episode3:introductory chapter
黒に近い灰色の雨雲から次々と降り頻る雨粒。土砂降りとは言わないが小雨でもなく、空を駆ける彼らにとっては翼が濡れてしまう恐れがあり動けない。地上に生息する雨の中を飛び回れる鳥とは違い、彼らの翼は雨に耐性がなく墜落する危険があるのだ。
故に、雨の降る日は戦争が起きないどころかテーマパークや商店も営業せず、天使も悪魔も皆建物になりを潜めているので、普段は彼方此方で騒がしさの残る天界もぱたりと静寂に包まれる。
そんな悪天候の中で輝くのは、淡く輝く白い魔法陣の上に建つ蒼銀の大きな建物。金色の装飾が散りばめられた、まるでどこぞの城のような豪華さがあるそれは、しかし華やかな外観とは裏腹に厳かな雰囲気を漂わせている。
その中のとある一室にて、静かな攻防戦が繰り広げられていた。
「随分馬鹿げたことを申すのだな、バロータ」
愚者を蔑むように吐き出された言葉は白銀の長い髪を後ろで括った、所謂ポニーテールの髪型の少女の口から放たれたものだった。片目を包帯で覆われた少女の厳しい表情を浮かべた顔が老人に向く。
「はっはっはっ!面白いこと言うなぁバロさん。……けど、ちっとそりゃ賛成しかねるな」
八重歯が目立つ中年の男が豪快に大口を開けて笑う。そして瞬時に冷たい色を帯びた眼差しを老人に向け、眉間にシワを寄せた。
「あなたがどうしようもなく甘い考えなのは知っていましたが、まさかここまでとは思いませんでしたよ」
背中まで届く長い髪をうなじ辺りで結んだ優しい風貌の男が嘲るように鼻で笑った。
今この場で一身に注目を浴びている老人は暴言を吐かれても冷たい目で見られても嘲笑われても表情を崩さず言い放った。
「何と言われようと私の考えは変わらない。武力で領土を奪い合うのでなく、条約を結び、互いを尊重し合うことで両軍の仲間の命を散らすことなく平和を維持することを提案する」
楕円の長いテーブルを囲うように8つの椅子が鎮座し、うち6席は座られている。残る2席は空席だ。
窓ガラスを叩くように強い雨が降り、ガラスに付着した雨粒がゆっくり上から伝っていく。他の雨粒と合わさりそのスピードは加速してゆき、やがて瞬きする間に落ちていった。しとしとと降る雨の匂いが部屋の中へと侵入してくる。
空気中に静電気が迸ったようなピリピリとした空間にどんよりした雨の匂いが充満し、より陰鬱な雰囲気を漂わせた。
「それってー、もう戦わないってことー?」
今この場にそぐわない陽気な声が鬱々とした空間を裂いた。
足をぶらぶらと動かして、内側に跳ねたセミロングの髪を弄りながら老人に問うのは、パッと見10~12才くらいの子供だった。
「そうだ」
子供の真っ直ぐな問いかけに簡潔に答えを出した老人。瞬間、子供はぷくっと可愛く頬を膨らました。
「やだやだー!戦いたーいーっ!!バロじぃ酷い!天使と悪魔は戦うために生まれてきた種族なんじゃないのー!?ね、ランちゃん!」
ランちゃんと呼ばれたショートヘアの女はとても女だとは思えぬ鋭い眼光を放ち、子供を一瞥してから老人へと顔を向けた。
まるで玉座に君臨する女王が座るような装飾が施された椅子に傲岸な態度で腰掛けるショートヘアの女は、重々しくその口を開いた。
「それが貴様の答えか」
老人もまたショートヘアの女に視線を向ける。言葉にはせずとも、その目が肯定していることは明白だ。
怒気とも殺気ともとれる眼差しで互いを睨むショートヘアの女と老人。二人の間に静かに、だが激しく火花が散る。その様はさながら白い龍二匹が互いを食い殺そうとするようだ。
どれほど時が経過したのか。先に視線を外したのはショートヘアの女だった。組んでいた足を崩し、徐に席を立つ。
「解散」
老人の提案に賛成も反対もすることなく、会議を無理矢理終わらせて部屋を出ていった。荒々しく扉が閉じられ、雨の音だけがこの空間を支配する。
