第八章:想い、還る心
目覚めた場所は見慣れた場所だった。
布団を蹴り上げてあたりを見渡す。決して広いというわけではないけども、女子大学生の一人暮らしという面を考えて、セキュリティのしっかりとしているそこは間違いなく、光の下宿している部屋であった。
そこで記憶の整理を行っていく。アルバイト定員としての記憶は違和感を訴えるアクセサリーや贈り物がいくつか散見される。しかし、もう一つの記憶はそれを受け入れている。
「ここが絃さんの変わりに梢さんが亡くなった世界」
記憶がしっかりとしてくる。それと同時に決意が揺らぐ。
――――あぁ、この世界の私はとても幸せなんだ。
自覚してしまうと手放すことがとても惜しくなってしまう。幸福を手放すというのがどれだけ苦しい物かを知ってしまう。
しかし――――。
「私がやらなくちゃ、ダメだ」
頬をパチパチと叩いて目的を見失わないようにする。
――――そうだ、私の目的はバグで作られたこの世界を元に戻すこと。そのために動かなければなるまい。
パジャマ姿のまま動くわけにはいかないので着替える。そのとき、片方の記憶の中では見たこともない服や、少し攻めた下着などが見える。改めてこの世界の自分になれなければなるまいと理解する。
今日は特別に予定はない。あるとすればいつもどうりに『黒猫』を訪れればいい。零も心も今日は学校に行って日常生活を過ごしているところであろう。
自転車を取り出して走り出す。わずか数分でたどり着いた後、呼吸を短く繰り返して意識を集中させる。自分にとっては普通の行動でも、絃にとっては唐突な行動になる可能性もある。まずは普段の様子を見せて……それから調査を開始するということでも遅くはあるまい。
聞き慣れた、扉を開く音。レジの所にはこの世界の光が愛した人物が、そこにいる。
「あぁ、おはよう光。今日はお昼から来ると思ってたんだけど……早かったんだね」
「うん、暇だったから。あいたかったし」
「はは、そうかい。じゃあ、準備しておいで」
「ありがと」
いつも通りのやりとり。光は落ち着き払って息を吐き出し、トントンと階段をあがって弦の部屋に荷物を置く。元は弦だけでなく、梢の部屋でも合った場所だ。そこには未だに梢の名残とおぼしきものが散見された。
それを見て、またも覚悟が揺らぐ。この世界は、こんなにも幸福に満ちているじゃないかと。
しかし、揺らぐというのは決心がまだ壊れていないと言うことを現わしている。どれだけ揺らごうが壊れない限りは選択をすると言うことが可能なわけだ。
「お待たせ……。今日はお仕事とか特に予定もないの?」
「うん、暇するつもり。どうかしたのかい?」
「なんとなく聞いてみただけ。処理しなきゃいけない仕事があるかないかとかも気になったし」
「そっか……。さて、じゃあ僕は道具を作ろうかな」
そんなつぶやきもいつも通りで心地よい。暇をすると言っておきながら道具を作るという仕事をするあたりも彼らしい。トクンと胸が跳ねる。
これはいいわけだ。自分でも理解していることを思いついてしまう。
もし今ここでバグを直して元の世界に戻ったとしても、梢がまたおかしな世界を作り上げてしまうかもしれない。それが梢の意識に乗った物か否かなども関係ないかもしれない。それならば、なぜこの世界を作り上げたのかを知るためにも、自分と同等か、それ以上のキーを握る彼に対して、梢について聞いてみることはいいかもしれないと。
「あの、少しいい?」
「うん?」
「えっと……その……」
口には出してみたが結局はなんて尋ねたらいいのかがわからない。口ごもってしまった自分が恨めしい。なんとか頭をフル回転させる。そのとき、昨日の記憶が頭をよぎり言葉をつなげる。
「もしも、幸福が有限だとしたらその不幸を知っておくのも必要かなって考えた。だから、梢さんのこと……馴れ初めとか色々聞かせてよ」
光としてもそれなりに上手い言い訳だったと思う。なんとなくでも口にしてみる物だ。
「梢のか。うん、わかった。だけど、光にとってすれば大して面白い話でもないと思うが」
「面白い面白くないは私が判断するよ。人の気持ちを他者が知ることは出来ないでしょ?」
「ははっ、『クロネコ』に来た当初の時からは考えられないな」
光の言葉にその通りだと笑いながら顔をただす。そして何から話した物かと少し思案した後思いついた言葉を残す。
「そうだ……。私が婿養子ということは知っているかい?」
