すすけた缶
ヒスイ
Episode
部屋の整理をすることは、過去の記憶を整理するようなものである。
遠い昔の記憶。いつの頃だったか、僕は、たぶん恋をしていた。そんな記憶を思い起こしながら、クローゼットの奥に押し込められていた缶を開け、僕は、その中にある便箋を読んでいた。缶の中からは古い紙のいい香りと、煙の香りがしていた。
「あなたは、つらいですか?」
僕が学校に着くと、机の中には一枚の便箋が入っていた。便箋には綺麗な水仙の挿絵がプリントされていて、中には綺麗な字で、そう書かれていた。
その頃の僕は、ただのイタズラだと思って、そのままカバンの中に便箋をしまった。
僕はその時、いじめられていた。世間一般から言えば、いじめられている、と言わないようなささいな諍いのようなものだったが、その時の僕はいじめを受けていると認識していた。
だからこれも、誰かの嫌がらせだろう、と僕は思った。きっと誰かがこの手紙を読んでいる僕の反応を面白がっているに違いない、そう思ってあたりを見渡したが、僕を見ている人は誰もいなかった。
結局その日、手紙の差出人は判明しなかった。
翌日、学校に来るとまた、机の中に便箋が入っていた。
「あなたは、この世界を嫌いになったことはありますか。」
この便箋もまた、同じように綺麗な字で書かれていた。
僕はその手紙も、同じようにカバンにしまった。あたりの反応をうかがったが、誰も僕を見ていることはなかった。
いじめられている、そう感じるようになったのはいつだっただろう。僕は思いを巡らす。明確な境界はわからなかったが、おそらく小学校5年生ごろだったように思われる。
それまで、僕は同じ学校に通う川上くんと仲良しだった。彼が塾に入ったと聞いて、僕も同じ塾の入会試験を受けて、入塾した。彼はそれを歓迎してくれて、塾に毎回一緒に通っていた。
そのくらい、彼とは仲が良かった。僕は彼と切磋琢磨しながら、塾に通う日々が楽しかった。
しかし、川上くんはそうでもなかったようだった。川上くんは、僕よりも少しだけ頭が良かったが、お互いにほとんど差はなかった。だから、僕にテストの点数で負けると、すごく悔しそうにしていた。一方僕はそんなことには興味がなく、負けた時にもニコニコ笑っていた。勉強する空間が好きで、成績は僕にとってさして重要な要素ではなかった。
僕は周りの少年たちに比べて、少しだけ頭が良かったし、自分でそれを自覚していた。僕はそれを自慢するでもなく、かと言って謙遜するでもなく、それを感情の介入なしに受け入れていた。だから、成績というものについてこだわる彼の心情が、僕には理解できなかった。
そんな日々を過ごしていた日々の中で、僕はたまたま塾のテストで100点を取った。100点はクラスの中で僕だけで、僕はとても喜んだ。普段一番などなったことがなかったので、とても嬉しかったのだろう、僕は色んな人に自慢して回った。
今思うと、バカなことをしたなぁと思う。川上くんは、よほど悔しかったのか、僕に口をきいてくれなくなってしまった。
川上くんは、クラスの人気者だった。スポーツができて、頭が良くて、話が面白かった。そんな彼が僕を無視し始めたら、どうなるだろうか。答えはすぐに現実となった。僕はクラスで無視されるようになったのだ。
それでも、僕は平気だった。僕は友達と遊んで登下校する代わりに、本を読みながら登下校をした。本は新しい世界を見せてくれる、僕の友達だった。それはそれで、僕は満足だった。
川上くんは、どうやら僕が困らなかったことすらも不満をだったらしい。川上くんは、クラス内の雰囲気を動かし始めた。
川上くんはことあるにつけて、自分を自慢するようになった。そしてその時に、僕の悪口を言うようになった。主に、僕が塾で失敗した話。面白可笑しく語る川上くんの話は、瞬く間にクラス中に広まった。