やがて老人も席を立ち、この場にいる者達を一瞥した。
「時代は変わる。醜い争いはもう終わらせる」
そう言い残し、この部屋を後にした。ほんの僅かにピリピリした空気が和らぐ。
「あーやっと解放されたぁ!……にしても、今日の会議は一段と殺伐としてたなぁ」
ぐぐぐっと伸びをして身体を解し、二人が去った方を見やる。そこには重厚な扉が寂しげに鎮座しているだけで誰もいない。
中年の男の独り言に反応したのは優しい風貌の男だった。うなじ辺りで括った綺麗に手入れがされている長い髪が揺れる。
「それもそのはずです。バロータさんがあんな愚かしい提案をしたのですから」
「デージーは認めなーい!皆も反対だよねっ!?」
自分のことをデージーと呼ぶ女の子は、小さな身体をぴょこぴょこと兎のように跳ねさせて可愛く怒りを現し、同意を求める。優しい風貌の男は首肯した。
「そうですね。ですが、彼は白軍の副将軍で一番の古株です。決定権はほぼ彼にあると言ってもいいでしょう。我々が反対しても、遠からず彼の提案は実行されると思います」
「ほんっと甘ちゃんだよなー。戦争でもできるだけ敵を傷付けるなって口を酸っぱくして言ってたし。重傷負わせたら処罰されるし。窮屈な世の中だよ、全く」
「えーっ!?じゃあもう戦えないのー!?」
デージーという名の幼い女の子が駄々をこねると同時にガタンッと席を立つ音が響いた。
音のする方に目線を向ければ、ポニーテールの長い髪に片目が包帯で隠された少女が椅子から立ち上がってこちらを睥睨していた。
「会議は終いだ。無駄口叩いてないでさっさと仕事に戻れ」
ダークブラウンのロングブーツがカッカッと心地好くリズムを刻み、重厚な扉の向こうへと吸い込まれた。
「相変わらず仕事しか頭にねぇなぁルドちゃんは。ま、そこが魅力的なんだけどねぇ。一度でいいから夜のお相手してみてぇなー。あんなイイ身体なかなかいないぜ?」
「デージーさんの前ではしたないです。その女癖の悪さ、治したらどうです?」
「何なにー?夜に遊ぶの?楽しいー?」
「お子ちゃまには関係ありまっすぇ~ん」
お子ちゃまじゃないもーん!と憤慨する女の子。優しい風貌の男が二人から視線を逸らし、自身の隣の誰も座っていない席を見下ろした。
「それにしても……フロックスさんならまだしも、彼女まで欠席ですか」
どこか寂しげな呟きに中年の男が反応する。
「別に珍しくも何ともねぇだろ。今までもしょっちゅうサボってたし。……あー、お前はアレだもんな。フクシアちゃんにラブだもんな。最近めっきり会えなくて寂しいんだろー?」
ニヤニヤといやらしい笑みを顔に張り付けて優しい風貌の男の肩をがしっと抱き寄せる。それを鬱陶しそうに取っ払って中年の男をじろりと睨んだ。
「彼女の名を軽々しく口にしないで下さい。……はぁ、フクシア様……今貴女はどこへ行ってらっしゃるのでしょう。貴女の心地好い暴力が恋しいです……」
中年の男から空席へと視線を移し、恍惚とした表情で熱い吐息を溢した。中年の男は「揺るぎねぇドMだなぁ」とケラケラ笑い、幼い女の子は「今日もふーちゃんに会えなかったなー」と残念そうに呟いた。
――――
―――――――
勢いよく会議室の扉を閉め、己の仕事を全うするために自分専用の職務室へと歩を進めるショートヘアの女。キツい印象のつり目が凛とした佇まいを現している。
選ばれし者のみ立ち入りを許可されるこのフロア。廊下にはショートヘアの女以外に誰もいない。白軍の中枢を担う者、すなわち幹部しか入ることのできない場所のため、それ以外の者はこのフロアに進入することを禁じられているのだ。
ショートヘアの女は苛立ちを抑えきれない顔でズンズンと歩いていく。……が、不意にその足が止まった。
血が滲むのではないかというくらい強く握り締めた拳を壁に叩き付ける。どこにもぶつけようのない怒りを拳に乗せて。
壁にヒビが入って破片がハラリ、ハラリ、床へと落ちた。
