第10話 彼女はただ黙って抱きしめてくれた。一晩中抱きしめてくれていた

 それからしばらく、病院に行けなかった。「あんたもお見舞いに行きなさい」と母から言われてもバイトが忙しいと嘘をついて断った。出かけてもやることがない。無駄に交通費とお茶代を使ってしまう。

 多央は時間をみつけて見舞いに行ってるようだ。届くメールには

「めぐみちゃん、謝ってるよ。許してあげてよ」と書かれていて、それがいっそう癪に障る。

 いつかは謝りに行かなければいけないことはわかってる。でも、めぐみや多央にあれだけのことを言った手前そう簡単に頭を下げられない。変なプライドが頭をもたげて離れない。なにかきっかけが欲しい。そう思った。

 その日、朝四時半になぜか目が覚めた。今日こそは謝りに行こう。ベッドの中でそう考えながらいまさらどうやって謝ったらいいのかとも思ってた。

 その時、久しぶりに地震がきた。二階の部屋でもかなり揺れてる。慌ててスマホの防災アプリを立ち上げる。しばらくして、あたしの住んでいる地域は震度一と表示された。

 震度一なのにこの揺れなら五階の病室はかなり揺れてるんじゃないか。白と黒のボーダーのティシャツとジーンズに着替え、クローゼットから春物のベージュのジャケットを引っ張り出して羽織った。

「ちょっと病院に行ってくる」

 朝食の支度をはじめようとしていた母に告げる。

「なんで今頃?」と、言われた。それはそうだ。面会時間までまだまだある。でも、この地震がきっかけになった。この勢いに乗らなければいつまで経っても謝れそうにない。

 母の自転車を失敬する。揺れのせいで電車が止まってるかもしれない。いや、そもそも始発が出てないかも。

 本震の日に雅也が自転車を使ったのを聞いていたから、自転車で行けるルートをちゃんと確認してある。

 自転車を走らせながら、なんと言おうか考える。「地震大丈夫だった?この間はごめんね」なにか手土産があったほうが会話が弾むかしら?

 途中のコンビニに立ち寄ってエクレアを買う。……なにか食べ物の制限があったかな?もしダメだったとしても、それも会話のきっかけにできるかもしれない。

 家を出て一時間後、病院に到着する。こんなに早く着くのなら今度から自転車にしようか。あたしの自転車は数年前に壊れて処分してから買ってない。いい機会だから帰ってから駅前の自転車屋さんで買ってこよう。

 さすがに面会時間前だから開いていない。ここは仕方ない、二ヶ月前に入った『救急搬入口』から入れてもらおう。鍵がかかってなければいいのだけど。

 自動ドアはすんなりと開いた。鍵はかかっていなかった。「ごめんなさい」と小声で詫びながら中に入る。

 一度通った場所はそう簡単に忘れない。救急病棟から外科病棟までまだ薄暗い廊下をまっすぐ進む。今回はエレベーターを使って五階に上がる。めぐみの病室にたどり着く。

 ここまで誰にも見つかっていない。できるだけ音を立てないように病室の引き戸をゆっくり開ける。静かだ。

 ベッドを見る。どうやら眠っているようだ。地震には気がつかなかったのか。あたしはベッドの脇の小さな冷蔵庫にエクレアを入れてジャケットを脱いだ。

 なにか声をかけようか。でもせっかく寝ているなら起こすのはかわいそうだ。

「この間はごめんね」

 椅子に腰掛け小声で練習する。寝顔を見ながらいろいろ考える。本当にずいぶん痩せたな。小学生のころはうりざね顔でちょっと小太りなのが愛嬌があって可愛かった。やつれた今だって十分可愛い。自慢の妹だ。そんな自慢の妹に向かってあたしはなんて小さなことで腹を立てたのだろう。自分の狭量さに腹が立つ。


 ……?

 なにかおかしい?いつも寝顔を見てるけど今日は何かがおかしい。なんでだろう?ベッドに近づいてみる。

 ……掛け布団が動いてない!普通なら眠っても呼吸に合わせて上下に掛け布団が動くはずなのに布団がピクリとも動いてない。

 地震が来てるわけでもないのに足がガクガクと震えて来る。心臓が早鐘を打ってる。たしかめたくないのに震える足が少しずつ歩を進めていく。胸が締めつけられるように痛いのに頭がグラグラ湯立つようになってるのに倒れることもできない。今すぐ時間が止まってほしい、この数秒の間に何回、何十回、何百回思っただろう。それなのに世界はあたしの身体はあたしの思い通りにならない。

 誰か助けて!

 視界にナースコールが入った。震える人指し指をなんとか伸ばしてゆっくりスイッチを入れる。スピーカーの音がどこか遠くから聞こえてる。

『はい、どうしました?……なにかありましたか、西嶋さん?……めぐみちゃん、どうしたの?』


 いつ看護師さんが宿直の医師せんせいを連れて入ってきたのかわからなかった。

 あたしはいつの間にか廊下にいてベンチに座っていた。

 ……ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめんなさい!何回だって何十回だって何百回だって何万回だって土下座だってなんだってするから、お願いだから帰ってきて!なんでつまらないことで怒ったんだろう。妬んだっていいじゃない。恨んでくれたって全然かまわない。なんで悲しい思いを抱かせたままにしてしまったんだろう。戻ってきて。あんたの方が若いじゃない。あたしなんかよりずうっと若いじゃない。結婚してたってやることやってたって、子どもを産んでたって、あたしなんかより若いじゃない。あんたじゃなくちゃダメなの。あんたじゃなきゃダメなのよ!まだ拓を抱いてないじゃない。雅也だってあんたじゃなくちゃダメなんだよ。あいつはあたしなんか見てないもの。あんたじゃなくちゃいけないの。ほら、あたしってピチピチじゃないからさ。


 廊下に彼が立っていた。

 全力で走ってきたのだろう。息をきらして立っていた。

「……ごめん」

 ベンチから立ち上がり、あたしはなぜか謝っていた。

 彼はあたしなんか見ていなかった。フラフラと歩きだし肩にぶつかった。バランスを崩してあたしは尻餅をついた。それでも目もくれずに彼は病室に消えていった。

 そして、絶叫が……聞こえた。


 両親や西嶋さんたちがいつ来たのか覚えてない。妹が亡くなったといつ聞かされたのかも覚えていない。あの日からしばらくの記憶がごちゃごちゃになってる。

 葬儀だったのか、お通夜なのか、あたしは黒いスーツを着ていた。喪服なんてもっていない。

 あたしは自分の部屋でボーッと座っていたようだ。ノックが聞こえた気がした。返事をする気力もない。勝手にドアが開いた。

 多央がいた。

 彼女はなにも言わずにあたしに近づいた。なにか言わなくちゃいけないって思った。でもなにも出てこない。彼女は目の前に座ってすっと抱きしめてくれた。筋肉質だと思っていた彼女の身体はとても柔らかかった。その身体に包まれたあたしはスイッチが入ったように泣き出した。

「ごめんね、ごめんね……」

 堰を切ったように謝った。彼女はただ黙って抱きしめてくれた。一晩中抱きしめてくれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る