「えっ!?初耳」
「あはは、そうか。そもそも私は捨てられた子供でね。本当の親というものをしらない。それどころか本当の誕生日もわからない。戸籍上の物はあるけどね」
思えば誕生日を初めて聞いたとき、少し間があったことを思い出した。それはそのことが少しだけ引っかかったのかもしれない。
「まぁ、施設で幸せに――――今この場で幸せという言葉を使うと、有限理論の話を考えるとややこしくなるかもしれないけど、今は忘れておいてくれ――――とにかく、幸せに暮らしていた。そして出所後、工学系の大学生活とを両立するためにバイトを始めた。それがここ、『黒猫』だ」
「そうなんだ……」
「元々手先が器用だからね、色々作ってるうちに……『クロネコ』の仕事にも触れるようになったんだ。そのときには不思議な道具も扱っていた。そんななか、霧桐の一人娘、梢とであった」
「梢さんに……」
「うん。梢の両親もそろそろ寿命だったみたいでね。僕たちがつきあって、程なくして亡くなった。その後に挙式をあげて……、霧桐は昔からこういう裏の仕事をしてたからこの代で途切れさせるわけにも行かないし、名字にもこだわりがなかったから婿養子になったわけ」
「そんな裏が……」
婿養子といえば簡単だが、かなり複雑な理由があったらしい。そういえば絃の不思議な道具に関する技術士としての腕はよく聞くも、霊感云々に関する話は全く聞いたことがなかった。元から持ち合わせて等いないと言うことかもしれない。
「あっ、そうだ。そんなわけだから霧桐というのは梢の家系のことなんだ。だから、結婚するときは名字の方そっちに合わせようか?」
「うぅん……。一応霧桐の血筋は残るわけだけど……。いいや。ほんの少し結婚して名字が変わると言うことに憧れもあるし、霧桐という名を受け継ぐといのも大切な気もする。零たちもなし崩し的に名字が変わるぐらいなら私が一人変わるだけですむじゃん」
「ご両親はなにも言わないのかい?」
「昔から早くお嫁さんになりなっていってきた人だし。それに、梢さんのことを忘れるのは絶対ダメだと思うから」
「そうか……。光がそう言うならそうなんだろな」
「あっ、でも零たちが嫌がったらさすがに止めるけど」
「その心配はいらないんじゃないかな」
絃は薄くほほえむと、がさごそと棚をあさり出す。その手に持っている物をみて小さく目を開ける。そこにあったのは時空の砂時計であった。
「幸福は無限か有限か。それはわからない。だけどもしも全員が幸せになるまで砂時計をひっくり返し続けたら……おそらく時間は一切進まなくなると思う。この道具の本来の意味はそんな時間の狂いを見つけるためにあるんだ。時間を勝手に何度も何度も巻き戻す輩がいないかを見張るために」
「絃、さん?」
「この道具はね、梢が死ぬ少し前に完成した作品なんだ。当時はコトリバコの事件で色々忙しくしているときだったか……もしもの時のための保険としてこの道具を作った。僕か梢が亡くなったとき、別の道具で時間を巻き戻したとしても発見できるようにするために。そのほかこういう私たちの同業者や私たちの道具を買った人物が時間を狂わせないかを見張るために。そのことは梢にすら話していない。そして見事にトラップにひっかかった」
「いつから、気づいてて……!?」
「光。記憶が混乱しているんだろうけど、昨日の夜のことを思い出してみろよ。君は幸せが怖いと言った。だからこそ、幸せになることを少し拒否したはずだ」
「た、確かに幸せは怖いっていったけど。でも」
そこで声がつまる。記憶の中に感情が結びつかない。動機を失った、あの時のようになにか大切な物がぽっかりと抜いていた。今思い返せばそのときは確かに恐怖という感情を持ったんだと推測するし、自分自身そう感じる。でも、そのときに恐怖したのかは全く覚えていない。絃への恋心でさえ、記憶によって生み出された、後付けの感情でしかなかった。
「あの時の感情を明確に僕は感じた。普段の光のことを考えると今日『クロネコ』に訪れるのは、いつも通りの時間にくるか、少し遅れるかをするはずだ。幸せを求めすぎたくないと」
「そんなの、推測でしか……!」
「推測だよ。でも、不思議に感じた。そのとき普段は聞くことのない梢について尋ねてきた。だから、5%程度の可能性で砂時計を見ていたら異常をきたしていたんだ。そしてそれを取り出したら君が反応した。偶然、では片付かないよね?」