「……終わらせない。絶対に」
迷いも葛藤も何もかも捨てたその目には、ある種の狂気が宿っていた。
―――――――
――――――――――
シャワーから出るやや熱めの湯が勢いよく飛沫を上げてタイルへと流れ落ち、排水溝へ向かっていく。
ドアは閉め切られている。それほど広くないが、ギリギリ人が寝転がれるくらいには狭くもない空間に、水音だけがこの場を支配する。
「……どォだ。なんか感じるかァ?」
妙に間の伸びた声が風呂場に響く。着衣したままシャワーを全身に浴びて、白銀の髪の先からぽたぽたと水滴が落ちた。豊満な胸に布地がぴったりと張り付いて、下着が僅かに透けて見える。羞恥で顔を赤く染めることもせず、艶やかな紅い瞳を光らせて自分の下敷きになっている男に問うた。
「何も感じない」
下敷き……否、女に押し倒されている男は抑揚のない声で答える。少女が馬乗りになっていることにも少女の下着が透けていることにもまるで興味ない素っ気ない態度。機械が喋ったような淡々とした声色からは感情を読み取れない。
水分を含んだ長めの前髪がさらりと流れ、普段は隠れている片目が半分ほど露になる。少女と同じ深紅の瞳は自分を押し倒している目の前の彼女を真っ直ぐに射抜いた。
「これはどういう状況だ」
事の発端は彼女の一言だった。
彼が興味本意で勝手に彼女の後をついていってたこれまでと違い、彼を幸せにしてから絶望させるという歪んだ約束のもと、正式に二人旅をすることとなったフクシアとスターチス。
幸先悪くも二人の行く手を阻むかのように雨雲が広がり、滴がぽつぽつと降り始めた。旅は一時中断してフクシアが持ち運んでいた伸縮自在の魔法の家を出し、雨宿りがてら今後のことを考えようと思い至ったのがつい先程のこと。
翼を仕舞い、トレードマークの茶色いローブを脱ぎ捨てた彼女。金色の刺繍が所々施された白い軍服が露になる。同色のシンプルなデザインのブーツを脱ぎ、家の中へ入ろうとしたフクシアはふと後ろを振り返った。小雨に濡れて妙に色気が増したスターチスをじっと眺める。視線に気付いた彼も見返した。
やがてフクシアは徐に口を開く。
「お前、家ないんだろォ?んなとこ突っ立ってねェでさっさと入れよォ」
彼は少し意外そうに目を見張る。といっても、彼女が気付かないほどの微細な変化だったが。
確かに彼はフクシアのように持ち運びができる家は持っていなかった。そもそも彼は衣食住にそれほど執着していなかったのだ。
誘われるがまま無言で玄関に降り立つ。漆黒の翼は彼女同様仕舞われた。
「つーかァ、今までどこで寝泊まりしてたんだよォ?」
「この家の屋根の上」
「勝手に寛いでんじゃねぇよォ。突き落とすぞォ」
長い廊下を進み、リビングへと続くドアを開ける。中は紅葉色の棚や若草色のカーペット、黄金色のテーブルなどカラフルな家具で埋まっていた。装飾が施されているところもあり、お洒落な内装となっている。
「意外だな。もっとシンプルな部屋だと思ってた」
「あーこれ全部元は白かったんだぜェ。私が塗り潰したんだ。カッコいいだろォ?」
スターチスは彼女の問いには答えず、ずっと部屋を見回している。相変わらず表情に出ることはないが、物珍しげに物色していた。無視されたことに特に何も言わず、テーブルと同色の椅子にどかっと女らしさの欠片もない音を立てて座った。
そして悪戯を企む子供のように口を三日月の形にして頬杖をつく。
「とりあえず、風呂入れば?」
彼も彼女も短時間とはいえ雨に打たれたせいで濡れている。放っておけば風邪を引くかもしれない。このときの彼女の言葉は、普通の人が聞いたら彼が風邪を引くことを心配しての言葉だと解釈するだろう。
彼を風呂場に案内したフクシアは突如彼と一緒に中に入りドアを閉め切ってシャワーを出した。そしてスターチスを押し倒し、冒頭へ戻る、という訳である。