そのうち、クラスの中で、僕はいじめてもいい存在だ、ということになっていった。
めんどくさい当番や仕事は、僕に押し付けられるようになった。授業で僕が当てられるとクスクス笑い声が聞こえるようになり、休み時間は僕は無視され続けた。
僕はだんだん学校が楽しくなくなっていった。面白い本だけが、僕の理解者だった。
「何か、話したいことはないですか?」
翌日もまた、便箋が入っていた。
この便箋もまた、僕はカバンの中にしまって、僕は何事もなかったかのように席に着いた。
僕はその便箋の下に、「あなたは誰ですか?」と書き足して、机の裏にセロハンテープで貼り付けた。机の中に入れているだけではバレてしまうと思ったからだ。
その日も、僕は1人で過ごした。
体育のペアを作れと言われても当然1人だったし、休み時間は本を読んでいたし、帰り道も当然1人だった。
影から感じる視線が、クスクス笑う声が、僕を包み込んだ。でも、もはや僕の心はそれらによって揺り動かされることはなかった。
翌日もまた、便箋が入っていた。
「確かに、自己紹介がまだでしたね。せっかくですし、自己紹介したいので放課後、屋上に来てもらえますか?」
この便箋もまた、たたんでカバンに入れた。多少の不安があったし、まだからかわれているような不安もあったが、それよりもはっきりさせたいと思う気持ちの方が強かった。そこで僕は放課後、屋上へ行くことを決意した。
10月のこの季節、だんだんと風が冷たくなり、長袖を着るようになる時期にもかかわらず、放課後、僕は屋上にいた。
フェンスを登るって座っていると、そこはとても景色が良く、清々しい気持ちになった。いつもは冷たく感じる風も、この時は心地よいものに感じられた。
そんなことを考えていると、カッカッカッと誰かが階段を昇ってくる音がして、僕は振り返った。
重いドアの開く音がして、屋上にやってきたのは、髪の長い、ポニーテールの、1人の女の子……というか、クラスメイトだった。
「私は上川英梨。まあ知ってると思うけど、同じ5年1組のクラスメイトです。手紙を書いてたのは、私です。」
ふわっとした笑顔に、僕の心は躍った。秋の風に髪をなびかせた彼女は、その時転校してきたばかりで、クラスにまだ馴染んでいなかった。彼女は、かなりの美少女で、テレビなんかに出ていてもなんらおかしくないような雰囲気を持っていた。美人だけど少し怖い感じがする、と皆が言っているのを聞いたことがある。おそらく僕がいじめられていることを知らなかったから、僕に話しかけて来たのだろうと思った。
僕も自己紹介をしようとフェンスを降りようとしたが、上川さんはそれを止めると、自分もフェンスを登り始めた。
「僕は、まあ知ってると思うけど、及川徹って言います。よろしく。」
登り終えた彼女に、僕はぶっきらぼうに返事をした。
彼女は、うんよろしく、と笑顔を見せると、目を閉じて、深呼吸をした。
「すごく、綺麗。空気も、景色も。」
彼女は、なにやらブツブツと言っていたが、急にため息をつくと沈黙が訪れた。特に何かあるわけでもなく、2人で心地よい風を感じていた。
幸せな時間だった。
突然、彼女は、少しいいかな、とことわりを入れてから、僕に話し始めた。僕はすこし背筋を伸ばしてその話を聞いた。
「あのさ、私、前の学校でいじめられてたんだよ。」
「えっ?」
「だからさ、わかるんだよ。君は、このクラスでいじめられてるでしょ?」
僕は驚いて、上川さんを見た。
「だったら、なんで僕に関わろうと思ったの?もしかしたら、君もそうやっていじめられるかもしれないのに。」
