[4] ハンガリーの政変

 東欧でいまだに枢軸陣営の一翼を担うハンガリーでは、ソ連軍の襲来を目前にした政府と国民の間で不安と動揺が広がっていた。同国で摂政を務めるホルティ中将は「もはや枢軸陣営の敗北は決定的となった」と判断し、新しく首相に任命したラカトシュ大将に対して連合国との和平交渉に入るよう命じた。9月下旬に和平交渉を行うため、ラカトシュは使節を密かにモスクワへ送り込んだ。

 10月11日、ハンガリーの政府代表団はモスクワにおいて、連合国との休戦協定に調印した。これで自国が戦場となることを避けられると考えていたホルティだったが、ハンガリーの対ソ単独和平の動きを察知したヒトラーはホルティに休戦協定を破棄させるよう対抗措置を取ることにした。ドイツはハンガリーから同国で産出される石油の半分以上とボーキサイトの約9割を輸入していた。ヒトラーとしては戦争継続において、ハンガリーの資源は絶対に失うわけにはいかない「生命線」だったのである。

 武装SSのバッハ=ツェレフスキー大将はワルシャワ蜂起の鎮圧に成功した前例から「パンツァー・ファウスト」作戦を立案した。この作戦はブダペストの王宮を徹底的に破壊するという内容だったが、ブダペストに派遣されたスコルツェニー少佐がバッハ=ツェレフスキーにかけあって中止させた。スコルツェニーはホルティの息子ミクロスを拉致する「ミッキー・マウス」作戦を代案として示した。

 10月15日、ホルティはブダペスト駐在のドイツ公使フェーゼンマイヤーに対してモスクワで休戦協定に調印した旨を通告した。だが、武装SSの特殊部隊が路上で護衛と銃撃戦の末にホルティの息子ミクロスを人質に取った。今後もドイツに対する「反逆行為」を続けるなら、息子を処刑する。そのように通告されたホルティは大きなショックを受けたが、予定通り休戦を告げるラジオ放送に臨んだ。直後にナチスと友好関係にあるファシスト組織「矢十字党」の突撃隊が放送局を襲撃し、ハンガリーは今度も戦い続ける決意であると力説した。

 10月16日、ドイツはホルティの後任に「矢十字党」の最高指導者サーラシを新たな国家元首として承認した。ヒトラーに絶対的な忠誠を誓うサーラシはハンガリー軍の将兵に対して「ドイツと共に勝利するか、さもなくば死か」と迫り、ドイツ軍との共闘継続を命じた。ホルティをはじめラカトシュ首相などの閣僚たちは逮捕された。

 しかし、ハンガリー軍には「矢十字党」による政権交代を快く思わない軍人は数多く存在していた。事前にホルティから対ソ和平案を知らされていた第1軍司令官ダルノキ大将はホルティの退陣を知り、1万人の部下を引き連れてソ連軍に投降した。後にダルノキはソ連の支援を受けて、反ファシスト勢力である「ハンガリー臨時国民政府」の指導者という新たな役割を演じることになった。

 また、第2軍司令官ヴェレシュ大将もダルノキと同様に、ホルティの対ソ和平案に従う準備を進めていた。これを察知したドイツはゲシュタポを急派して、ヴェレシュの身柄を拘束した。この2人の軍司令官による「謀反」に伴い、10月16日付で第1軍と第2軍の司令官にそれぞれ親独派のラースロー大将とマヨル大将が就任した。

 ヒトラーはソ連に寝返ったルーマニア軍の巨大な損失を埋めるべく、ハンガリー人を積極的にドイツの戦争に加担させる方策を打ち出したのである。

 1944年3月にドイツとハンガリーで交わされた取り決めにより、国内の全ドイツ系成人男性に武装SSへの兵役義務が課せられていた。この取り決めに従い、ドイツ系ハンガリー人の兵士から成るSS義勇騎兵師団の創設が同年4月に決定され、徴兵と軍事訓練が急ピッチで進められた。

 ハンガリーとルーマニア、クロアチアなどから徴集されたドイツ系の兵士から構成される第8SS騎兵師団「フロリアン・ガイエル」と第22SS義勇兵師団「マリア・テレジア」はブダペスト近郊で訓練を行った後、ハンガリー東部に急派された。この戦区では、第2ウクライナ正面軍が南方軍集団に対する包囲作戦の準備を進めていたのである。


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