!!」
二人の男女が会話を交わす間も、赤い海が全てを黒く染めようと、その存在を拡大していく。
「俺が背負う! お前は先に行け!」
「幼馴染を二人も置いて行けないよ! 一緒に行く!」
秀は決然と頷き、環奈を背負った。
「行くぞ!」
「うん!」
火の海に占領された室内。それでも全力で疾走して障子を突き破れば、ものの数秒で外に転がり出ることが出来るだろう。
いざ駆け出そうと、二人が足に力を入れた時である。
——木の破砕する音が天から降ってきた。
「いやあ!」
秀が横目で隣を見やると、蛍が崩れ落ちてきた天井の下敷きになっていた。
「蛍! ⋯⋯くそ、どうしたら」
「私のことはいいから、環奈ちゃんを早く建物の外へ連れてってあげて」
彼女の声音は、生きる事を諦めた者のそれだった。途方もなく青く、儚かった。
「くそ⋯⋯くそ!」
決心が付かず、逡巡する。このままでは全員死んでしまう。しかし蛍を見捨てることなど⋯⋯。
為すすべもなく、身動きを取れずにいた矢先。残酷に猛る炎が静止した。比喩ではない。言葉どおりピタリと固まる。まるで一時停止ボタンを押したかのように。
「なに、これ⋯⋯」
蛍も同様の現象に驚き、消え入りそうな声を上げる。
秀は目を皿のようにして、辺りを伺った。
静止しているのは炎だけではなかった。
木々が焼けて立ち昇る白煙と黒煙。宙に舞い散る火の粉と天井から遅れて落ちてきた木の破片。視界に存在する物質の全てが時を止めていた。
ありえない超常的な現象に、呼吸をすることを忘れるのも束の間——クラスメイト達が逃げ出した出入り口とは反対側の障子戸に、髪の長い人間の影がぼうっと浮かび上がった。
"それ"は苦味を帯びた風とともに障子をすり抜け、ぬらりとした足取りで歩み寄ってくる。秀の眼前で立ち止まると、鼻と鼻が擦れるほどの近さまで顔を近づけてきた。
長い前髪で隠れていた顔が露わになる。
「ひっ⋯⋯」
秀は思わず声を漏らした。
女は秀を観察し終えると、のらりと後ろに振り返った。蛍の前にしゃがみこみ、両手を膝の上に乗せる。
「⋯⋯っ」
仕草こそすれ人間らしいが、蛍の目に映る女の双眸は人のそれではない。眼球があるべき箇所には大きな黒い穴が二つ空いているだけだった。
女はしゃがんだ姿勢のまま身をよじり、秀を見上げた。襲いかかってくるわけでもなく、感情の読めない表情で、じぃっと彼を見つめている。
異様な空間だった。
炎は揺らぎを止めて、燻煙と熱波とともに、水彩画のようにひっそりと佇んでいる。
時間という概念が消失した世界で、三人の人型だけが活動している。そしてそのうちの一人は、似て非なる異形だ。
秀は言いようもない悪寒に身を強張らせ、冷たい汗をかいた。
「カ、彼女を救イ、イ、イタクバ、新たナル、百のモ、物語ヲ、集メ、メロ。サモ、ナクバ」
ふいに異形が掠れた声を上げた。窓枠が擦れるような声だった。
返答する間もなく、女はすうっと空間に溶けていった。蛍と顔を見合わせたのも束の間、今度は空気が震え始める。
ずんと床が一度深く沈んだ。得体の知れない衝撃波と、荒れ狂う暴風が巻き起こり、部屋の中心に巨大な穴が生まれた。
絵に墨を垂らしたかのような、ドス黒い穴は、炎と煙を一切合切吸い込んでいく。
終いには蛍の上にのしかかっていた天井の木片までも飲み込んだ。
強烈な風威の中、蛍が歯を食いしばりながら立ち上がる。よろめく彼女の身体を幼馴染が支えた。
穴は燭台に灯っていた百の炎をつるんと舐めるように吸い込み——消失した。
明かりという明かりが消え去り、室内に闇が満ちる。
騒がしくも感じた常軌を逸した世界は、電車が駆け抜けていくように、あっという間に過ぎ去っていった。
闇の中で立ち尽くす二人に静寂が訪れる。
耳が慣れてくると、障子を挟んだ向こう側で夏虫が歌っていることに気付く。
紛うことなき現実。
ほっと安堵すると同時に、得も言われぬ不安と恐怖が胸の奥で蠢いた。
「いったい、どういうこと⋯⋯?」
「分からない」
かすかに震えを帯びた声色で、二人は短く言葉を交わした。会話の内容自体に意味は無い。それは、互いが同じ心境であることの確認だった。へたり込んでしまいそうな心を、なんとか保つための、生存本能にも似た行動であった。
——ふいに、がやがやと外が騒がしくなった。聞き覚えのある声達が、幾重にも重なりながら近付いてくる。
刹那、障子戸が勢いよく開け放たれ、クラスメイト達がドカドカと上がり込んできた。
「どうした!?」
「なにがあった!?」
総勢26人の男女が口々に秀と蛍に詰め寄る。
「なんで環奈ちゃん倒れてるの? なにかあったの?」
当事者の二人は違和感を捉え、再度顔を見合わせる。
「なんでって⋯⋯急に全部のろうそくに火が点いて、床が燃え上がったじゃないか」
秀が言った。
すると、皆は一様に口をぽかんと開けた。
最前列の男子が呆気に取られた声音で小さく呟く。
「お前、なに言ってるんだ?」
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