光は鎌をかけられていたということを理解する。息をつく。白状をするしかなさそうだ。
「はい……。私は、この世界軸の私の記憶と、もう一つ元の世界の記憶と二つを保持しています。とはいえ、今は記憶がひどく混濁しているのでどちらが元の世界かもわからなくなってきていますが」
「少なくとも今日、今僕の目の前にいる光はこの世界の光とは思えないよ」
「そうですか」
「なにがあったのか、教えてくれるかい? 僕か梢か……それとも零か心か、光クンか……。誰が何をしたんだい?」
「全てお話しします、絃さん」
こんこんと自分の元いた世界の話をする光。そしてそれに対して質問するでもなく感想を告げるでもなくただゆっくりと頷くだけの絃。その弦の様子に少しだけ不安を抱く。しかし、話すと決めた手前、途中で怖じけつくつもりもなくしっかりと返事を返していく。
「ということで、私はこの世界に飛び込んだんです。なにかヒントをつかむために」
「なるほど……。そういうことか。光はどうしたいと思う?」
「私は……正直わかんない。とりあえず原因を見つけることが出来ればと思って、何も考えずに飛び込んだわけだし」
「あはは、他の世界軸でも光は光なんだな」
「うっ……」
何のことを言っているのかは記憶を呼び覚ますと出てくる。おそらく零を助けたときのことを言っているのであろう。警察に電話をしているふりをしながら飛び込むなんて思い返しても無理のある行いだっただろう。幸いにも騒ぎを聞きつけた通行人の人が彼らを追い払ったので助かったが、一歩間違えれば自分自身も死ぬか、かなりの怪我を負っていたとしても不思議ではあるまい。
「そ、そんなことより」
「あぁ。わかってるよ。でも少し感慨深かったんだ。時間軸が違ってもその性格までが大きく異なると言うことがないんだと思ってね」
「性格が?」
「記憶を統一してみてもわかると思うけど、どちらの世界軸でも生存している零たちのことを思い出してみてほしい。どちらも性格が大きく変わると言うことはなかったんじゃないかな?」
そういえば、そうだ。零はどちらの世界軸でも微笑みを浮かべ飄々としている人間であり、心は静かでおっとりとしている。そして偶然か否か、零は光さんと、心はお姉ちゃんと呼んでいる点が一致していた。
それは偶然であろうか、それとも偶然ではないのであろうか。
「もちろん、偶然性格が近しい時間軸が来たという可能性も捨てきれない。だけど、少なくともこの二つは同じようだという事がわかっているのだから梢についても、僕の知っている梢の性格傾向などと考えて間違いではないのかもしれない」
「なるほど……。確かに一つの可能性だよね」
ひとまず頷く。それだけでも大きな進歩だ。自分一人の頭では何も解決できないままこの世界に飲み込まれていたかもしれない。
「それに、コトリバコの事件に巻き込まれて僕が死んだ世界軸というのも十分大きな話だと思う」
「私たちは梢さんが仕組んだことなのではないかと考えているわけですけども」
「僕もそれで考えてるよ。というより、話を聞く限りこの時空の砂時計の使い方を知っているのは梢だけのようだしね」
「使い方? ひっくり返すだけじゃないんですか?」
「時空の砂時計は3つの使い方がある」
指で3をつくり光に差し出す。
「まず1つ目。光が言ったように砂時計をひっくり返すことで時間を戻すという物。販売時にもそういう説明をする。そして2つ目。さっき伝えたように時間のねじれやバグなどを発見するもの。これは僕だけが知っていた秘密でもあった。そして最後。3つ目。実は狙って作ったわけではなく偶然にもついていたものだった。それは時間を巻き戻し続けることで時間や空間にひずみが出来てバグが産まれるという物。そのバグに対価を支払うことで世界を再構築することが出来る、というものさ」
それは零も言っていたことだ。とはいえ、零の場合はその発動条件に関しては曖昧でしかなかったのに対し、絃のものはしっかりと断定できているあたりその使い方に関しても詳しく知っていると言うことであろう。
「何度も時間をやり直すことにより時間に緩みが出る。イメージとしてはVHSを思い出してみたら言い。最初のうちは大丈夫だが見続けるにつれてテープが破損したり汚れたりする。砂時計でも使い続けると砂が痛んだりもするからね。その影響で時間が同一化したいバグを起こしたりする。君の中に宿った記憶もそれのせいだ。いや……それだけじゃないね」