僕は純粋に疑問に思った。普通、いじめられている人に率先して近づいていくことはしない。離れて哀れむような視線を向けるか、むしろいじめる側に回るかだ。しかし、上川さんは朗らかに笑って、僕を見た。
「そうだね。そうかもしれない。でもまあ、そしたらその時だよ。」
上川さんは転校生だからか、それとも美貌のせいか、他のクラスメイトとはどこか雰囲気が違っていた。
なぜか、彼女のことは信じてもいいような気がした。
「ところでさ、これからも手紙書いてもいい?」
意図はよくわからなかったが、別に迷惑はしていなかったので、首を縦に振った。
「なんかさ、こういうのって、いいよね。」
上川さんはつぶやくようにいった。
「え?何が?」
「手紙とか、そういうのって、なんかいいなぁと思って。ロマンチックじゃない?」
上川さんはどこか、遠くを見るように話し始めた。
「私はさ、昔いじめられてたんだよね。で、その時、学校にたった1人友達がいたの。その子は、まあ面と向かって私を助けようとしてくれたわけじゃないし、陰からじっとみてるような子だったけど、すこしでも苦しみが和らぐようにって、私と文通してくれたの。私がずーっと愚痴を言って、それを全部読んで返信してくれてたんだ。その時の話をすると長くなるけど、私は、きっとその時、あの子と文通をするために学校に行ってたような気がするの。私はそれに救われてた。今の私があるのは、きっとあの子のおかげ。だからさ、今度は私がその子みたいになってあげたいなぁと思ったんだよ。」
僕は、久しぶりに人から親切にしてもらったからか、とても戸惑っていた。上川さんはきっと親切にしてくれているのだろう、それはわかっていた。しかし、僕は好意に戸惑っていた。その好意を信じることが、そのときの僕にはできなかった。
しばらくの沈黙があった。また風が吹いてきて、僕の頬をすこし冷やした。心地よい風は屋上にある風力発電の風車を回し、ひゅるるると音を立てていた。
「そういえば」
会話がなくなった場に耐えられなくなった僕は、口を開いた。
「そういえば、僕はどこに手紙を送ればいいの?返信もしたいんだけど。」
上川さんは少し考えると、僕に提案した。
「じゃあさ、放課後一回、この屋上で手紙を交換しない?」
上川さんはフェンスから降りると、軽い足取りで屋上のドアへ向かった。
上川さんの姿が屋上からなくなった後、僕はため息をついて、フェンスを降りた。吹いていた冷たい風は、どこか暖かさを含んでいた。
それから僕らは毎日、放課後の屋上で手紙を交換した。最初は一言しか書かれていない便箋を交換していたが、徐々に文言が増えていき、2週間が経った頃には便箋が3枚も4枚も必要となるくらいたくさんの文章を書いて交換していた。
相変わらず教室でしゃべることは何もなく、僕は1人きりだったが、虚しさや寂しさは微塵も感じることはなかった。僕が学校へ来る理由は、放課後すぐ、手紙を交換する一瞬のためだった。
毎日、学校で喋らない言葉は全て、彼女への手紙の中に書き込まれた。自分を知って欲しい、自分を見て欲しい、そういったクラスでは見せることのなかった感情が、手紙を書いているときの僕に集約されていた。普通の人が、当たり前に持っている感情、それが、その時の僕にも蘇り、溢れていた。
僕は幸せだった。自分が自分であると認めてくれるのは、彼女が初めてだった。転校を繰り返してきた彼女は、面白い話をたくさん知っていたし、物知りだった。僕は、必死に面白い話題を考え、手紙に書いた。手紙に書く文章は何度も考え直した。僕は、彼女を尊敬し、羨み、そして彼女に恋していた。
しかし、そんな日々も長くは続かなかった。
ある曇りの日、僕はいつものように屋上で手紙を交換して家に帰った。またいつものようにペーパーナイフで封を切った。紙が切れる音が僕の期待を煽り、なんとも言えない高揚感を覚えるひとときだった。この瞬間が僕の生を感じる時間だった。
