「加糖」になった日

加糖

「樹海の缶コーヒー」

 普段からコーヒーはブラックでしか飲まない。どうにも甘いコーヒーというのは苦手なのだ。

 どうしてそんな人間が「加糖」というペンネームで活動しているのか。

 単に名前をもじったわけじゃない。そこには理由があるのだ。

 そう、あれは一歩外に踏み出せば、全身の穴という穴から汗が噴き出してくる去年の七月下旬頃の話。





 夜勤のバイトを終え、とぼとぼとアパートに戻ると友人が待っていた。勤めていた大手印刷会社を辞め、日本一周の旅に出たっきり音沙汰がなくなっていた。そんな彼が突然現れ、いいバイトがあるらしいと教えてくれる。

「青木ヶ原樹海で死体を探して警察に届けると、一体いくらで礼金が貰えるんだって。資金が尽きて日本一周を中断しちゃったから、一緒に探しにいこうよ」こんがりと焼いた肌とは対照的な白い歯を見せながら、意気揚々と語ってくれた。

 ボクは、マジかよ、と驚愕した。この世にそんな美味しい話があるのかと。職場で先輩やクレーマーに怒られながら働いていたことが馬鹿らしいと思えるほどに。

 すぐにバイト先に辞めることを伝え、荷物をまとめてからアパートを後にした。





「危ないから二、三日ぐらいで出てこようね」と彼の言葉に従い、近くのコンビニで非常食やらを買ってから、うっそうとした樹海へと踏み込んでいく。

 そして五日後、なぜだかボクたちはまだ樹海にいた。

 ボクは彼から借りたサバイバルナイフでガリガリと木を削り、ペーパーナイフを作っていく。自分の状況を認めるのが怖くて、こうして現実逃避をしていなければ正気を保てなくなりそうだったから。そして、ボクが丁度十本目を作り終える頃、丸二日ぶりに口を開いた彼の言葉は「どうやら迷ったみたいだね」だった。自他共に認める温厚な性格のボクもさすがにカッとなり、取っ組み合いになった。

 さらに二日後、とうとう食料も底をつきお腹が減っていた。彼は朽木から捕まえてきた何だからわからない幼虫を串刺しにし、それを焼いて渡してくれたがどうしても食べる気にはなれず、互いに譲り合いをしているうちに取っ組み合いになった。

 なにより辛かったことは飲料水までもがなくなったことだ。空腹は限界を超えると何も感じなくなっていたが、喉の渇きはそうもいかない。口を開くと唇はひび割れ、お互いほとんど喋ることがなくなっていった。そんな時「血は飲めるのかな」と彼がぼそっと呟いた。ただでさえ険悪だった雰囲気が修復不可能なほどにまでひび割れる音が聞こえる。

 次の瞬間にはお互いペーパーナイフを手にとって、後ずさる。何も相手の血を飲むために動いたわけじゃない。こいつならやりかねないと、お互いに思ってしまったから。疑心暗鬼だった。

 おいそれと隣で眠れないほど殺伐とした雰囲気のまま、さらに二日、樹海をさ迷い続けた。





 あるとき、木々の隙間から一瞬の光が見えた。走った。どこにそんな力が残っていたのか自分でもわからなかったが、それでもようやく見つけた希望に向かって走り続ける。ようやく森を抜けた先、舗装された道路があった。途中何度か転びながらも、近くの自動販売機へと駆け寄っていく。ボクの後ろを走っていた彼が、車に撥ねられる音が聞こえたときはざまぁみろと素直に思った。

 小銭を入れる手が震える。こういう場合はスポーツドリンくなどのほうがよかったにちがいない。とにかく甘いものがほしかったボクは適当にボタンを押し、ガタンという音と一緒に出てきたのは缶コーヒーだった。フタを開け一気にあおると、頭がクラクラとするほどの甘さが喉を突き抜け、全身を巡っていく。普段飲まないはずの缶コーヒー。これほど美味しいと思ったのは、最初で最後のことに違いない。


命を救ってくれた缶コーヒー。今は亡き彼。色々な物を背負い、ボクは「加糖」になった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「加糖」になった日 加糖 @sweetening

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