巨人たちの戦争 第7部:蹂躙編

伊藤 薫

第40章:前奏

[1] 夏季攻勢の立案

 1944年4月5日、スターリンはクレムリンに赤軍の首脳を招集して、同年の夏季攻勢に関する戦略プランの検討に着手した。この夏季攻勢は、軍事と政治の両面で最大の成果が達成できるような戦略を選択しなければならなかった。なぜなら、1943年11月に行われたテヘラン会談において、西側連合国が五月にフランスへの上陸作戦を開始することを約束していたからであった。

 この時、独ソ両軍が対峙する前線は、レニングラードから真南にプリピャチ沼沢地まで下ったところで直角に真西へと向かい、350キロほど進んだところで再び南へ折れて、カルパチア山脈まで約500キロ続き、そこからさらに東へ戻って黒海沿岸まで伸びていた。

 実施する攻勢案として、まず1つ目は最前線がすでに独ソ国境近くにまで到達しているウクライナ方面で、引き続きルーマニアからハンガリーおよびバルカン半島へと攻勢を継続することだった。これに成功すれば、ドイツ軍の兵力をカルパチア山脈の南北で大きく分断でき、さらに東欧のハンガリー、ルーマニア、ブルガリアを枢軸陣営から早く脱落させることができるという政治的効果も期待できた。

 しかし、進撃路がドイツ本国から遠い場所へと向けられることに加えて、強力なドイツ軍部隊を白ロシア(ベラルーシ)に残したまま西方への前進を継続することになる。その場合、延びきった側面を敵に晒す形になり、壊滅的な敗北を喫する危険性が存在した。

 2つ目の選択肢は、ウクライナから北方へ突進してバルト海へ到達することで、中央軍集団と北方軍集団の退路を断ち切るという計画だった。しかし、仮に突破に成功しても、東西翼にドイツ軍の強力な部隊を残すことになる。両翼から反撃を受けた場合、自軍が回廊部を保持できる見込みは極めて薄かった。スターリンをはじめとする会議の参加者も、このような野心的な計画が自軍の作戦能力を超えたものであることを理解していた。

 最後に残された選択肢は、赤軍の仇敵である中央軍集団に対する攻勢だった。

 中央軍集団は1944年当初、ペイプス湖からプリピャチ沼沢地に至る一帯で東方に向かって突き出した「白ロシア・バルコニー」に集結していた。もしこの攻撃に成功すれば、まだあまり損なわれていない中央軍集団の主力部隊をなぎ倒すことができ、しかも北方軍集団の補給路と退路を分断することも出来る。さらには赤軍をポーランドに配することになり、それがベルリンへの最短経路にもなる。

 数日後、再びクレムリンに呼び出された最高司令官代理ジューコフ元帥と参謀総長第一代理アントーノフ上級大将は立案した作戦計画書をスターリンに提出し、正式な認可を受けた。その計画書の中で示されたのは、最後の選択肢である中央軍集団の「白ロシア・バルコニー」突出部に対する攻勢作戦だった。

 だが実際には、中央軍集団に対する白ロシア攻勢は夏季に実施される5つの攻勢作戦の一部に過ぎなかった。5つの攻勢作戦の発起日と場所は、それぞれ次のように定められていた。

 6月10日、ヴィボルグ=ペトロザヴォーツク。

 6月22日、白ロシア。

 7月13日、リュボフ=サンドミェシュ。

 7月18日、ルブリン=ブレスト。

 8月20日、ヤッシー=キシニョフ。

 この計画の全容を知っている者はスターリン、ジューコフ、ヴァシレフスキー、アントーノフの4名に限られていた。1943年度の冬季戦の主戦線であったプリピャチ沼沢地以南の戦域では、白ロシアにおける攻勢作戦が一定の成果を収めた後、新たな攻勢を実施することが定められた。

 5月20日、アントーノフは中央軍集団に対する白ロシア攻勢の基本計画をまとめ、スターリンに提出した。この計画はスターリンの指示により、1943年の夏季戦においてクルスクの南北で発動された「クトゥーゾフ」作戦と「ルミャンツェフ」作戦に続いて、同じく対ナポレオン戦争の名将にちなんで「バグラチオン」作戦と名付けられた。攻勢発起日はとりあえず「6月15日から20日(いずれか)」に設定された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る