はやる気持ちを抑えつつ、いつものように僕は手紙を開いた。
毎日、そこにはたくさんの文字が並んでいた。いや、並んでいたはずだった。
しかしこの日開けた手紙には一言、「転校します。」という文字が書かれていただけだった。
「えっ?」
僕の口から、息が漏れた。
************************************
それから、僕は学校を休みがちになった。
別に特段理由があったわけではない。「昼ごはんは食べたいけど、ご飯を作るのはめんどくさいからカップラーメンでいいかな」というくらいの軽さで、学校を頻繁に休んでいた。
外がどんどん寒くなって木々が色づくようになっても、僕の生活は変わらなかった。
学校に行くことに魅力を感じなくなったからかもしれないし、学校に行く気力がわかなかったからかもしれない。部屋のベッドに座って、寒くなっていく季節に身を震わせながら、たったひとり、本を読んでいた。
ある晴れた日、久々に早くに起きた僕は、外へ出かけることにした。
休日の通学路には当然ランドセルの姿は見えず、ほとんど誰もいなかった。僕は家の周りの景色を楽しみながら散歩をすることにした。
20分ほど歩いたのち、僕は学校の裏にいた。学校に惹かれたわけでも、ましてや用事があったわけでもないが、本当になんとなく、僕は学校のフェンスをよじ登って学校へ侵入した。
冬の冷えた廊下を靴下で歩くと、なんだかすこし悪いことをしている気がして、僕は心が踊った。足先から伝わる、底冷えするような寒さが体を駆け上り、僕は体を震わせた。
五年生の教室、理科室、図工室。廊下から覗く教室には人気はなく、自分の足音が響く廊下は、なんだか別世界へ繋がっているような気がして、僕はすこし、怖くなった。
それから、僕は屋上へ向かった。
壊れた南京錠を外し、屋上へのドアを開けると、すごい音とともに風が吹いて来て、僕は誰もいないはず学校なのに、誰かにバレたのではないかと不安になった。
屋上は、何も変わっていなかった。
少し見晴らしのいい屋上は、冬の冷たい風が吹き抜けて、恐ろしいほど寒くなっていた。僕はコートをしっかり掴んでドアを閉めた。
僕はいつものように、フェンスによじ登って腰掛けた。フェンスは風にあおられてガタガタなっていた。
ふと、空を見上げた。
空が青く、高かった。
高く浮かんだ雲が、ゆったりと動いていた。
飛行機雲が伸びていく。
そんな景色を見て、僕は気まぐれにも、このまま死んでもいいんじゃないかと思った。
そう思ったとたん、急に僕は死にたくなった。
死んでしまいたい、死んで、あの空の向こうに行ってみたい。
死とはなんなのか、それは家にいる間にずっと考えていたことだった。その時の僕に明確な答えはなかったが、少なくとも今生きている世界よりはマシなのではないか、と僕はなんの根拠もなく確信していた。
屋上のフェンスに登って見る下界の景色は、彼女がいた時と変わらず、とても綺麗だった。
遠い場所、僕を誰も知らない場所に。諦めのつく場所、彼女に手の届かなくなる場所に。そんな場所に行きたい。そんな場所に行く手段がほしい。心底僕は願っていた。
しかし、その一歩を踏み出すことが、僕にはできなかった。
長い間もたもたしていると、突然、ギシギシッとフェンスが揺れ、僕はバランスを崩した。
自分にかかる重力と、耳元でなる風を切る音とに、僕の心臓は飛び跳ねた。
このまま死ぬかもしれない、そう思うだけで、僕は咄嗟にフェンスから飛んだ。
僕は尻餅をついて、屋上に着地をした。
いてて……と僕は呻き、フェンスを睨みつけた。バランスを崩し、フェンスから屋上の地面に落ちただけだった。
フェンスが揺れた程度でビビってしまう自分が情けなく、死を覚悟できない自分に腹が立った。
