[2] ボブルイスク包囲戦

 白ロシア・バルコニーの南方では、6月24日に第1白ロシア正面軍が午前4時から2時間に渡る猛烈な攻撃準備砲撃に続いて、地上部隊の攻撃が開始された。

 攻勢の第1段階における第1白ロシア正面軍の目標は、ベレジナ河畔の都市ボブルイスクの包囲だった。しかしこの包囲作戦を巡っては、スターリンと第1白ロシア正面軍司令官ロコソフスキー上級大将の間で意見の対立が生じていた。

 5月22日から23日に開かれた戦略会議において、ロコソフスキーはボブルイスク東方のロガチェフと、南方のモズィリの2か所を起点として2本の攻撃軸が必要であると主張した。スターリンはこの意見に対して「兵力を分散させることになる」とし、両地域の中間から狭い正面に兵力を集中させる1本の攻撃軸を設定してはどうかと言い渡した。しかしロコソフスキーは承服せず、なおも自説を主張する態度を取った。数回のやり取りがあった後、最後にスターリンはロコソフスキーの主張を認めた。

 ロコソフスキーがあえて「兵力の分散」を主張した理由として、正面軍が担当する戦域が他の戦域と比較して、「ポレーシェ」と呼ばれる森と湿地の混合地形が広がっていたことが挙げられる。さらに道路網が貧弱であり、展開させる兵力を少なく抑える必要があった。

 ボブルイスクへの攻勢に先立ち、ロコソフスキーは「ポレーシェ」に対処するため、第1白ロシア正面軍の工兵部隊に対してプリピャチ河の東岸に沿って木製の歩道を湿地帯の上に縦横に張り巡らすよう下命した。制空権を失っていたドイツ空軍はソ連軍の前線で行われていた攻勢準備を探知することが出来ず、湿地帯の中から突如として出現した第1白ロシア正面軍による奇襲は多くの陣地で成功した。

 6月25日正午、第65軍(バトフ中将)と第1親衛戦車軍団(パノフ中将)は、ボブルイスクの南翼に通じる道路に向かって40キロも前進した。後方からプリエフ機動集団(第1機械化軍団・第4親衛騎兵軍団)が追尾しつつ、西方の「確地」スルーツクへ向けて突進し、同月30日に同市を奪回した。

 ボブルイスクには中央軍集団で唯一の装甲兵力である第20装甲師団(ケッセル中将)が配置されていたが、この師団は陸軍総司令部に直属していた。また、ボブルイスクの防衛を担当する第9軍司令官ヨルダン大将は部隊の行動が不可能と考えられていた湿地帯における敵の反攻に困惑し、即座に効果的な対応策を取ることができなかった。

 第20装甲師団はまず、ボブルイスク東方の第3軍(ゴルバトフ上級大将)に対して派遣され、次いで南方の第65軍に送られた。第20装甲師団の反撃は指揮系統の混乱も相まって、中途半端な形となって失敗に終わってしまった。

 6月26日、第3軍の第9戦車軍団(バハロフ中将)はロガチョフの西方から出撃し、ボブルイスクの西方でベレジナ河の渡河点を確保しようとした。この時、同じくベレジナ河の西岸に到達しようとしていた第1親衛戦車軍団と競争になった。

 6月27日、ボブルイスクの包囲が伝えられると、ヒトラーはヨルダンを第9軍司令官から罷免した。後任には第47装甲軍団長フォアマン大将が任命されたが、司令官の首をすげ替えたところで戦況は変化せず、2日後にボブルイスクは陥落した。

 オルシャからブイコフに至るドニエプル河橋頭堡に対する攻勢は第2白ロシア正面軍の3個軍(第33軍・第49軍・第50軍)によって実施され、第4軍に所属する第39装甲軍団(マルティネク大将)の前線に襲いかかった。第39装甲軍団は名称こそ「装甲」とされていたが、実質は4個歩兵師団から成る「歩兵軍団」と化しており、反撃する術を持っていなかった。

 6月27日、第49軍(グリシン中将)がモギリョフの南北でドニエプル河を渡り、市街地は翌28日に陥落した。絶望的な状況に陥り、とりあえずは包囲から逃れられた第4軍の残兵はミンスクまで撤退した。

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