りょうの
ギア
りょうの
会社の自席で大きく伸びをする。ディスプレイ上の時計を見るともう午後10時間近だった。仕事に集中していたせいで気づかなかったが、フロアはすっかり閑散としており、まだ9月だというのに窓から見える外もすでに真っ暗だった。
とりあえず区切りのいいところまでは仕事を進められたし、明日もまた朝8時半から出社だし、午後10時を過ぎると残業の申請がまた一段階めんどうくさくなってしまう。
よし。
「帰ろう」
私はパソコン上に開いていたアプリケーションを全て終了させ、ウィンドウズをシャットダウンする。そして電源が落ちるまでの待ち時間を有効活用するべく、ステンレスのコーヒーカップを指先にひっかけて立ち上がった。帰る前のその時間を使って給湯室でコップを洗うのが私の日課だった。
指先に引っかけて揺らしているコップには名前の書かれたシールが貼られている。かなりカッコ悪いが、職場でコップを使う際のルールだから仕方ない。それにこうしないと給湯室に飲み残しの入ったコップが毎日のように放置されてしまうことは歴史が証明している。
その名前欄に書かれている文字は「山稜野」だ。初見でこの名前を読める人に私はまだ会ったことがない。そもそもこれを見てフルネームだと気づける人がどれだけいることか。
これは「やまりょうの」と読む。
姓は「やま」で、名が「りょうの」だ。
母方の祖父はアウトドア派だった。趣味が登山だったその祖父は山の稜線の美しさに魅せられ、女の孫が生まれたら「稜野」と名付けると決めていた。母は難色を示したが、こうと決めたら梃子でも動かない老人だったらしく、最後は押し切られたそうだ。
娘を嫁にとられた腹いせもあったのだろうか。今となっては真相は闇の中だ。その祖父は、私が物心つく前には亡くなってしまったからだ。
そのようなわけで、物心をついたときにはすでに直接恨み言をぶつける相手もおらず、小中学校時代の私は名前の話題になるとすぐ不機嫌になる子だった。目つきが悪いとすぐ言われるのはこのときの名残なのかもしれない。
ただ、変な名前ではあったが、子供からすると意外とからかうのが難しい響きでもあったらしく、自己紹介したときこそ珍しがられたが、大体は呼ぶ側も「りょーのちゃん」「りょーちゃん」などとすぐに慣れてしまう傾向にあった。
中学校や高校で、名前を漢字で書くことが普通になると「あやのさん」と呼び間違えられることが増えたが、特筆すべきことはそれくらいだ。むしろ名字のほうをからかわれたことのほうが多かった。山と言えば川だからと「川」と呼ばれたり、山さんと書いて「さんさん」というあだ名で呼ばれたりしていた。
その後、高校や大学と世界が広がるにつれて、私が気にしていたほどにはこの山が世間では高くなかったと知った。初対面の際に珍しがられることこそ変わらなかったとはいえ、大学以降は逆に私を驚かせるような名前との出会いも多かった。そうこうしているうちに名前を名乗ることを臆することはなくなっていった。
それでも自分の名前に対するコンプレックスは事あるごとに顔を出した。例えば、コップに名札をつけることを義務付けられていると知った瞬間とかに。
大学を卒業し、そこそこ大きな会社に入って3年目。アラサーの入り口に足を踏み入れんとしている身として、今度はまた違った悩みが生じてきた。
結婚だ。
相手を選ぶ権利があるほど大した家柄でも容姿でもないが、もし希望が出せるならこの名前にあった名字と出会いたいと思っていた。山野とか、田野とか「野」がつく名前はごめんこうむりたかった。並べられるとことさらに「稜野」の名字っぽさが際立つように思われたし、漢字で見たときにカクカクと角ばる印象が強まるフルネームも嫌だった。
名字で相手を選ぶわけではないことは重々承知しているつもりだったし、「水田さん」や「織田さん」と結婚する際にフルネームをネタにされる覚悟を決めないといけない「マリさん」に比べたらまだまだ恵まれた境遇ではある。
そもそも今は候補に定めている相手もいないし、私を候補に入れてくれているとおぼしき相手もいない。まずは相手がいないことには話が始まらないのだ。探す時間がないことが悩みとも言えたし、それを体の良い言い訳にして実質的な活動を先延ばしにしている気もする。
フロアの端にある給湯室で、コップを流しに置いて熱湯で満たす。少し時間を置いてから中身を冷水と一緒に流し、常備されている洗剤とスポンジでゆっくり丁寧にコップを洗う。