「それだけじゃない?」
「君はこの世界にやってきた。ではこの世界の光はどこに行ったんだと思う?」
「どこって、私の中にいる……でもそれも違うのかな」
「ヒントは僕が道具を作る上で重要視していることは?」
「等価交換……。まさか!?」
「その通り。元いた君の世界に移ったんだろうね」
「元の世界はココが変わった世界なんですよ!?」
「だけど等価交換という運命からは逃れられない。それならば何をするか……。そもそもこの道具は時間をさかのぼる物。時間をさかのぼった上で光の人格に宿った……。そのせいだろうね、君が時々動機を喪失していたのは」
思わず目が大きくなる。その瞬間全てがつながったように感じた。そういうことかと理解をさせられた。
「光の話が全て正しいと仮定をした場合。光が現れた今朝からがこの世界の誕生日となるわけだ。だって作られたのはそのときなんだから。それより前の時間に戻ってしまえば光が元いた世界と言うことになる。傍から見たらまるで自分の生霊が憑いたように見えるだろうね。特に元の世界の光はかなり不安定な精神状態だったみたいだし、症状などは自分の生霊が憑いた物と同じだからそうなることも理解できるよ。また、ある程度の解決策として真実の鏡があればできるからね」
「じゃあ、もしかして私の存在が」
「梢にとっては嬉しい誤算だったんだろうね」
顔が青ざめてしまう。自分さえクロネコに訪れていなければこんな大事にならずにすんだのに。いや、零たちに待つよう指示をしたがためにこのような結果になってしまったのだから……。自分があの場で待てばこのようなサイクルを起こすこともなかった。もしかしたらあのままあの場所にとどまり続けていればいずれバグは収束して元に戻っていたのかもしれない。
「その通り。光がこちらの世界に飛び込んできたからバグは確定してしまったんだ」
「えっ?」
「途中から口をぱくぱくさせて呟いていたよ」
弦が細く笑って注意を促す。羞恥心に駆られかけるが同時に少しずつ混乱する頭を冷ます要因にもなった。
零は何度も言っていたはずだ、運命を変えることは出来ないと。
「もしかして、私がこちらに飛び込むのは」
「半ば決まったいたことだよ。運命の砂時計でそこまで決められていたんだ」
仕方のないことであるということを確認すると同時に焦る気持ちを落ち着かせる。今この場で自己嫌悪に陥ったところで何になるか。何にもなるまい。それならばやることをやって死ぬ最後の瞬間に後悔をすればそれでいい。そのときには笑い話になっている可能性だってある。今の悩みは時がたつとくだらない物になっていることだって珍しくはないんだから。
「話が長くなったよね……。絃さん。仮定の話やもしかしたらの話はもういい。どうしてやなぜは、結局の所梢さんに聞かなければわからないところだろうだし。だから単刀直入に聞くよ。元の世界に戻る方法を教えてください」
「光。本当にいいんだね」
こちらの切り出した言葉を別の言葉で遮られてしまう。わかった上で彼は聞いているのだ。
思わず歯を食いしばる。感情を抑え込もうとすればするほど意識はどこかへと飛んで言ってしまう。そして理解をしてしまうのだ。
「光が元の世界に戻ると言うことはどういうことか、わかってるんだよね?」
「この世界を……壊すと言うこと」
瞳から涙がこぼれ落ちる。そして自分自身を抱きしめる。
たった数時間いただけなのにもう逃げられないんだ。
崩れ落ちる体は、黒猫の商品を揺らし巻き込んでしまう。それでも自分の感情を抑えることは出来なかった。
――――私はこの人のことを、この世界を愛してしまったんだ。
泣き崩れてしまった光に優しい言葉をかけるでもなく、つきはなすでもなく一定の距離を保ちながら、元の世界に変える方法を説いた絃。その絃の話を何度も頭の中でリフレインさせる。
方法は簡単だ。もう一度この砂時計を使い時間を戻す。そうすることにより今朝よりも前の時間に戻れば元いた世界に帰ることが出来るわけだ。そこには、時空の砂時計を使おうとしている梢がいるはず。その梢を止めることが出来ればこの空間が訪れることがなくなる。運命を変えることが出来ないという縛りでさえも、互いに道具を使い運命をねじ曲げようとしている物通しなのだから、それも適用外となる。勝つのはどちらの思いが強いか。その一点に絞られる。もしもの時のためにといくつか道具ももらえた。
