第29話 第六章 カリム強襲④
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ。負けだと。お前らに何ができる」
二対の翼を羽ばたかせて大空を舞ったカリムは、口を開き、息を大きく吸い込む。嫌な予感がした黒羽は、サンクトゥスに慌てて問いかけた。
「おい、ドラゴンってやっぱり火を吹くのか」
「ドラゴンによるわ。でも、ほら私とカリムは、変身できるから、体をそういう構造にしちゃえばね」
黒竜の口の奥から炎がちろりちろりと覗き、すぐにでも発射されそうだ。
「防ぐ方法は」
「炎自体はウロボロスじゃないから、魔法でも防げるはずよ。皆! ありったけの魔力を込めて、水の魔法を発動させなさい」
言い終わるか否かというタイミングで、炎の海原が空を焦がす。炎が近づくごとに、肌が灼ける熱い感触がする。このままでは……と歯を食いしばった時、黒羽の眼前に巨大な水のバリアが形成された。
「小癪な人間どもが!」
空中で演じられる炎と水の鍔迫り合い。水が蒸発する音が激しく聞こえる。
「秋仁、無事か」
心配そうな様子で近寄ってきたのは、『万能百貨店』の店主アルバーノだ。
「はい。アルバーノさんも怪我をしていないようで安心しましたよ」
「おっと、まだ安心するのは早いですよ」
この声は……レミルだ。彼はアルバーノの背後から顔を出すと、人差し指を真横に突き出した。
「皆さん。あそこの馬車にヒューチャを用意しています。お代は結構ですので、各自自由にお食べください」
「おいおい、良いのかよ? ヒューチャってアレだろ。魔力を回復できるっていう幻の果実。超高級品じゃねえかよ」
アルバーノは信じられないという目でレミルを見る。彼は、大げさに首を横に振った。
「町が完全に潰されるよりは、大盤振る舞いした方が良いでしょう。それに、私の大切な女性を危険な目に遭わせたドラゴンは許せませんので。自警団の皆さん! 到着が遅れた分、ありったけの魔力を込めて黒竜の炎を凌ぎきってください」
レミルの言葉にアルバーノは笑い、彼の肩を強く二度叩いた。
「ダハハ、レミルよ最高だぜ。あっとそうだ、黒羽よ。アンタに伝えることがあった」
アルバーノは懐から萎びた銀の花を取り出した。――これは間違いない。ムーンドリップフラワーだ。
「ビックリしたぜ。さっきエメんとこの宿に行ったらよ。でっかい声が聞こえるじゃねえか。驚いて二階の部屋に行ったら、妙な扉の奥にアクア・ポセイドラゴンがいるじゃねえか。食われると思ったが、奴さん俺にこの花を手渡してこう言った。力を取り戻すことができたら、沢山譲ってやろうってな」
黒羽は震える手でムーンドリップフラワーを掴み、穴が開くほどじっくりと眺めた。喉から手が出るほど欲しかったこの花を譲ってくれる。ということは、原価が無料なのだ。非常時にもかかわらず、そんな打算的な考えが頭に浮かんだ自身に内心呆れたが、おかげでもうひと頑張りできそうだ。
「よし。サンクトゥス、ブレスは次を発射するまでどの程度の時間がかかる?」
「……すぐには発射できないはずよ。あ、その顔。何か考えがあるのね。だんだんとあなたのことが分かってきたわ」
「ああ、これにかける。レア、エメさん。どうにかして、ヤツの炎を防ぎきってください」
黄色い果物を食べている親子に声をかけると、二人はよく似た笑みを浮かべた。
「黒羽さん。私と娘が全力を出せば、防ぐなんて造作もありません」
「そうですよ。むしろ、押し返してやりますから、見ててください。黒羽さん、サンクトゥスさん。任せましたよ。信じてますから」
銀と金の瞳に変化した二人を見届けると、黒羽は刀を鞘に納める。
「サンクトゥス。力をありったけ貸してほしい」
「もちろんよ秋仁。私のお馬鹿な兄さんを止めるのを手伝って」
「ああ。二人で阻止するぞ」
呼吸を一つ、のちに魔力を細胞の一片にいたるまで染み渡らせる。柄に手を優しく置き、腰を低く落とす。周りの音が遠のき、自身の心音とウロボロスだけしか感じられなくなるまで集中を高めていく。体はとうに限界だったが、黒羽は不思議と負ける気がしなかった。
※
一方その頃、カリムと町民達との命がけの綱引きは終盤戦へと突入していた。
町民の魔力を注いで形成された水のバリアは、さらに分厚く逞しいものへと変貌した。理由は明白。高魔力をその身に宿すエメとレアの力が合わさったのだ。
「ガアアアアアアアア」
カリムはさらにブレスの勢いを強めたが、水のバリアを突破できずに、ついに炎と水の鍔迫り合いは相打ちの決着となった。