僕はこのやりきれない思いをドアにぶつけて、屋上を後にした。
その夜、僕は眠れずにいた。
布団をかぶったり、枕の位置を何回も変えたりして、ぼくは無為な時間を過ごしていた。
ベッドから見えるのはただ白い天井だった。白い天井を見ながら、ぼくは昼間のことを思い出していた。
死にたいと思ったこと。でも、いざ死ぬかもしれないという時に、すごく怯えてしまったこと。
フェンスから落ちるシーンが幾度となく脳内で再生され、僕はそんな自分にすごく腹が立った。
なんども沸き起こる感情を抑えきれず、寝ることができたのは日付をまたぐ頃になってからだった。
目を開けると、暑かったのか、汗でベタベタしていた。僕はシャツを着替えようと、体を起こした。メガネをかけると、僕は何か異様なことが起こっていることに気づいた。
窓の外が、少しオレンジ色に霞んでいて、玄関のドアからは黒い煙が徐々に入ってきていた。
寝起きの回らない頭でも、これが火災であることが一発でわかった。
ドアから入ってくる煙が徐々に増してきて、部屋に充満していく。ゲホッゲホッっと咳をして、僕はベランダの窓を開けた。
僕の家は4Fだった。僕は身を乗り出して火災を確認したが、上の階はすでに火の手が回っているようで、大量の煙が出ていることが確認できた。
机の上に放置されていた手紙をかき集め、適当な缶にそれを詰め込むと、僕はそれを持って座り込んだ。
もしかするとこれはチャンスなのではないか、と僕は思った。
昼間、死を覚悟しつつも怖がってしまった僕の、挽回の機会かもしれない、と思った。
死のう。逃げるのをやめよう。そう思った。
そんな決意を横に、僕は上のほうから何か音がするのが聞こえた。
不快なモーターの駆動音とともに避難はしごが下がってきたかと思うと、そのはしごをたどって、近所の高校の制服を着た女の子が降りてきた。
目が合う。
「逃げないの?」
心配そうにのぞき込んできた。純粋な彼女の瞳には光が、すなわち生気があった。
「ねぇ、逃げないの?死んじゃうよ?」
「あのさ、人ってなんで生きたいと思うんだと思う?」
僕は女の子の質問を無視して、質問で返した。ずいぶんと哲学的な問いだ。だが、僕はその答えなしに逃げることはできなかった。
パチパチパチ、と家の焼ける音がする。
そんなことを気にする様子もなく、女の子は苦笑いを浮かべた。
「生きたい、ね。特にないかな。それを探すのが人生だって話もあるし、そういうものなんじゃないの?」
一般論だ。そうだろう。みんなそうやって生きているだろう。
でも。
でも、僕はその答えに納得がいかなかった。
「じゃ、じゃあ。」
僕は続ける。
「じゃあ、それが見つからなかったら?それが見つからないまま死んだら?もし見つかっても果たせず死んじゃったら?それでも生きることに価値はあるの?」
バタン、とドアの焼け落ちた音がする。気づくと、すでに火の手は玄関を突破してリビングにさしかかっていた。
質問をたたみかける僕に、彼女はなおも苦笑いを浮かべている。
「でもね、本音を言っちゃうと、怖いんだよ。」
「怖い?」
長く息を吐き、彼女は口を開く。
「だってさ、死ぬのって怖くない?人間って、死ぬのが怖いようにできてるんだと思う。だから、それに逆らおうとするのって勇気がすごくいると思うんだ。」
一呼吸置いて、彼女は続ける。
僕は、はっとした。そして昼間の屋上での出来事が脳裏を駆け回った。
加速度、空気抵抗、平衡感覚、すべての感覚が自分へ恐怖を与えたこと。そんな当たり前のことに、僕は自己嫌悪を感じていたこと。
「死が怖い。」
確認するように、僕はかすれた声でつぶやいた。
当然のことであるはずなのに、僕はそのことを見失っていた気がする。