「私は……勝てるのか」
それらの話を終えたときには、零たちがそろそろ帰ってくる時間となっていた。今この精神状態で零らと合えばさらに決意が揺らがされること間違いないだろう。それらのことがわかった上で絃は一度家に帰ることを勧めてくれた。所詮は自分がつぶす世界。ここがどうなろうが関係あるまい。しかし……そうできない要因もある。
絃によれば、この世界に染まることが出来れば前の記憶を失いここの記憶だけになることが出来る。つまり完全に成り代わることが出来ると言うことだ。
それを本当にやっていいのか。
「零……心……絃さん」
この世界の人物を順に考えていく。みなが全員光のことを慕っていることを理解しており、この世界と前の世界。どちらが幸せかと言えば間違いなくこちらの世界だ。
「零くん……心ちゃん……梢さん」
そしてもう一つの世界。自分の元いた世界であると言うことを考えれば愛着があるのは例えつらい現実が待っていたとしても、戻りたいという気持ちがあるのも事実。
現実か夢か。
しかもその夢は現実とほとんど見間違うことなくそしていずれ夢が現実へと破ってくる。
「私の心はどこにあるんだろう」
呟く。自分は弱い人間であり、かつただの一般人だ。
零のように頭がさえるわけでもなく、心のように霊能力が優れているわけでもなく、梢のようにまっすぐな人間でもなく、弦のように手先が器用というわけでもない。本当にただの一般人。高校生の頃はこのまま普通に大学生活を過ごして普通に就職して、普通に結婚して、普通に子育てして、普通に老後を迎えて、普通に死んでいく予定だった。そんなことを言えば『クロネコ』のメンバーならそろいもそろって普通って何だろうねと尋ねてくるだろう。
そう、普通というのは相対的なものでしかない。だれしもが普通ではないことを一度や二度は経験するものだ。普通というのは多くの人が経験をすること、多くの人が同じ決断を下すことである。では今回の世界における普通とは?
普通、自分の元いた世界に帰るのか。
普通、この世界にとどまるのか。
どちらも普通でありどちらも異常だ。それはこの世界が元々異常であること。一体どうすればいいのか……。
「だれか……助けて」
弱さから来る発言だった。もう自分の心は爆発をしていた。唇をかみしめると赤い血がチロチロと流れ出した。
ぞわり。
「っ!?」
背中に駆け巡る大きな寒気。唇のあたりくる大きな気配。血を求めるような動き。
「血を?」
自分の周りで本当に幽霊らしい幽霊。血を求めそして自分になぜかなついている存在。また、世界の入れ替わりなど気にもせず存在。それがいるではないか。なぜ、気づかなかったのか。そいつの名は。
「ユウ?」
わからないが寒気が一瞬遠のいてそしてまた体全体を包む。ユウに聞くことが出来れば。
「そうだ! これ……」
光が袋から取り出したの厚手の黒い手袋と、そしてイヤホンのようなもの。ただしその先端はどこにもつながっていない。
二つの道具の名は『磁場手袋』と『磁場聴覚器』。磁場を変え、周波数を変えることでこの世との干渉を断つ存在とも会話し触ることが出来る道具だ。幽霊との会話はよくないとされているが……今はそんなことを気にしている余裕などあるまい。
光はいそいそと二つをつけて虚空へと会話を試みる。
「ユウ? いるの? 返事をして」
空中をぶんぶんとかく。そしてコツンと何かにあたった。そこには見ただけでは何もいない。
「ユウ?」
おそるおそると尋ねてみる。もしもこれでユウでなければという心配が今更になって飛び出してきた。しかし――――。
「いったー。ちょっとー、なにするわけー?」
「はい…………?」
「ていうかほんと女々しいっつうか、見てて痛々しいつうか。あっ? でも光も一応女なんだから女々しくていいのか」
「い、一応って。というか、えっ?」
「あん? 返事に答えてやってんじゃん。ユウだユウ。OK?」
「えぇ……。さっきまでのシリアス返してよう」
想像していた展開とは全く異なってしまった。あの心の友人である。てっきりとおとなしくおしとやかな少女を想像してしまうのはしかたないことだと主張をする。
「あぁ、でもそっかぁ」
思えば悪戯好きの一面を最初から見せたり、自由な存在で心ですら完璧にコントロールしているわけではなかったりと、推理をすれば自由奔放でつかみ所のない存在であることが想像できていたはずだ。
