第19話 黒蜘蛛の女王

「随分と寝起きが悪かったな。あたしの前足が重かったか?」


 欠伸をしていた信の顔を、隣を歩いているスコルは心配そうに覗き込んだ。


「いや…ちょっと夜中に起きてから寝付けなくてさ…。前足が重くて眠れないどころか、スコルの毛皮は最高の手触りだったよ。やっぱりヒトの姿をしているときのほうが胸も大きいし、曲線を活かした設計にした服が最高に映えするからいいとは思うんだけど、狼の姿のときの尾からお尻、そして太ももにかけてのラインも美しいし、少し硬めだけど美しい艶のあるその毛皮の下に三対の乳房があるかと思うとそれはそれで素晴らしいなとも思うし…」


「そ…そんな褒めるなよ」


 笑顔を向けられて思わず頬を赤らめたスコルを、隣りにいたハティは出掛けていた欠伸も引っ込んだような顔をして見つめる。


「それ、褒められてるって認識なんですねお姉さま…」


 そんなハティの呟きも聴こえないくらい浮かれているのか、スコルは機嫌が良さそうに鼻歌を歌いながら剣を肩に担いで信の隣を歩いていく。


「シノブのスコルもいつもあんな感じだぜ」


「かなーり変わり者のニンゲンとは言え…まぁお姉さまのことを好きな気持は本当みたいだし、昨日頼まれたことも了解はしたけど…」


「頼まれたこと?」


 パタパタと飛んできたナビネがハティの言葉に首を傾げながら、彼女の両端が持ち上がった桜色の唇を見る。


「あらあら。これはわたしとシノブの二人だけの秘め事だから、ドラゴンちゃんにも教えられないわ。ごめんね。でも、彼を殺すとか食べるとかそういうことじゃないってことだけは信じてくれたら嬉しいわ」