「無理に怖いことする必要もないじゃない。だったらさ。」
ふと、自分の目から涙がこぼれ落ちた。
「そのうち死ぬのを待って、それまでは適当に生きてればいいんだと思うよ。適当に生きてる私が言うんだから間違いない。」
にやっと笑った彼女はすごく輝いて見えて、僕はなんだか気持ちが軽くなるような気がした。僕は袖で涙をぬぐおうとしたが、彼女に手を捕まれてしまった。
「もう危ないから、急いで降りるよ。」
されるがままに手を引かれて、涙を流しながら僕は避難はしごをおりた。
焼けた建物から持ち出せたのは唯一、手に握りしめていた缶だけだった。
僕はそっと缶をしめた。今思えば馬鹿もいいところだ。勝手に死のうとして、それを女子高生に止められる。思い出しただけで恥ずかしい黒歴史だ。
そう、結局僕は助かった。僕を助けてくれた彼女はいつの間にか姿を消していて、ありがとうすら言うことができなかった。
焼けたマンションはすぐにタワーマンションに建て変わり、今の今までそこに暮らしていた。
僕は今月末に引っ越すことが決まっている。
そっと缶を段ボールの底にしまい、段ボールをガムテープで閉じた。
ため息をつくと、僕は段ボールを持ち上げ、玄関に持っていった。
ふと、僕は6年間いた学校へ行くことを思い立った。
歩いて15分ほどのところにある学校は、卒業の時と変わらず、ぼろくて、懐かしいにおいがした。
結局、あの事件の後、僕は学校へ行くようになった。相変わらず本が友達だったけれど、僕は気にしなかった。
塾も変えた。中学受験に向けて、僕は勉強に一生懸命になることで、ほかのことを忘れようとした。
結局、僕は第一志望校の学校に合格し、その後は至って普通に生活している。友達も、ライバルもたくさん手に入れた。
三月末、卒業式も終わったであろう校舎には人気もあるはずがなく、当然門も閉まっていた。まだピンク色の残る桜の木々がふわっと揺れ、少し暖かくなってきた風が吹いてきた。
ぽつぽつ、と雨が降りはじめる。
雨は徐々に強くなり、傘をささねばならない程度に降るようになった頃、昇降口のドアが開き、こちらに走ってくる人の姿があった。
「どうかなさいましたでしょうか。私、来年度よりこちらに着任します上川と申します。」
走ってきた女の先生は、僕に男物の傘を差しだした。
僕は慌てて首を振る。
「あ、いえ、結構です。私、ここの卒業生でして、引っ越す前の見納めと言いますか未練と言いますか……。」
嘘だ、別にこの学校に何か未練があるわけじゃない。と僕は思う。そう思う一方で、どこか「見納め」という表現に納得している自分もいた。
「私も」
その女の先生はちょうど屋上を見ながら口を開いた。
「私も、ここのOGなんですよ。卒業式は転校先でやりましたけど。」
へー、っと僕も相づちを打つ。
「昔、好きな子がいたんです。自分から話しかけて、ずっと手紙をやりとりして、それで、その手紙は全部とってあるんです。いつか会えたらなぁって。それで、あ、なんか変な話しちゃいましたね。忘れてください。」
てへへ、とあどけなさの残る笑顔でその先生は笑う。
そんな話を聞き流しつつ、ふと、僕は雨がすでにやんでいることに気づいた。
「あ、雨、やみましたね。」
そうですね。と僕も頷く。
傘をたたんだ、その先生の浮かべる笑顔は、どこか懐かしい気がした。
雨上がり、じっとりとした風になびくつややかな髪は、どこか見覚えがあった。
「「あの、もしかして」」
二人の声がかぶる。
「上川英梨さん、ですか?」
僕の少しうわずった声は遠ざかっていく雨雲に吸い込まれていった。
すすけた缶 ヒスイ @vivid_green
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