「って、そんなことはどうでもよくて。ユウついてきてたんだね」
「どちらかと言えば憑いてきた?」
「怖い言い方しないでっ。ともかく、ユウはなんでこっちに? って、そうか。心ちゃん私が裏切ったら呪うとか言ってったっけ」
「あー、無理無理。アタシにそんな力ないし。ただの脅しだと思うよー」
「言っちゃうんだ」
「あっ、まずかった?」
「私としては朗報だけど」
これでもしもこの世界にとどまることになったとしても、呪いにおびえなくてもすむわけだ。実際にそうするかはわからないが。ということは本当に、ただの気まぐれでユウはついてきたということなのであろう。なんとも人騒がせな存在だ。
「とはいえ、アタシ的にもどうするかは光次第としかいいようがないからね」
「私次第?」
「アタシの存在理由。教えてあげよっか?」
「存在理由って?」
幽霊に理由もなにもあるのかと頭をかけるが、幽霊とはどういう存在であると定義しているのかを思い出して顔を引き締める。
人は死ねば無となるつまり、
「私はね、心によって生み出された浮遊霊。あの子寂しかったのよ」
「心ちゃんの思いが作り出した……幽霊」
「そういうこと。あの子、基本のろのろしてるし、父親は幼いときに死んじゃうしで、コミュニケーションが苦手だったわけ。その結果、ユウというイマジナリーフレンドを生み出した。それだけなら子供によくあることだけど、彼女はそれを実際に産み出すということが可能な力を持っていた。それがアタシ、
「そういう、ことなんだ」
その言葉でユウがどうしてこんな性格なのかもなんとなく伝わる。心はきっと前に出たい、もっと流暢におしゃべりしたいと考えた結果、自分と徹底的に違う存在に憧れた。それがユウという存在となった。
「けどね、光が来て、心もなぜか懐くようになっちゃって、アタシの出番は薄れてきた。アタシとしてはお守りをするする必要もなくなったわけだし? ウェルカムな事だったけどもね」
「あぁ、だから単独行動とかも増えてたんだ」
「その通り。まぁ、面白いから心や光に憑いているけどね」
得意げに笑う気配が伝わる。そしてユウは心の右手をとり大きく手を上げた。
「結局前に進むも進まないも自分で決めるしかないわけ。あの世界の心はアンタのおかげで成長できた。零だって人と関わることが出来て成長もしている。それはこの世界でも一緒。アンタは人に大きな影響を与える」
「私はそんなんじゃ」
「謙遜はやめな。最終的には自分で決める、それが正しい選択だ。だからこそアタシからいえるのは一つだけ」
「何?」
「コイントスで決めな!」
「えっ、えぇ!?」
ここまでもったいぶって、いいことを言ってまさかの適当な発言に避難の意味も込めた叫び声を上げてしまう。一体彼女は何を言っているのか。正気かと疑う。なんとなくこの感じが梢に似たものを感じさせる。
「ふざけてるわけじゃないさ。いいからコイントスしな」
運命に身を任せると言えばかっこいいが……そういうような状況ではない。しかし、気配からわかるユウは早くしろと急かしている。しぶしぶと500円玉を取り出す。
「数字の書かれている方が出たら元の世界に戻る、竹と橘の絵が描かれている方がでたらこの世界にとどまる。せーの」
ユウにいわれるがまま空中に500円玉を放り投げてそして両手で挟むようにしてキャッチする。そっと左手をずらして面を見る。そこに描かれていたのは、竹と橘だった。
「じゃあ、この世界にとどまりな」
「でも!」
「でたじゃん。この世界にとどまったらいいよ」
「そんなこと、したら心ちゃんが! 零くんが!? ダメだよ!!」
思わずそう叫んだ。それと同時に飄々とした態度で重要なことを簡単に決めようとしているユウにも腹が立つ。自分の生みの親でそして親友の心をぞんざいな扱い方をしていいのかと。顔が熱くなったそのとたんに冷静で穏やかな声が顔に当たった。
「もう結論でてんじゃん」
「えっ……?」
「どこまでいっても元の世界に戻りたい、そんな気持ちが自分をすくうなら、それは元の世界に本当は戻りたいと思っている証。その気持ちをわかりやすい二択で用意しただけ。他の人云々を考えてしまう光の、自分がどうしたいかという気持ち」
「私が、どうしたいか」
確かにユウの言葉通り自分はコイントスに従ってこの世界にとどまればそれで済むはずだった。だけどこの世界にとどまると出た瞬間に全身を襲ったのは安堵ではなく、焦りだった。これじゃダメだという焦り。怒り。それが自分の本当の気持ちだった。