「まぁ…シノブと白い姉ちゃんの約束なら聞くなんて野暮な真似はしねえよ」


 体をくねらせて、ワザとらしくそういったハティに対して、ナビネは怪しがる様子もなくカラッと笑う。

 自分の態度に少しだけ物足りなそうな顔をしたハティが唇をとがらせるのを見て、ナビネは再び笑うと、彼女の肩に止まって顔を見上げた。


「他人の心を引っ掻き回したい性分は月の性質かい?オイラはそういうの気にできないんだ。すまねえな」


「もう!調子が狂う!こうしちゃうんだから」


「やめ!やめろよー」


 頬を膨らませたハティは、肩に止まっているナビネの体をサッと掴むと自分の胸元に持ってきて、柔らかな双丘に向かってナビネを埋もれさせるように押し付けた。

 バタバタともがくナビネの嘴や鬣を指でツンツンと一頻りつついたあと、満足をしたのかハティはやっとナビネの体を開放する。


「オイラはシノブじゃないんだぞ!」


 息を荒げたナビネがそういったのをケラケラと笑いながらハティは、少し先を歩くスコルと信の方へと駆けていった。

 そのまま四人が進んでいくと徐々に森の中が暗くなってくる。

 時間的にはまだ昼前のはずで、天気も悪くないはずだ…と不思議に思った信が口を開こうとすると、スコルが口元に指を当てて「シッ」と合図をした。

 腰を落としながら進んでいくスコルに習って、信と、ナビネを抱いたハティも腰を落として周辺を見ながら前へ進んでいく。


「上を見ろ。暗くなったのは高い場所が蜘蛛の巣に覆われてるからだ」


 ささやくような声でスコルにそう言われて上を見上げると、巨大な蜘蛛の巣が幾重にもなって大きな針葉樹の高い場所に張り巡らされている。


「気をつけて進むぞ。そろそろ手が届く位置に蜘蛛の巣が…おっと」


 茂みをかき分けて注意して進むスコルの眼の前に、一本の糸がニンゲンの人差し指くらいの太さで出来ている蜘蛛の巣が現れて一行は足を止める。

 スコルは、金色の糸で編まれた袋の中から、明らかに袋の丈よりも長い木の柄がついた刃物をスルスルと取り出すと、蜘蛛の巣に向かってそれを伸ばした。


「この糸切りの槍でこうして…っと」


 スコルは器用に槍を伸ばして蜘蛛の巣の一端を切り、そのままクルクルと柄の部分を回して蜘蛛の糸を絡め取っていく。

 一つの蜘蛛の巣を綺麗に絡め取ったスコルが、金色の袋に刃物の部分を入れて取り出すと、糸切りの槍からは蜘蛛の糸だけが見事に消えていた。


「スコルはなんでも知ってるんだな…」


「…ヴァプトンから出るときにあの烏共から同じ仕事をさせられたからな」


 苦虫を噛み潰したような顔で囁いたスコルの横にいたハティは、その言葉を聞いて目を丸くして驚いたような顔をした。


「お姉さま!急にいなくなったと思ったらそんな手で…」


「シッ!悪かったって…。今はとにかく蜘蛛の糸集めだ。三人でやれば早く終わるだろ。ナビネはあたしかハティから離れるなよ」


 大きな声を出したハティは、スコルに言われて慌てて自分の口元を抑える。

 そして、スコルの言葉にうなずくと、彼女が新たに金色の袋から取り出した糸切りの槍を一本受け取ってナビネを大きく開けた胸元に呼び込んだ。


「ちょっと苦しいけどここが安全だからね」


 ハティの谷間に収まった自分をじっと見ている信に気が付いたナビネは気まずそうに前足の爪で嘴を掻いた。


「確かに谷間に挟まれるということは羨ましくないと言えば嘘になる。だがしかし、俺はおっぱいの下に住むという未来が待っている。大丈夫だ。このくらいでナビネに嫉妬をして魔王討伐や蜘蛛の巣集めに支障を来すようなことはない」


 切れ長の目を細めて微笑んでいる信はそう言いながらハティの谷間に収まっているナビネから目をそらす。


「たぶん」


「冗談に聞こえないんだよなぁ」


 声のトーンを急に落として真顔になった信に突っ込んだナビネは、頭を掻きながら再び笑顔を浮かべている信を呆れた顔で見つめて溜息をついた。


「ははは。さ、早く巨大蜘蛛ウンゴリアントに見つからないうちに糸を集めよう」


 スコルから糸切りの槍を渡された信は、手頃な蜘蛛の巣を探して器用に糸を絡め取りながら呆れた顔で自分を見続けるナビネに少し大袈裟な身振りをしてみせるのだった。


「この分だと今日中に終わりそうだな」


 初めてとは思えない手付きで巣を次々と絡め取っていく信のお陰か、金色の袋を開くと微かに光る美しい白い糸で満たされている。


「ワッ」


 スコルと信が袋の中身を確認して一息ついているところだった。小さな悲鳴が聞こえたかと思うと、それと同時にカサカサと言う音と共に森全体の影が一斉に動いたような錯覚に襲われて、二人は武器を手にして辺りを見回す。


「飛び出してきた蜘蛛に驚いたら…ドラゴンちゃんが落ちて引っかかっちゃって…」


 片手に糸切りの槍で串刺しにした巨大蜘蛛ウンゴリアントを持ったハティが泣きそうな顔で糸まみれになったナビネを抱きかかえていた。


「あー。やるとは思ってた。思ってたのに目を放したあたしが悪いんだけども…はぁ」


 辺り一面を黒い影のようなものが取り囲む。

 よく見ると一つ一つには四対の目があり、影のようなものはすべて巨大蜘蛛ウンゴリアントだということがわかる。

 四人を取り囲んでいる輪はジリジリと小さくなり、今にも飛びかかってきそうな巨大蜘蛛ウンゴリアントたちを糸切り槍を振り回して牽制しながら、立っている三人は背中を合わせに後ろに下がっていく。


「もう一匹やっちゃったんだし、このまま巨大蜘蛛たちを蹴散らして逃げられたりしないかしら?」


「笑えない冗談が聞こえたな。図々しい略奪者よ。我らから貴重な糸を奪うだけではなく好き勝手殺戮まで許されると思うのか?」


 ハティがスコルにそう囁いたときだった。大気を震わせるような威厳のある声がどこからともなく聞こえてきたかと思うと、四人を取り囲んでいた蜘蛛たちの一部がサッと道を開けるように動く。

 蜘蛛たちが開いた道の奥から、人影のようなものがこちらに向かってくるのが見えた。


「黒い狼よ。前回は糸をかすめ取るだけだと見逃してやったというのに…仲間を引き連れて此度は強盗か?我も舐められたものだな」


 人間の女性のような形状の黒褐色の上半身から生えた二対の腕をどちらも組みながら、下半身の硬い毛並みの真っ黒な蜘蛛の足を巧みに動かしながら現れたソレは、小高い丘の上で止まるとスコルを見つめると、ハティの足元に転がる巨大蜘蛛ウンゴリアントを見て忌々しそうに言葉を吐き捨てた。


「此処は我らが蜘蛛一族の森…犬風情が荒らし回ることは許さん」


 八つの真っ赤な切れ長の目を吊り上げ、牙の並ぶ口を大きく開きながら、黒く長い髪を怒りで揺らす黒蜘蛛アラクネを前にしてスコルもハティも言葉を失っているようだ。


「貴女の大切な巨大蜘蛛ウンゴリアントを殺してしまったのは事故なんだ」


 そう言って怒り狂う黒蜘蛛アラクネの前に一歩進み出た信の目には、他の三人と違って絶望の色は宿っていない。


「ほう…命知らずにもただのニンゲンが我に意見すると言うのか」


 黒蜘蛛アラクネが、黒く長い腕の一本を伸ばして信の顎を持ち上げる。

 しかし、信は怯えた様子を一つも見せずに彼女の顔を真っ直ぐに見つめ返した。

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