「チッ、駄目かァ。こうしたら男は喜ぶもんだって言ってたのになァ。私がこいつの好みのタイプじゃねぇからか?それとも男として終わってんのか?」
スターチスの上から退き、ぶつぶつ何かを呟きながら立ち上がったフクシア。髪の先端から水が滴り落ちてるのも気に留めず風呂場を後にした。
一方の彼はフクシアが何をしたかったのかさっぱり分からず内心首を傾げつつも、改めて衣服を脱いでシャワーを浴びた。
着衣したまま押し倒され、挙げ句の果てにはシャワーを出され、雨で湿っぽくなっていた服は最早びちょびちょに濡れていた。服を持ち上げればぽたぽたと水滴が垂れる。女性の一人暮らしなので男物の代えの服はないと見た方がよさそうだ。
「風よ、舞え」
魔法の詠唱をすればふわりと優しい風が肌を撫でた。やがてそれは服を包み込み、水気を奪っていく。
風の魔法ですっかり乾いた服を身に纏い、フクシアのいるリビングへ足を運んだ。
彼女も自分で乾かしたのだろう。つい先程までびしょ濡れだった服はすっかり元の状態に戻っている。黄金色の椅子にがに股で座り、果物にかぶりつきながら雨が激しくなってきた窓の外をつまらなそうな顔でぼんやり眺める彼女に一声かけた。
「風呂入らないのか、フクシア」
「食ったら入るわァ。それと何度言わせりゃ気が済むんだよォ。名前で呼ぶなってェの」
「俺も何度も言ってる。名前で呼べと」
このやり取りを何度繰り返しただろうか。
フクシアが彼を呼ぶときは決まって「色男」「お前」の2択である。
「………」
スターチスを一向に視界に入れず、果物を咀嚼して飲み下した。小さく口を開けては閉じる、を何度も繰り返してようやく声を放つ。
「……スターチス」
次の瞬間ぽつりと極々小さな声で、本当に耳を澄ませないと聞こえないくらいの小さな声で、初めて彼の名を紡いだ。
顔は動かさず、ちらりと彼に視線だけ向ける。ぱちぱちと目を瞬き、僅かに驚いたのが見えた。彼女はふいっとそっぽを向く。
「これで満足かァ?満足だよなァ。とっとと飯食って寝ろよォ」
テーブルの中心に鎮座している様々な果物が入ったカゴの中から果物をひとつ手に取りスターチスに投げ渡す。見事なコントロールのおかげで危なげなくキャッチした。
「どこで寝ればいい?」
「テキトーなとこで寝ればァ?ベッドには入んなよォ」
いち早く食事を終えたフクシアは足早に風呂場へ向かっていった。一人ぽつんと残されたスターチスは自身の手に納まっている果物をじっと見つめ、一口かじる。
仄かな酸味と甘さが口いっぱいに広がるのと同時に、彼の胸の中で何かが疼いた。
雨粒が容赦なく窓に叩き付ける悪天候が続く中、彼女の奇行は風呂場の一件では終わらなかった。
彼を床に組み敷いて縄で縛り上げて足蹴にしたり、ストレートに正拳突きをしたり、懐の刀を抜いて彼の腹部を刺したりと行動の意図が読めない奇行を繰り広げていた。
その度彼の反応は実に乏しいものであった。縛り上げられ足蹴にされてもほんの少し痛そうに眉を潜めただけ。正拳突きをされてもほぼ表情は動かず、腹部を刺されても足蹴にされたときと同様僅かに眉を潜め、自身の治癒魔法で傷を癒した。
こう何度も奇妙な行動ばかりだと、さすがの彼も疑問を口にせざるを得ない。
「何がしたいんだ?」
寝室の隅っこに座っているスターチスがベッドの上に積み重ねられた本を開いて朗読するフクシアに問うと、彼女は苛立ちを含んだ声で告げた。
「あ?お前が喜びそーなことォ」
「喜び……」
いったいどこに喜べる要素があったのだろう。ただ痛みを味わっただけだと思うのだが。
そう考えていたのを見透かしたのか、彼女は忌々しげに大きな舌打ちを溢してがしがしと頭を掻き乱した。
「チッ。これも駄目かァ。知り合いを参考にしてお前の反応見たかったのになァ」
「……俺のために?」
