第47話 月を喰らう獣
―ずっと我慢をしていた。
ずっと耐えていた。
美味しそうな匂い。
ずっと想像していた。
噛み砕くときの心地よさ。
本能に抗い、一族の絆を守った。
力はどんどん衰えた。
それでもよかった。
また、大好きなお姉さまと会えたから―
ガキンと金属が硬いものを弾く鈍い音、ゴウっと唸って体に襲いかかる熱風、パチパチという火花がスコルの肌にまとわりついている滑らかで艷やかな黒い衣を焦がす音…それらがハティの耳にはなにか分厚い布でも通したように少しぼやけて聞こえておる。
食いしばったように閉じてへの字に曲がったスコルの唇が少し開き、キラリと美しく白い犬歯が除く。
燃え盛っているように見える真っ赤な髪を振り乱しながら、体に纏った紫色の炎を操っている狂気の女神と化したマーナガルムは、目の前で白く燃え盛る大剣を持ったスコルと激しい攻防を繰り広げている。
全速力で駆ける。あいつが気取る暇もないくらいに。
頼まれたものを信の指示通りに撒き散らしたあと、地面をしっかりと蹴って狙いを定めたハティは、まるで稲妻のような速さで一直線にマーナガルムの背中に襲いかかった。
スコルの振り下ろした剣を、紫の炎を纏わせている両腕で防いでいたマーナガルムは、突如背後から襲いかかってきた白い狼の攻撃に自慢の紫の炎で反撃する間もなく左肩を噛みちぎられ、うつ伏せに倒れたところでスコルの白い大剣でもう片方の肩も焼き切られる。
「が…ぁっ」
短い野獣のような悲鳴が、鋭く尖った歯が並ぶマーナガルムの口から漏れる。
「退けぇ!」
ブンっという音と共に鞭のような形の炎がハティを襲う。
ハティはマーナガルムの背中をトンっと蹴って素早く跳んで炎を避けると、剣を構えているスコルの後ろに下がり「ううう」と小さな声で唸り声を上げた。
背中の重しがなくなったマーナガルムは、ゆらりと浮かぶように立ち上る。それはまるで、体から噴出している炎に支えられて立ち上がったようだった。
先程奪われた両腕は無残に地面に落ちている。しかし、マーナガルムは両腕を動かしてスコルが再び振り下ろした剣を見事に弾く。
なんと、彼女の失った腕があった部分からは細長い形をした紫色の炎が勢いよく噴射して、腕の代わりとしての役割を果たしていたのだ。
「貴様ら…よくも我が器を傷つけおったな。もう容赦しない…この体を燃やし尽くしても…貴様らを殺してやる」
華奢な体からは想像できないような低く、恐ろしい声でそう叫ぶマーナガルムの体を今までとは比べ物にならないくらい大きな炎が包んでいく。
怒りの咆哮をあげるマーナガルムから伸びてきた蛇のような形をした炎がスコルとハティめがけて飛んでくる。
スコルは、後ろには
幾つかの炎はスコルの構えた真っ白に燃える剣に衝突して消えたが、そこから漏れた炎はスコルの足に食らいつくように当たり、スコルの横腹を焼きながら通り過ぎた炎はマグノリアを狙って真っ直ぐに跳んでいく。
「炎の勝負なら、オイラは負けないぜ」
その声を聞いて振り向いたマグノリアは、大きな桃紅色の花から出てきた巨大な紅いドラゴンを目にして安堵の表情を浮かべた。
大輪の花を飛び出してきたナビネが、口を窄めてヒュッと鋭く息を吹き出すと、ナビネの口からは小さな炎の球がものすごい速さで射出される。
ナビネの口から飛び出してきた小さな炎は蛇の形をした紫の炎に当たると真っ赤に燃え上がり、紫の炎をかき消してしまった。
「へへっ、オイラにも見せ場が残っててよかったぜ。偽物の女神の炎なんかにオイラは負けないぜ」
「ドラゴン風情が!女神の体を手にした俺に勝てると思うな!」
得意げな顔をしているナビネを見て気に触ったのかマーナガルムからは炎の矢が無数に放たれる。
紫の炎の矢は、片膝をついて剣を床に突き立てているスコルとそれを支えるハティの頭上高くを通り抜け、マグノリアとその後ろにいるナビネと信に降り注ごうとしていた。
「しまった…」
「シノブっ」
スコルとハティが後ろを振り向く。
なんとか駆け出そうとしたスコルだったが、先程焼かれた部分が痛むのか思うように動けず足をもつれさせる。
雨のように降り注いでくる炎の矢が、蔦のおかげで少し背の高いマグノリアの頭を貫く寸前、信がさっと何かを投げるように手を上げた。
「スコルとハティに攻撃されたらどうしようかと不安だったけど、これなら大丈夫だな」
炎の矢の雨は、すべてがマグノリアの頭に届く寸前で消えてなくなっていく。まるでスポンジの上に落ちる水滴のように次々と落ちては消えるを繰り返して、あっというまに無数にあったように見えていた炎の矢はすべてどこかに消えてしまった。
「クソ…次から次へと…」
苦々しい顔をしたマーナガルムが地面を蹴って信に向かって駆けてくる。
手負いのスコルと、それを背負っているハティを通りすぎ、マグノリアの横を通り過ぎようとしたマーナガルムだったが、足がそれ以上前に進まないことに気がつく。
「なっ…」
手を振り下ろそうにも下ろせない。
なにかやわらかいものにぶつかったような感覚の後、両手をあげたまま動けなくなったマーナガルムは僅かに身を左右によじらせる。
体を覆っていた紫の炎はいつの間にか消えていて、両腕代りにしていた炎も徐々に出力を失っていく。
「力が強くてなんでも殺して済ませてきたあんたには、やりにくい相手よねぇ」
「あたしも、シノブのことは敵にしなくてよかったと思うよ」
あっけにとられてた顔をしているマーナガルムの横を悠々と通り過ぎて、信の隣に立ったスコルとハティは、哀れにも見えるマーナガルムにそんな声をかけた。
その顔は、憎しみに満ちたものではなく、自体が飲み込めないでいる弟をからかうような、そんな表情だった。
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