熱湯だけを流すと配水管を傷めるという常識を教えてくれたのは兄の友人だった。4つ上の兄は交友関係が広く、友人だと紹介されたその方はその兄よりもさらに10歳近く年上だった。当時の私が高校生だったから、30歳近かったはずだ。今現在の私よりも年上だったその人は、もちろん当時の私にはまさに大人の男性そのもので正直少し怖かった。もっとも兄とその友人は、遊びへと出かける前の小休止に兄の自宅に立ち寄っただけで、私と一緒にいた時間は1時間にも満たなかった。その日は休日で、私は昼食のためにスパゲッティを茹でていた。2人がダイニングテーブルで談笑しているあいだにタイマーが鳴り、私は流しに置いたザルへパスタを茹で汁ごと流し込んだ。ベコンと流しの底が音を立てたとき、いきなりすぐ後ろから「水に一緒に流さないとダメだよ」と声をかけられたのだ。
とっさに身構えてしまった私に相手は慌てて身を引いた。距離が近すぎたことに気づいていなかった様子だった。顎に広がる青々とした髭の剃り跡に自分とは異質な存在としての成人男性が感じられたのを覚えている。あまり好意的でない表情を浮かべていたであろう私に対して、彼は少し早口になりつつ、熱湯をそのまま流すことが配水管を傷つけること、また、もったいないと感じられるかもしれないが冷水を一緒に流す必要があることを教えてくれた。
彼に下心があったのかどうかは分からない。兄は彼をいい人だと評したが、正直なところ兄の人を見る目は信用していなかったので、それは当てにならない。その兄の友人とはそれ以来、一度も会っていない。配水管の忠告以外で覚えているのは、兄が冗談めかして紹介した私の名前を聞いてうらやましいと言ったことだ。彼自身は面白みのない平凡な名前だから特徴のある名前がうらやましいと言っていた。
確かに彼自身は平凡で特徴のない名前だったはずだ。何しろ聞いたはずなのに今もまったく思い出せないのだから。
フロアに満ちた静寂の中、物思いにふける私がコップを磨く音だけが給湯室に響く。残業後、皆が帰ったあとのこの時間が好きだった。誰にも邪魔されず、気になる汚れが全て綺麗に拭い去られるまで、心行くまでスポンジとコップのこすれる独特な音を聞く。家だとついつい洗剤をケチってしまうが、会社なら遠慮はいらない。いつも新しいスポンジにたっぷりと洗剤を染み込ませ、コップが見えなくなるほど盛大に真っ白い泡を立てる。それを水で一気に洗い流すと綺麗に磨き上げられたコップが泡の中から魔法のように姿を現すのだ。
洗い終えたコップの水気を拭き取って食器棚にしまう。そして閉じた棚の隣を開く。そこに棚はなく、代わりに給湯器が設置されているのでダイアル式のスイッチをひねり電源をオフにした。
数年前に節電を理由として、定時後には強制的にガス給湯器がオフになるというお触れが出た。このご無体なお触れは、私を含めた大勢の慢性的な残業居残りメンバーたちが一致団結して猛反対したおかげで撤回された。しかしその条件として、フロアの最終退出者が電源を手動でオフにすることという条件を呑まされた。一度でも守られなかったら即「強制お湯無し残業時間」が始まるとあって、この電源チェックはフロアの決め事の中でもかなりの上位にくる。
余談だが、消し忘れを防ぐために「使うときだけ電源を入れること」というルールが提案されたが、電源を入れたらすぐに熱湯が出るだけではないため、給湯器が温まるまで待つ時間に誰も耐えきれず、すぐに廃止されてしまった。使われない道具に価値はないのだ。
自席に戻るとパソコンのシャットダウンは終わっていた。パタンという軽い音とともにノートパソコンを閉じる。黒い画面が視界から消えて、今日の勤務時間が終了したぞ、さあ明日の朝まで私は自由だ、という解放感が得られるこの瞬間がとても好きだ。この瞬間のために働いている、という言葉が浮かんだ。パラドックスめいていて面白い。
デスクの足元に置いていたアイボリーカラーのショルダーバッグを手にしたとき、中の化粧品が軽い音を立てた。化粧室に寄るか少し迷ってから、直接エレベーターホールへ向かった。直した化粧を見せる相手もいない。そう思ったからだ。
エレベーターホールの外に面した壁はそのまま大きな窓ガラスになっていて、遠くの山々まで良く見える。晴れた日は山の斜面に茂る緑の木々が目に鮮やかで、これから秋が深まるにつれて紅葉も映える。すでに日が落ちてしまっている今も、夜空よりもなお濃く黒い山影が、緩やかにアップダウンする稜線をくっきりと浮かび上がらせている。
昼も夜も天と地を緩やかにくっきりと線引く自然の曲線。
それはやっぱり美しくて、私は今日も諦め気味に祖父を許しつつ、エレベーターに乗り込むのだった。
りょうの ギア @re-giant
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