第31話 第七章 リスタート②

「よく来たな」

 アクア・ポセイドラゴンが、調子の良さそうな声で黒羽とサンクトゥスを歓迎した。

 ここは、ロッグ・ツリーの密集地にある川のほとり。見たところ、前に来た時と変わった様子はなく、川は夕陽に照らされながら、細々と流れている。

「解毒剤の効きはどうかしら?」

「完璧だ。あとは雨を降らせれば、プレンティファルの状態も改善されるだろう。その前に、黒羽よ」

「なんでしょう?」

 彼は器用にも前足を動かして、自身の背後を指差す。

「見てみろ。約束の品だ」

 黒羽は、ニヤつきそうになるのを何とか抑えた。まさか、こんな大事件に巻き込まれるとは思っていなかった黒羽としては、涙が出るほど嬉しい瞬間だ。

「……あれ?」

 思わず駆け出して、指定された場所に行くと、情けない声が口から飛び出した。黒羽の足元には、沢山の銀の花がある。アルバーノに手渡された花と、全く同じだ。まず間違いなく、ムーンドリップフラワーだろう。だが、

「ど、どういうことですか? 枯れている。これじゃ、とても使い物にならないですよ」

「落ち着け。我は一度交わした約束を違えたりはせぬ。見ておれ」

 日は地平線に沈みかけており、夜の気配が濃くなっていく。動物の鳴き声と川のせせらぎ。聞こえる音はそれくらいのもので実に静かだ。

 ――だが、静寂さが深まる森に、突如大きな音が鳴り響く。

 アクア・ポセイドラゴンが、太くて立派な前足を地面に強く打ち付けたのだ。彼の体から深緑のウロボロスが湯気のように立ち上り、甲羅に無数の穴が開いた。そこから大量の水が噴水のように発射され、上へ、上へと昇っていく。天翔ける水の勢いは凄まじく、一定の高度に到達すると、液体から気体へとなり、やがて雨雲となってプレンティファル全域を覆った。

「これは……」

「彼の能力よ。ああ、見て。雨が降るわ」

 サンクトゥスが指差した雨雲から、ポツリポツリと雨が降ってくる。始めは緩やかに、時間の経過と共に勢いは増した。

「かなり激しいな。おい、雨を凌げるところに退避しよう」

「あら、そんな勿体ないことするの? 嫌よ。私はここにいるわ」

「何を馬鹿なことを言って……」

 いるんだ。その言葉を紡ぐことができなかった。川は雨の影響で水かさが増し、流れが速くなっている。だが、黒羽の言葉を止めたのは、川ではない。その横のムーンドリップフラワーだ。

 先ほどまでの状態が嘘だったかのように、力強く天に向かって麗しき銀の花弁を誇っている。

「蘇っている。あんな状態だったのに、ここまで元気になるのか。ハハハ、やったぞ。もっと時間がかかると思ったのに」

「いいや、まだだ。お主が求めているムーンドリップフラワーの美しさは、この程度ではない。よいか、しかと刮目せよ」

 重く立ち込めていた雨雲の一部に、不自然な大穴が開く。大穴からは光り輝く星々が暗い夜空を彩っており、大きな月が浮かんでいる。

「満月か……そういえば、最近忙しくて夜空を見る暇もなかったな」

「勿体ないわね。仕事を頑張るのも良いけど、人生はそれだけではないのだから、もっと他にも目を向けなさいな」

 肩をすくめて、苦笑した黒羽は雨に濡れた顔を拭うと、真下に視線を移す。さて、何が起こるのだろうか。まさか月を見せたくて、雨雲をどかしてくれたわけではあるまい、と黒羽は期待を込めた眼差しで花を見守った。

「あ」

 劇的な変化があった。頭上の月が投げかける光を浴びて、ムーンドリップフラワーは淡く銀色の光をその身に灯す。

 ――なんて美しいのだろうか。

 黒羽は、溢れ出る涙を堪えることができなかった。月の光が落ちて、地を化粧しているように見える。風に揺れる花は優しげで、真横に流れる川を、辺りに散らばる岩を、植物を、横切った動物達を照らす。

「あ、何よ。泣いてるの秋仁」

 顔を背けて隠すが、どうせバレているのだ。元の位置に顔を戻して開き直った。

「悪いか。涙くらい出るさ」

 美しい。もっと、近くで見てみたい。

 黒羽は、銀のカーペットに足を踏み入れた。足元を天然のイルミネーションが照らして、とても気分が良い。なあ、君も近寄ってみないか、とサンクトゥスへ声をかけようとして笑ってしまった。

「君だって泣いているじゃないか」

「え? あら、本当だわ」

 手で涙を拭い、彼女は気恥ずかしそうな様子で言った。

「私ね。昔、人間達に神様として扱われていた時に、彼らがよく踊っている姿を見かけたの。楽しそうだなって思ってたけど、誰も神様と踊るなんて言ってくれないし、兄さんはそういうの苦手だから、躍ったことがないの。だから、その……こんな美しい場所で踊ってみたいなって夢見てて。それを思いだして、ちょっと感慨深くなっただけ。それだけよ」

「だったらさ。その、躍らないか。俺と」

「え?」

 気恥ずかしいが、相棒としてそれくらいの望みは叶えてあげたいと思った。黒羽は手を伸ばして、人生で初めて女性をダンスに誘った。

「嫌じゃなかったら、どうぞこの手を」

 彼女も恥ずかしかったのだろうか。もじもじとしていたが、黒羽の手を握ると嬉しそうに笑ってくれた。

 花を踏まないように、慎重に足を運ぶ。黒羽にダンスの経験はない。それは、サンクトゥスも同じだったが、非常に些細な問題だ。

 遠くから聞こえる雨音と川の流れる音をBGMに、銀のスポットライトを真下から浴びて、二人はぎこちなく踊る。

 幻想的で、ロマンチックな光景に、やや離れた位置にいたアクア・ポセイドラゴンは空気を読んで、周りの岩に同化するように静かに目を瞑った。

 恵みの雨はなおも降り続け、森と町に生きる全ての生き物を喜びへと誘った。

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