「あ?お前のためじゃねぇよォ。私の楽しみだからだよォ。言ったろ、お前を幸せにしてから絶望させるって。そのためにはまず、なんでもいいからお前の感情を動かしたら手っ取り早いかなーって思ったんだよォ」
彼女の言葉に嘘はない。彼を幸せにしてから絶望させるのが楽しみで仕方ないのだ。絶望した顔を見るのが何よりも楽しみなのだ。
だが彼女自身が己のために行動してるつもりでも、結果的には彼のために行動している。その事実に気付いた彼は再び胸の奥にじんわり広がる温かい感情に、今まで感じたことのないそれに、微かに戸惑った。
「あーーーくそ!!あれも駄目これも駄目、これ以上どうすりゃいいってんだよォ!」
手に持っていた本を壁に叩き付けてベッドに突っ伏すフクシア。不貞腐れてごろんと寝転がり、思考を放棄するように瞼を閉じる。
憤慨している彼女に何か声をかけて宥めた方がいいのだろうかと考えたスターチスだが、どう声をかければいいのか分からない。
結局静寂を切り裂くことは叶わずに寝室の隅っこで壁に凭れかかってうとうとと船を漕ぎ始める。
が、しかし。ひんやりとした隙間風が彼を襲ったせいでくしゃみが出た。ぶるり、と身体を震わせる。
「うるっせェなァ!」
理不尽な怒号と共に飛んできたのは掛け布団だった。ゴスッ!!と、およそ布団が鳴らせるとは思えぬほどの音を奏でてスターチスの顔面に着弾する。
鼻先を擦りながら掛け布団にくるまっていると、今度はフクシアが盛大にくしゃみを溢した。既に眠りに落ちた彼女はベッドの真ん中で寒さを凌ぐように小さく縮こまっている。
フクシアはただ喧しいから黙らせようとしただけだが、スターチスはそれを優しさの現れだと感じた。彼女の不器用な優しさに触れた瞬間、胸の奥からじわじわと広がってくる温かな感情。気分が高揚するような、心が躍るような、でもそれだけでなくなんとなしにふわふわとした気持ちにもなるような、不思議な感覚だった。
「……ひとはこの感情をなんと呼ぶのだろう」
どこか切なさを帯びた彼の独白は誰の耳に入ることもなく宙に舞った。
――――――
――――――――――
「おい起きろォ。さっさとずらかるぞォ」
腹部に衝撃が走り、鈍い痛みと共に覚醒しだす脳。ふと目を開けてみれば、昨日と変わらず不機嫌な顔で自身の腹部に踵を落としたローブを着用した女が目の前にいた。寝惚け眼で彼女を見上げ、外出用の出で立ちになっていることに数瞬遅れて気付く。そしてつい今しがた放たれた言葉を理解した。と同時に疑問も沸き上がる。
「何から逃げるんだ?」
彼女がそのようなことを口に出すのは初めてで、つい問いかけてしまった。フクシアは不機嫌面に嫌悪感の混じっためんどくさそうな顔をした。
「ここ、私の職場に近いんだよォ。私が近くにいるって気付いたら、あいつら絶対迎えに来るもんなァ。あーめんどくせぇ」
「仕事したくないのか?」
「あー嫌だねェ。戦争に駆り出されるのも、たまーにある書類仕事も、ぜぇんぶ。けどそれだけじゃねェんだよなァ」
彼女が詠唱なしに魔法を放てる上級の天使なのは強烈な出会いで分かっていた。そして彼女が軍人であることも直感していた。ローブの内側に隠された白い軍服を見てそれは確信へと変わった。
以前から気になっていたが、どうしてフクシアは戦うことが好きなのに戦争を嫌うのだろうか。
彼の心中に浮かび上がった疑問に気付くことなく彼女は続けた。
「頭の固い耄碌ジジィは私のやり方にねちねち説教かましてくるし、ドM似非紳士はうぜぇし、ガキのお守りなんざ御免だし。一番厄介でめんどくせぇのは包帯女だなァ。できればもう会いたくねェ」
記憶を手繰り寄せても彼女の言った特徴の人物は浮かばない。上級の天使ならば白軍の中でもそれなりに高い地位に座していると思われる。白軍の幹部やそれに近い者は戦場に現れたとしても何故か実力を抑えていると聞いたことがある。おそらくそういう輩だろう。
「鉢合わせたら色々面倒なことになんだよォ。雨も止んだことだし、さっさと行くぞォ」