自分は例えつらいことになろうが、この恋心を忘れることになったとしても元の世界に戻りたい。考えは元の世界の方によっている。それは確かで覆ることのないことだった。
「ユウ」
「アタシは何もしてない。自分で決めたんだ。その決意に私は口を挟むわけもないし支持するわけでもない。自分でやるんだ」
「わかった、ありがとう。私はやるっ」
大切に置かれていた砂時計をつかみひっくり返す。
時間は逆流をはじめ、この世界は壊れていった。
0と1に支配されたこの空間で梢は漂い続けていた。意識は薄弱していき自分という存在が消されようとしている。朦朧とする視界を押さえながらぼんやりしていたそのとき、体に実態感が訪れる。まるで夢から覚めるかのように徐々に徐々に意識を取り戻していく。頭の中では何が起きているのかと叫びそして思考を開始するが……追いつかない。
「ここ、は」
気がついたら自分は倉庫の前に立っていた。
その手には淡く発光した夢幻回廊があった。
「なんで……?」
「私が、時間を戻したからですよ。梢さん」
投げられた言葉に振り向くとそこにいたのは光の姿。その光は強い眼をもっていた。その瞳から逃れることは出来ない。嘘をついても意味がないと理解をする。
「どういうこと? ここは」
「うっぷ……気持ち悪い。すごい力」
「そう……。確か夢幻回廊の暴走であなたは帰ったはず」
「今も帰りたいですよ」
光は吐き気を押さえながら地面にへたり込んで顔を見上げる。そしてくるぐるしく伝える。
「だけど、私の帰るべき世界はここなんです。逃げられないんです」
「じゃあ、やっぱりここは」
「元の世界。夢幻回廊暴走時の時。おそらく、時空の砂時計を何度も使用することによって生じた不具合の時でしょう。梢さんは、それを知ったため慌てて時間を戻した。いえ、こうなることがわかっていて、これが限界だと知ったから時間を戻した」
「光ちゃんはもう、十分色々知ってる訳ね。そうよ、私はなんども同じ世界をやり直してそして光ちゃんの中に宿るあの人の生きている世界の記憶が強く発現する瞬間を待ちわびていた。ただし、砂時計をすぐにひっくり返すわけも行かない。砂が落ちていないもの。それを限界まで待っているわけだけど、その限界がこの夢幻回廊の暴走という形でわかった。何度も世界を周回することで因果が強くなった時空の砂時計とは相性が悪かったのね」
苦しい思いのまま光は立ち上がり、梢のもとへと寄り添う。梢はまっすぐに光を見つめ、光はまっすぐに見下ろす。視線が絡み合うとお互いの意志の強さを確認できる。
「あの人のいないこの世界を諦めようとした。だけど、そんななかまさしく一筋の光が降りてきたの」
「私という存在があなたを惑わせた」
「迷わずいける道になったのよ」
光は自分が現れたことを責めて、梢は光の存在に感謝を示す。なんとも不気味で、でこぼこな関係だ。
後ろの夢幻回廊では今頃、心たちが頑張ってこの世界からの脱出を試みていることであろう。
「私はいらない。私はあの人が生きてくれればそれでいい」
「あの世界のこと、梢さんは知っていますか?」
「いいえ。とりあえず絃が生きている。それだけ」
「なら、教えてあげます。あの世界では梢さんが亡くなって絃さんは一人で二人の子を育て上げていました。そしてひょんなことから私が零のことを救います。その結果、私は絃さんの後妻となりました」
「絃の?」
瞳に嫉妬が宿った。それでも絃が幸せになってくれるならと自分に言い聞かせたのだろう。首を振り嫉妬の瞳が消える。
その梢にたたみかけるよう光は言葉をつなげる。
「あの世界で私と絃さんは愛し合ってました。婚約もしてました。こんな世界なんかよりも何倍も、何倍も幸せでした」
「だ、だったらこの世界に戻らなくても!?」
「でも、幸福ではなかったと思います。その世界はあなたの犠牲の上で成り立つ世界だから」
梢は黙り込んだ。自分なんかのためにそんなことを言ってくれるとは想像していなかった。
「私はこの世界にどうしても戻りたかった。だからこそ、これを使って戻ってきた」
「時空の砂時計……」
ここに二つの時空の砂時計が現れた。片方は光が、片方は梢がもっている。しかし、それはパラドックス。同じ時間軸に同一の個体が存在することなどあり得ない。となればどちらかが壊れる。それまで待つしかあるまい。その壊れる方は……思いの弱い方となる。
