地獄~Entkommen!
「リチャードは、何だってあのチビ共にご執心なんだ?」
カラビナを外しながら、男はヘリの窓外に目をやる。眼下には、リヒテンシュタイン共和国とオーストリアの国境の山並。はるか後ろには黒煙をあげる車。その中には3分前まで仲間だった人間2名。ヘリの中には、使えるほうの仲間が2人残っている。それで十分だ。
「リチャードではない。リヒャルトだよ、ライアン君。それに、私の呼び方はトラクルおじさん、と呼んでほしいな」
「ああ、そうだったな」
ここは、もうアメリカではないのだ。男は、改めて思う。
――新しい道を選んだんだ、俺は。と。
男の故郷は、鉄鋼工場が閉鎖されてから寂れていく一方だった。ほこりと鉄さびと廃墟――そして、変わるべきなのに、変わろうとしない人々。
工場に勤めていた男の父親は、職を求めてあれこれと手を尽くしていた。別な工場、自動車整備士、配管工、大工、果てはなんでも屋。いろいろと職を変えても、経営の悪化で解雇されたり、会社や店そのものがなくなったりして、最後には無職になった。
街を出ればいいのに。男は言った。
お前の学校があるだろう。父親は言う。
この街はダメなんだよ、もう。男はさらに言った。
知った風なことを言うな。俺はこの街で生きてきた。これからもそうする。父親は頑なだった。
男は、思った。
「違う、あんたは怖いんだ。本当は別な街が怖いだけだ。知らない場所が怖いのだ。俺を言い訳にするな」
けれども父親は、息子の胸のうちにある思いに気づきもせず、自分自身のうちにある恐怖にすら気づかなかった。
父親は、隣の州の大きな街まで通って、なんだかわからないセミナーを受けた。自己啓発とか、自己能力開発とか、新しい自分を見つけるとか、そういう類のものだ。残っていたわずかな貯金を使って。
それは結局、何の役にも立たなかった。
次に父親がはまったのは、
そして、何も変わらなかった。
母親は怒った。貯金を使ってしまったから。その上職にありつけなかったから。そして出て行った。
そうして男は、「弱った人間はハゲタカの餌食になる」ということを学習した。父親は学習しなかった。
そして、父親は昼間から酒を飲むようになり、息子を殴るようになった。
男の食事は、貧民救済のボランティア団体が配るものになった。男にとっては腹を満たすだけの、まるで家畜の餌のような食事だった。
服は教会で配られる古着をもらうようになった。古くなった服には、酸化した皮脂の匂いがこびりついて、洗っても取れない。それはまるで、貧者につけられた緋文字のようだった。
――
この頃から、男は嗤うようになった。
自分の父親を、街の大人たちを、自分を馬鹿にする者たちを、そして自分自身を。
男の頭の中に渦巻く想念。
「どうして、この世界は、こうなのだろう。ぼんやりしていれば、何もかも奪われ、意味なく殴られ、自尊心など木っ端微塵に砕かれる世界」
18歳になり、男は軍に入隊した。弱さには辟易していた。オヤジのような負け犬にはなりたくなかった。そのために、規律と強さが必要だと考えた。
軍の中は、まさに弱肉強食だった。いじめ、しごき、男が男を、あるいは女をレイプするのも目の当たりにした。
ある日、上官に呼び出された。新兵の態度が悪いので、お灸をすえていた。お前がやれ、と言われた。男はズボンのベルトに手をかけた。新兵の目がおびえたように見開かれていた。男は目をそらした。命令どおりに行動するまでだ。ここは軍隊だ。
翌日、その新兵は居なくなっていた。自殺したと、後から聞いた。
男はいい気分ではなかった。
だが、仕方がない。ヤらなければ、俺がヤられていた、と男は自分に言い聞かせた。
再び、男の頭の中に渦巻く想念。