町は戦いの副産物とも言える水蒸気で包まれ、町民とカリムは互いの姿を見失う。
――否、カリムは自身に向かってくる影を瞳に捕らえた。水蒸気の中から轟音を響かせながら、上空へ舞うその影の正体こそ、黒羽秋仁その人である。
※
「ハアアアアアアアアアア!」
雄叫びとともに黒羽は、鞘から刀を水平に抜き放った。
「グゥ。……痛くない? ハハハ、失敗したか」
「いいや」
空間を抉る斬撃を放ち終えた黒羽は、不敵に笑う。
「狙い通りだ」
「何? ヌァ!」
カリムの胸から鮮血が迸る。ダメージから翼を上手く羽ばたかせることができず、真っ逆さまに黒い巨体が落下していく。
地面を揺らしつつ、中央広間に落下したカリムは、ドラゴンの姿から人の姿へと変化した。
「あり得ぬ。人が俺を倒すだと? 馬鹿な」
「兄さん」
人の姿になったサンクトゥスは、兄のもとへ駆け寄った。
「おのれ、サンクトゥス。なぜだ。人は醜悪な生き物だ。お前は、俺の傍にいるべきだ」
「いいえ、カリム。私達の道はあの時から分かれているわ。トゥルーに渡っても、始まりの世界で行ったような殺戮をし始めたあなたを、この手で止めようと決意した時からずっとね」
「ふざけるな! サンクトゥス。俺はお前を愛しているんだ。俺の妹。俺の宝よ。人を滅することは、お前が暮らしやすい世界を作ることにも繋がるんだ。どうして理解できない」
首を振り、サンクトゥスは寂しげに言葉を絞り出した。
「そんな血塗られた世界で生きていきたくないわ」
胸の傷から血が溢れているが、よほどショックだったのだろう。カリムは、呆然とサンクトゥスを見つめる。
「サンクトゥス……」
今にも泣きそうな彼女の肩に、黒羽はそっと手を置いた。サンクトゥスは、その手に自身の手を重ね、甘えるように黒羽の前腕に頭を乗せた。
「貴様、何をしている……黒羽秋仁! 貴様か。貴様が、俺の妹をたぶらかしたのか」
ふらつきながら立ち上がったカリムは、拳を構え近寄ってくる。
「待て、誤解だ」
「うるさい、黙れ! 殺してやる。貴様だけは許さん」
一歩、二歩と歩を進め、もう間もなく黒羽を殴れるという位置に来た時、光が両者の間に発生し、唐突に白髪頭の男性が現れた。
「引けカリムよ。その怪我では、ろくに動けないであろう」
「ア、アルトゥール様! なぜこのような場所に」
髪は短く刈り込まれており、年齢は四十から五十歳といったところだろう。鋭い眼光が印象的だが、見た目はただの人間だ。だが、登場の仕方とカリムの態度からして、ただ者ではないのは確実だろう。
「帰還するぞ」
「しかし、アルトゥール様。私にはまだやるべきことが」
「死んでしまっては元も子もない。チャンスは次もある。今日のところは言うことを聞いてほしい」
悔しそうに歯を食いしばったカリムは、鬼の形相で黒羽を睨みつけた。
「貴様。俺の声を、顔を、よく覚えておけ。必ず殺す。そして、妹をお前ら人から取り返す」
「待ちなさい。何を勝手なことを言っているのかしら。逃がさないわ」
瞬間移動と見間違うほどの速さでカリムに手を伸ばすサンクトゥス。しかし、それ以上の速さでカリムとアルトゥールは消えてしまう。
「クソ。逃がしてしまった。サンクトゥス、君はあの白髪の男を知っているのか?」
「いいえ。見たこともないわ。ただ言えることは、尋常ならざる力を持っているのは確かね」
納得はいかないが、今はどうすることもできない。黒羽は、多少ふらつきを覚える体を動かして、カリムが立ち去った辺りを眺めた。すると、小さな小瓶が落ちているのを発見する。
「これは……カリムのか」
「貸して」
黒羽の手からひったくるように小瓶を受け取ったサンクトゥスは、蓋を開けてにおいを嗅ぐ。
「妙なにおいだけど、たぶん毒ではなさそうね」
「なあ、それってもしかすると……解毒剤じゃないのか」
「解毒剤って、ポセイドラゴンの? ……あり得るわね。ともかく、早く持って行ってあげましょう。彼が復活して、川が元通りになれば、きっとこの町の人々も少しは元気になるはずよ」
頷いたものの、とても素直には喜べない。町の様子は見るも無残な有様だ。石畳の地面はめくれ、建物は数棟が崩落している。
カリム達は幻想のように消えてしまったが、幻想と言うにはあまりにも甚大な被害を残していった。
空は悲しむ人々の気持ちに反して、滲むような美しい茜色に染まっていた。
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