SEMI-final

@atsumorisou

第1話

夏も暮れにさしかかったある日の昼下がりのこと。お気に入りの染井吉野の木陰でうとうとしていた私は、不意に声をかけられて目を覚ました。

「御機嫌よう、お久しぶりですわね。」

周囲のヒトには聞こえないような小さく、それでいてはっきりと私の耳に届いた声に振り向くと、木漏れ日の中に、懐かしい旧友の姿が在った。

「驚いた、また君と会えるなんて。最後に会ったのはいつだっただろうか。」

「ええ、ずいぶんご無沙汰していましたわ。お互いこんなに老いてしまったぐらいだもの。」

たまたま近くを通りかかったら姿を見かけたので、と目を細めて笑いながら彼女は私の横に腰を下ろした。顔には重ねた月日と幾ばくかの疲れが見えていたが、その瞳は若かりし頃の彼女のものと変わらず、夏の日差しを映して凛としていた。


「この染井吉野の木、懐かしいわ。昔、貴方がこの木の下で歌っていた時に、初めてお会いしたのよね。」

そう言って、うーんと気持ちよさそうに彼女は翅を伸ばした。

「いやあお恥ずかしい。あの頃の俺ははまだどん底から這い上がってきたばかりの若造で、なりふり構わず誰かに振り向いて欲しくて必死だったからね。形振り構わず騒ぎ散らしていたよ。」

「ふふふ。周りに乗り遅れていたからかしら。本当にがむしゃらで、勢いでなんとか歌になっていたような感じだったものね。で、結局誰かのハートは掴めたのかしら。」

「いやはや、手に入ったのは周囲のヒトビトからの冷ややかな視線だけだったよ。見かねた君から助言を受けたはいいが、結局君が結婚してここを離れるまでにろくな歌は歌えなかったものだ。」

思いがけず自分の黒歴史を振り返ることになり、私は頭をぽりぽりと掻きながら返答した。自分の青春を回顧する、というのはこうも面はゆいものかと、頰が火照るのを感じながら思い出話を続ける。

「あら、誰とも結ばれなかったの?」

「ああ、ずっと独り身のままさ。しょうがないよ、歌うのがみんなより出遅れてて、その上歌も下手くそなようじゃ、魅力ゼロさ」語る内に思い起こされた昔の憤りに恥ずかしさも相まって、やや自虐的に呟くと、

「あら、そうかしら。貴方の歌、言う程悪くなかったのに。周りも見る目がないわね。」彼女は意外にもそう言って、自分のことのようにぷうと頰を膨らませて不満そうにした。

「おや、それは初耳だ、あれだけビシバシと俺の歌に修正を加えていた君からそんな言葉が飛び出るなんて、月日を重ねて角が取れたかな?」

思わぬ反応に呆気にとられて軽口で受け答えをしたら、

「あら、そうだったかしら。昔のことで忘れてしまったわ。そうだ、本当に悪くなかったか、真偽を確かめるために今ここで歌ってくださらない?」

と、いたずらっぽい笑顔とともに意表を突かれるような返答をされた。しまった、これはかえってまずいことになった。

「いいじゃない、そんな嫌そうな顔しなくても。私がいない間に上達したかもしれないし。こんな穏やかでいい陽気だし、私、久しぶりにたくさん話したので疲れて眠くなってしまったわ。貴方が歌い終わったら起きるから、暫く歌って聴かせて頂戴。」

さあさあ、と促されるままに彼女の前に立たされてしまった。休日ということもあり周囲には親子連れも沢山いるが、仕方がない。ここはさっさと歌って即座にこの場を去ればいいだろう。後は野となれ山となれ、だ。私はそう覚悟を決めると、恐る恐る歌い出した。やや掠れながらも彼の若い頃を思い出させる力強い音に、彼女は静かに微笑み、目を輝かせながらそっと呟いた。


「少しばかりやかましいけれど。やっぱり、貴方の歌が大好きだわ。また聴けて良かった。」


ひとしきり歌い終え、我ながらよく歌えたのでは、と息を切らしながら彼女の方を見た。

彼女は歌い始めと変わらぬ微笑みをこちらに向けて、腕と足を組んで硬直していた。目は見開いたまま、夏の太陽がその瞳に映っている。私は瞬間仰天したが、なんとか気を落ち着けると、そっと彼女の手を握った。

「まだ寝ているのかい?仕方ないなあ。目が覚めるまで歌の続きといきますか。」

そう、言い聞かせるように呟くと、彼は周りの人も気に留めず、前より大きな声で、そして力強く。


鳴き出した。


夏も暮れにさしかかったある日の昼下がりのこと。お気に入りの染井吉野の木陰でうとうとしていた私は、途絶えた蝉の鳴き声の代わりに、不意に耳元に響いてきた娘の声で目が覚めた。

「おとーさん、せみ!せみさんが手を繋いで落っこちてきた!」

寝ぼけ眼をこすりながら、半ば引きずられるように娘についていくと、そこには蝉が2匹、桜の根元に仰向けに落ちていた。興奮気味に娘が言葉を続ける。

「さっきまでかたっぽがすごーくおっきな声でみんみんしてたの!うるさかったんだから!なのにお父さんぜんぜん起きないんだもん。お父さんにも聞かせてあげたかったなぁ」

「いやいや、聞こえてたんだけどね、不思議と心地よくて。」

「せみさんひっくり返って動かないの。おめめ開いてるのに寝てる!びょうき?それともネッチューショー?」

「うーん、きっと沢山お歌をうたったから疲れて寝てるんだよ。」

「そっか!まいも遠足のまえとか、つかれてよこになってもおめめぱっちりの時あるもん!せみさんもまだまだ遊びたいからおめめ開いてるんだね!」

「そうかもね。蝉さんは2人で手を繋いでるし、きっと仲良しで、たくさん遊んでたんだね。じゃあ、まいちゃんも父さんともうひと遊びしますか。」


親子の楽しげな足音が遠のいていく。桜の根元に残されたのは2匹の蝉。刹那、ジジジ、と聞こえた鳴き声は、最期の声にしてはどこか楽しげで、自分の歌を聴いてくれた彼女と、彼の駆け抜けたひと夏に感謝を告げると、うろこ雲が浮かぶ空へ溶けていった。

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