「なぜ、この世界はこうなのだろうか。自分で自分を守れないヤツはこっぴどい目にあい、破滅へと転げ落ちていく世界。そこで自分にいったい何ができるというのだろう?」
男は除隊した。自殺した男が残した遺書が見つかったのだ。彼は上官の命令に従っただけだと言ったが、貴様の責任だと言われた。納得がいかなかった。
男は、さらなる強さを求めた。己のうちに。彼は傭兵になった。
そこは、さらに過酷な場所だった。単純に軍隊的規律と自由という相反するものが好きな人間もいたが、ほとんどが、過去に問題を起こして軍を追われたものだ。暴力と銃弾と爆薬にしか、活路を見出せない人間の集団――。
そこで男は、重火器の知識を増やし、近接戦闘能力を磨き、彼自身の仲間を3人殺した。
一人は、彼のミスで敵の攻撃を受けた。一人は、喧嘩の勢いだった。もう一人は――何の理由だったかも忘れた。どれも大差ない。俺は、すでに人殺しだ。彼はそう考えた。
「何ゆえ、この世界はこうなのだろう? 各々がそれぞれの権利/欲望/不幸/衝動を振りかざし、他人の権利を
殺した仲間の荷物から金目のものを奪っている仲間の背中越しに、彼の視界に入ってきた一冊の本――ファウスト。ドイツの文豪の手による戯曲。
なんだってこんなものを奴が持っていたのだろう、全くわからない。そう思い、男は本を手に取った。パラパラとページをめくる。地獄巡りツアーを楽しんだ後、悪魔に魂を盗られる――宗教的な啓示に満ちた
その翌日、男のもとに、リヒャルト・トラクルがやって来た。甘いささやき。
「やあ、ライアン君。私は君のような、才能ある有望な若者を探していたんだよ。ああ、私のことはトラクルおじさんと呼んでくれたまえ。
君は、力を注ぐべき、情熱を傾けるべき使命を見つけられず、自分の有能さを持て余しているように、私には見えるんだ。君の魂が求めるものを、私は与えられると思うのだがね。
君は、自分を助けもせず、偽善にまみれた嘘を垂れ流す、この世界が嫌いなのだろう? 君には、ある国で、君にふさわしい仕事をして欲しいと思っているんだ。君にしかできない有意義な仕事だ。必要な道具は私が全て用意するよ。もちろん十分な報酬も。私達の理想を叶えるために、協力しようじゃないか」
男の頭の中でカチリと何かが鳴った。
彼は思った。
ファウストが降りてきた。
いや、ゲーテが降りてきた。
この際どちらでもいい。
何かが降りてきた。俺のもとに。
それはまさに、積み重ねられた不幸という導火線に、偶然が火をつけた瞬間だった。
理由のない不運や不幸に、人は無理やりに理由を見つけ出そうとする。見つからないときには、時に間違った論理に飛びついてしまう。答えが、どうしても欲しくて――。
男の場合はファウストだった。それは、男にとって、神のいらえ。
「とどのつまり、この世界は地獄だ。
当事者でいることを止め、傍観者として地獄を見て、嗤っていればいい――ファウスト博士のように。
良心/共感/慈愛/道徳/善良さなどというちっぽけな自己満足を己の足で踏み潰し、蹴り飛ばし、笑い飛ばしさえすれば、何でも手に入る。
見ろ、力さえあれば何でも可能だ。
隣には、武器でも軍用ヘリでも何でも調達してくれる、頼りになるメフィストフェレスがいて、美しい山並みを越えて新たな故郷に帰り、他人から奪った金でヘレナのような美女を買い、高い酒を飲み、上手い飯を食う。このすばらしき地獄――」
「私はあの
メフィスト――リヒャルトが唐突に先ほどの男の質問に答えた。
「そうか」
男は答えた。
「欲しければ、手に入れればいい。どうせ、この世界は地獄なのだから。だってそうだろう? 俺みたいな平凡な人間がこうなっちまうんだから。だから、この世界は地獄なんだよ」
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