しばらくの間見つめ合う時間が訪れる。
だが、待てど暮らせど互いに砂時計が壊れる様子を見せない。
「壊れて……壊れてよ! なんで壊れないのよ!」
焦るのは梢。自分の思いが負けるはずがないと信じているのに、なぜ勝てないのか。
「やはり、そう簡単には壊れてくれないですね」
「なんで壊れないのよ! 光ちゃんはあの世界の方が幸せだって言ってた。そんなふわふわした感情を持つ人に負けるはずがない」
「確かに、私の気持ちはどちらにもふりきれていないところがあるでしょう。しかし、それはあなたも一緒のはずです」
「私は絃さえ生きていればそれで!」
「人は自分の幸福を求めるものだそうです」
これは絃からの言葉だ。どこまで行っても自分の幸福を求める物、それが人間であると。
「私は幸福を求めてそれで」
「どれだけ幸福を求めようとも自分の存在の消滅という不幸をかいくぐることが出来るんですか?」
その言葉に、さしもの梢もひるまざるえなかったようだ。人生最大の不幸とは? 人の死であると言っても過言ではないはず。その死を乗り越えることが出来るのかと光は問いていた。
「で、でも! 私はそれでも、自分を犠牲にしてでも」
「頭の中ではそうしたいと思っても感情は違うはず。あなたは、私という存在のせいで惑わされているだけなんです」
「違う!」
「だったら、なんでその砂時計は壊れかけているんですか」
徐々に徐々にだが、梢のもつ砂時計にひびが入り始めている。それは理性で無理矢理抑えていた感情が爆発を始めていることを現わしている。
「もしもあなたが本当に運命を変えたいと思うなら、それこそ運命のルービックキューブをいじり続けるもよし、夢幻回廊の世界に閉じこもってみるもよし。しかし、あなたはそれをしなかった。それはあなたは絃さんのいないこの世界においても、幸せを見つけていこうとした証です」
「何を知ったような口を」
「だったら、私の砂時計を壊してみてくださいよ」
時空の砂時計を投げてパスする。梢はそれを受け取ると強く力を込めて握りつぶそうとするが、筋肉が言うとおりにしてくれない。これを壊せば、そうすることが出来れば自分は平和に過ごすことが出来ると知っているのに。なぜか壊すことが出来なかった。
「それが、あなたの本当の気持ちなんですよ。この世界で、零くんや心ちゃんたちと『クロネコ』を経営しながら暮らす。絃さんのことを忘れずに生きていく。それが本当の幸せなんです」
「違う……。違う!」
「違いません」
「私は」
「あなたは……この世界が幸せだって気がついてしまったんです。だから等価交換は出来ない。交換される先の幸せがこの世界の幸せに負けるんだから」
その言葉に合わせるようにして砂時計が壊れた。中の砂がさらさらと落ちていく。そして土に付着すると、もう時を操る砂と普通の砂との見分けがつかなくなってしまった。
「なんで……」
「それが真実なんですよ」
崩れ落ちる梢。もう、弦をこの世によみがえらせることは永遠に出来ないと宣告されたわけだ。夢幻回廊が自然に暴走をやめる。それは心たちがクリアしたおかげか砂時計が壊れたおかげかは判別がつかなかった。
「私はもうこの世界にいる資格も、零たちの親としている資格もない」
「そんなことはありません。零くんたちはあなたのことを慕っています」
「それは……」
「だって、私がこの世界に戻って来れたのは零くんたちの思いを受けたから。零くんたちがこの世界であなたを救い出して行きたいと思ったから」
優しく諭すように語りかける。もう間違いは起こさせない。現実から目を背ける力を持つ彼女に本当のことを思い出させる。大切なのは過去じゃない。未来じゃない。今であると。
「あなたが生きたいと思ったこの世界でやり直しましょうよ」
「光ちゃん」
「その砂時計をひっくり返せば私があなたに声をかけたその時間までは戻れることでしょう。どうしますか?」
梢はただ黙って砂時計を地面に置いた。ひっくり返すつもりはないと示した。それで終わりだ。
「この世界で、生きましょう。絃さんを愛してしまった者どうしで」
「光ちゃんには負けない」
瞳いっぱいに涙をためて梢は強く光に宣言をしたのだった。
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