[5] 陥落
南方軍集団によるブダペスト救援作戦が行われている間、第2ウクライナ正面軍はブダペストの市街地をじりじりと包囲し続けていた。
1月11日、マリノフスキーは第18親衛狙撃軍団長アフォーニン少将をブダペスト作戦集団司令官に任命し、まず東岸のペスト攻略に重点を置く方針を示した。アフォーニンは方針通りにペストを2つに割く攻勢に乗り出し、麾下の部隊は同月15日までにドナウ河の橋まであと2キロの地点に到達した。ペスト西部のドナウ河畔は炎に包まれ、燃える建物からあがる熱風が通りを逃げまどう人々を焼き焦がした。
1月12日、Ju52輸送機の非常用滑走路に使用されていた競馬場がソ連軍に押さえられると、第9SS山岳軍団に対する物資の補給はますます絶望的な状況に追い込まれた。各部隊では燃料と弾薬が欠乏し、第9SS山岳軍団司令部は南方軍集団に「補給求む」のメッセージを送信し続けた。だが、パラシュートを付けて投下される物資は、しばしばソ連軍の後方地域に落下した。戦車や火砲は次第に沈黙し、ソ連軍の戦車にほどなく破壊された。
1月15日、第2ウクライナ正面軍司令部はルーマニア第7軍団(ソヴァ中将)をブダペスト作戦集団から切り離し、ハンガリー北部の戦線へ派遣した。ブダペスト攻略はソ連軍が独力で達成したという体裁を整えるための措置だった。
1月17日、ペストの保持がもはや絶望的になったことを判断した第9SS山岳軍団司令部はドナウ河に架かるフランツ=ヨゼフ橋を爆破し、同日午後10時からペストに展開する部隊をブダまで後退させた。翌18日の午前7時までに部隊の撤退は完了し、工兵橋とエルジェーベト橋を爆破した。
モスクワの「最高司令部」は第2ウクライナ正面軍に対し、西岸のブダを掃討する任務を命じた。一方、第3ウクライナ正面軍は第4SS装甲軍団のブダペスト救援作戦に対して外周防衛線を守るために市内から離れた。
1月22日、アフォーニンが白兵戦で負傷して前線を離れた。第53軍司令官マナガロフ大将がその後を継ぎ、第75狙撃軍団と第37親衛狙撃軍団の指揮を執った。
ドナウ河西岸に広がるブダの市街戦は次第に、スターリングラード戦のような苛烈な様相を呈するようになっていた。第9SS山岳軍団は王宮を中心とする城塞や高地を利用した防御地点に立てこもったため、第2ウクライナ正面軍は急峻な斜面を登って幾度も攻撃を仕掛けては撃退されることが続いた。ブダはペスト失陥から3週間以上に渡って頑強な抵抗を続けたのである。
2月5日、ナチの下部組織―「国家社会主義航空軍団(NSFK)」に所属する十代の志願兵がグライダーで、ブダは王宮の丘の裏手に強行着陸した。第9SS山岳軍団に弾薬や燃料、食糧が届けられたが、その量は圧倒的に足りなかった。
2月11日、包囲環内で戦闘可能なドイツ軍の兵員は約2万4000人、ハンガリー軍は約9600人にまで減少していた。このままでは全滅は避けられないと判断した第9SS山岳軍団長プフェッファー=ヴィルデンブルッフ大将はヒトラーの死守命令に背いて、各部隊の指揮官に対して脱出作戦の準備を行うよう命じた。先鋒は第13装甲師団と第8SS騎兵師団「フロリアン・ガイエル」の残存部隊で、FHH装甲擲弾兵師団と第22SS義勇騎兵師団「マリア・テレジア」が第2波として続き、包囲陣を突破することが定められた。
2月11日から12日にかけて、第9SS山岳軍団の各部隊は夜陰に紛れて、残った車両を総動員して北西に向けて脱出した。第9SS山岳軍団司令部は南方軍集団に無線でブダペストから脱出する旨を伝達し、外側からもこれに呼応してくれるよう要請した。事前にこの脱出を察知した第2ウクライナ正面軍はドイツ軍の集結地点に対して、猛烈な砲撃を行った。脱出に参加した守備隊は甚大な損害を被ってしまう。
2月13日、死の静寂がブダペストを覆った。時おり銃声や砲声が聞こえる以外、市街地はしんと静まり返っていた。多大な人的損害を引きかえに、ハンガリーの首都はついに第2ウクライナ正面軍によって陥落した。ブダペストから約2万8000人のドイツ軍・ハンガリー軍兵士が脱出したが、味方の戦線にたどり着けたのはわずかに7000人をやや上回る程度だった。
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