[3] ルーマニアの離脱

 8月25日、ルーマニアはドイツに対して宣戦布告を行った。ルーマニア領内の南ウクライナ軍集団は補給も陸路の連絡も断ち切られ、孤立の危機に立たされた。ルーマニアの離反と南ウクライナ軍集団の壊滅は、ヒトラーにとってスターリングラードと同様の破局を意味した。

 第10装甲擲弾兵師団はヤッシー付近で抵抗を続け、多くのドイツ軍部隊を包囲網から脱出させようとした。しかし、その間に第6軍の大半がキシニョフの東と南西で巨大な包囲網の中に閉じ込められた。

 8月下旬、ソ連空軍はこの包囲網の中を徹底的に爆撃した。第6軍は部隊を西側に移動させることで包囲網を突破しようと試みた。だが、第23戦車軍団(アフマーノフ少将)が9月5日に西方のシレート河に進出する。この進撃により、第6軍は退路を断たれてしまい、結局は撃滅されてしまった。

 第2ウクライナ正面軍は9月2日までにブカレストとカルパチア山脈の麓に位置するプロエスティ油田地帯を制圧した。「ヤッシー=キシニョフ」作戦におけるソ連軍の損害は6万7000人だった。対する枢軸国軍の損失は35万人以上に上り、南ウクライナ軍集団の総兵力はわずか20万人に落ち込んでしまった。

 第2ウクライナ正面軍はカルパチア山脈南方から、ハンガリーのトランシルヴァニア地方に向ける攻勢に移行した。この時には、今や「友軍」となったルーマニアより第1軍(マッチチ大将)と第4軍(アヴラメスク大将)も戦線の一翼を担っていた。8月末から9月初めにかけての外交交渉により、ルーマニアは連合国が遂行する「対独戦の分担業務」として、最低十二個師団をソ連軍の指揮下に供出するという合意が成立していたのである。

 ヨーロッパの南東部では、ドイツ軍が駐留を緩和して部隊を抽出し、他の戦線に転用することが避けられなくなっていた。8月末にドイツ軍がギリシャとエーゲ海諸島から撤収が開始すると、ソ連軍はこの機に乗じてバルカン半島への侵攻を企図した。

 ルーマニアと南方で国境を接するブルガリアはドイツの同盟国であり、ルーマニアと同様の事態がいつ進行しても不思議ではなかった。他の枢軸陣営と異なる点として、ブルガリアは対ソ戦に兵力を参加させていなかった。

 9月3日、第3ウクライナ正面軍はドナウ河畔のシリストラ付近でルーマニアとブルガリアの国境に達した。第3ウクライナ正面軍司令官トルブーヒン元帥は「最高司令部」から麾下の部隊を停止させ、ブルガリアに対する攻撃を準備するよう命じられた。クレムリンが1944年6月中に、ブルガリアを占領するという決定を下したことによる措置であった。

 9月5日、クレムリンは正式にブルガリアに対して宣戦布告した。ブルガリアが中立義務を放棄してドイツを援助していることが理由として挙げられた。ソ連側の通告は不条理な内容であり、首相ムラヴィエフをはじめ閣僚はモスクワからの宣戦布告が信じられなかった。

 9月8日、第3ウクライナ正面軍は230キロに渡る国境を突破して、ブルガリアに侵攻した。ブルガリア軍が無抵抗で降伏したため、第三ウクライナ正面軍はただちに首都ソフィアの目前にまで進出した。

 9月9日、ソフィアではクーデターが勃発する。反ファシスト組織「祖国戦線」のゲオルギエフを首班とする新政府が樹立された。新政府は同日、ドイツに対する宣戦布告を行った。

 第3ウクライナ正面軍はユーゴスラヴィア侵攻の準備に取りかかった。第37軍(シャローヒン中将)がソフィアの新政府を支援するためにブルガリアに留置され、第57軍(ガーゲン中将)とブルガリア第2軍が引き続き南方に進撃することが定められた。

 9月28日、第3ウクライナ正面軍はブルガリアとユーゴスラヴィアの国境を越えた。この攻撃と連動して、チトー率いるパルチザン軍団が国内にいるドイツ軍―E軍集団とF軍集団に対する作戦を側面から支援した。

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