いつも通り目深にフードを被り、玄関の扉を開けたその瞬間。一筋の閃光が迸った。それはまるで流れ星のように光の矢がとある場所に向かって次々と降り注いだ。人影を貫いた刹那、夥しい量の赤い液体が空へと放出される。
「チッ、もうおっ始めてやがる……あ?」
フクシアはすぐに気付いた。玄関の先に広がる異常な光景に。
純白の翼を広げ、煌々とした青い瞳を苦痛に歪ませた、頭髪が乏しい老いた男の心臓辺りから鮮血が舞う。そしてその老人に続けざまに光の矢を放っているのは、同じく純白の翼をその背に宿した少女達であった。
天使が天使の命を葬ろうとしている。
「な……ぜ、こん…な……こと、っ」
自分を攻撃している少女達ではなく、その後ろで悠々と翼をはためかせるショートヘアの女に悲痛な声を上げた。フクシアと同じ白い軍服を着たショートヘアの女は、青い瞳を細めて冷酷な眼差しを老人へと送る。
「……終わらせる、と言ったな。争いを」
「……ぁ、あ…」
「醜い争いを永久にこの世界から葬る。なんとも理想的で、……愚の骨頂か」
「ぐ、ぁ……っ」
「天界の戦争が終わりを迎え、平和条約を結んだら人間界はどうなる?悪魔の領土を全て奪い尽くさない限り人間界に平和は訪れない。人間を見殺しにするつもりか?」
「……、」
ショートヘアの女は少女達の攻撃を止めさせ、代わりに老人を拘束させた。老人の内ポケットに入っていたある物を無理矢理掴み取る。それは“天界平和条約”と書かれた一枚の紙。それをショートヘアの女がビリビリビリッと破き、空中へ投げ捨てた。
「終わらせやしない」
「私、が……許すと、でも……」
「だから今こうなってるんだろう?」
そのとき初めて、ショートヘアの女が口元に弧を描いた。妖艶で、それでいてゾッとするほど気味の悪い笑顔だった。
「貴様はもう白軍に必要ない。ご苦労だった」
少女達に合図を送ると再び攻撃体勢になり、トドメの一撃を浴びせて意識を沈めた。少女達の髪と翼は瞬く間に黒く染まり、瞳はじわじわと赤く変化していった。
「ら、ランタナ様……私達、これからどうすれば……」
少女達のうちの一人がショートヘアの女におずおずと声をかけた。皆一様に怯えたような目でランタナと呼ばれた女を見据えている。彼女は老人のときと同様冷淡な目を向けて言葉を吐き出した。
「貴様らは用済みだ。それ以上汚いものを見せつけるな。消え失せろ」
漆黒へと成り果てた少女達の翼や髪をまるで汚物を見るような目で見下ろすランタナに、彼女の部下だった少女達は絶望の淵へと叩き落とされた。
一部始終をこっそり隠れて傍観していたフクシアは声を圧し殺して笑った。
「くっくっ……!あのジジィ、とうとう殺られたかァ。幹部連中からしょっちゅう反感買ってたもんなァ。……にしても、あの女は相変わらず捨て駒使ってんのかァ。自らの手は汚さず仕事を全うする……気に食わねぇなぁ。ま、私にとっちゃどうでもいいや。あいつの部下になったのが運のツキだな」
フクシアの後ろから遠目に眺めていたスターチスも徐に口を開く。
「天使なのに仲間を殺すこともあるのか」
「捨て駒がいる輩は平気で殺ってるぜェ」
「……そうか」
力尽きた老人の身体を炎の魔法で塵にしている女をひたと見据える。フクシアは殺しはしない。ただ絶望する顔が見たくて不幸のどん底に突き落としていただけ。だがあの女は違う。
仲間を犠牲にして仲間を殺すことになんの躊躇もない彼女は、果たして“善の一族”である天使と名乗るに相応しいのだろうか。
脳裏に過った小さな疑問は、これから少しずつ膨らむこととなるのをこのときの彼はまだ知らない。
雲の切れ間から日光が降り注ぎ、大きな虹が姿を表した。
それはまるでランタナが宣言した果てのない地獄の連鎖を祝福するかのようだった。
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