ある夏の終わりのこと
四夏
第1話
怠い。
机に教科書も参考書も開いてはいるが、そこにあるだけで何もしない。したくない。
目の前にいるのもどうやら同じのようで、真っ白な書類を前にペン回しに没頭している。
「…美和」
おもむろに声を掛けた。
「ん?」
「怠い」
「それな」
あーもー面倒くせー書く気しねーよー、と美和が小さな声で愚痴った。
夏休みでも変わらず開いている、学校の図書館。そこに入って、かれこれ二時間経つ。
しかし私のノートは問題を一問書いただけだし、美和の書類に至っては出されただけ。高校で出会った友達の美和は、こういうきっちりしなきゃいけないことが嫌いだ。
私も、やらなきゃいけないのは分かってるんだ。やる気が無いだけで。
「でも美和、それ夏休み中に仕上げなきゃいけないんでしょ」
「まだ夏休み入ったばっかりだし」
「簡単に志願理由書書けるかなぁ」
「それ入りたいでーすでいいんじゃないかな」
「それは分かる」
推薦で進学することにしている美和は、書類の締切が夏休み明けた頃だという。書いて出して終わり、で出来ないのが面倒らしい。
「真衣こそ大変じゃん、勉強」
机に突っ伏し、見上げるように美和が言った。
「まぁね」
「そんなに勉強できる気しないわ」
「美和が嫌いなだけでしょ」
「真衣は勉強好きなの?」
「好きではないけど」
じっと見つめた後、怠そうに体を起こしながら
「…まぁ、でも偉いね。勉強できるの。しかも結構な大学志望」
「ありがと」
勉強は、別に嫌なわけでは無い。かといって、好きという事も無い。
じゃあ何で勉強してわざわざレベルの高い学校を目指してるのかと言われたら、答えられない。強いて言うなら、成り行き。親がそう言うから。それだけだ。
「あっねぇ、真衣今日祭り行く?」
「祭り?」
唐突に美和がそう聞いた。田舎であるこの辺りは、夏休みの始まる日に、年に一度の大きな祭りがある。今日はその二日目だ。
「…塾行かなきゃ」
「…えっらーい」
正直塾に行くことに使命感があるわけでも無いし、一日くらい行かなくたってどうにかなる。でも何だか行かなければいけない気がしている。
「凄い面倒だけどね」
「じゃあ行こうよ」
「…うーん」
返事を出し渋っている私を見かねて、美和はすぐに
「まぁいっか、真衣の勉強邪魔したくないし」
と言ってきた。
「…でも、行ったら楽しそう」
「そりゃそうだね」
「でも、勉強もやらなきゃ」
「そうだね」
「うーん」
「うーん」
この時期は一度しか無い、と誰かの言葉が頭によぎる。青春を楽しめという論と、今頑張らなければ道は開けないという論が、私の中で対立する。高校生という時間は、どっちの言葉も成立するから面倒だ。
「…遊びたい」
「うん」
「勉強もしなきゃ」
「うん」
「美和はどっち取る?選択間違ったら死ぬとして」
「間違いない、遊ぶ」
「だよね」
大体さー、真衣は真面目すぎるんだよと美和が呟いた。
「遊びと勉強を天秤にかけられる時点で、真面目すぎてはいない」
「即決できない時点で真面目」
「そんなこと言われてもなー」
昔から、真面目な子と言われてきた。偉い子だと言われてきた。大人らしいから、頼れるね。そんなイメージが、私にとっては安心できるものであると同時に鬱陶しい。
私は真面目以外の生き方を許されない気がして。私はいつも背伸びしていなきゃいけない気がして。
その反面いつも遊ぶことを考えている美和は、私にとって異端であると同時に憧れだった。何のレッテルも貼られてない美和は、どこにでも行ける。眩しいと思うくらいだ。
高校に入って世界が広がったと思っているけど、そう思う理由の一つに美和がいる。
ここまで分かっているのに同じ選択を続ける私は、やっぱり真面目なのかもしれない。
「…祭り、行く」
「決まり」
美和が嬉しそうに言った。きっと、一日くらい勉強しなくたって、そんなに変わらない。半ば言い聞かせるように、そう思った。受験生として染み着いた思考は、そう簡単に振り切れない。
「何時にしよっか」
美和が聞いた。
「…じゃあ6時くらいにしとく?」
「おっけ、じゃあ6時にひよこ前ね」
ひよこというのは、駅前にある銅像だ。親鳥にひよこが5羽くらいついて回ってる小さな像。
「うん」
「あっ、真衣」
それから数時間後、ひよこ前で再び会った。浴衣の美和は見慣れなくて、一瞬スルーしてしまいそうだった。
「浴衣か」
「いいでしょ」
一応塾に行くと言ってきたから、お洒落の類は何も出来なかった。せいぜい、駅のトイレで顔を小綺麗にするくらい。
そういえば、祭りなんて何年ぶりだろうか。
「行こ、射的やりたい」
どこか浮き足だった雑踏の中へ行く美和の後を、付いていった。
高校に入ってから行った記憶のない祭りは、そこら中から明るい何かが流れ出してきていた。
白熱球らしい明かりも、何かを焼く鉄板の音も、客引きの声も、熱を持ってうねっているみたいだ。
どこか嘘っぽささえ感じるくらいの熱は、涼しくなってきた夕方にちょうどいい。
屋台の並ぶ中を歩いていると、ふとりんごアメが目に付いた。
「美和、ちょっと待って」
「どした」
「りんごアメ食べる?」
「食べる」
三百円を差し出しながらりんごアメ二つ、と言うと、好きなの選んでいいよと言われた。
一番手前の二本を引っこ抜いて、美和に渡した。
「一ついくらだっけ」
「いいよ、奢り」
「そんなナチュラルに奢るタイプだったんだ」
「いいじゃん、格好いいでしょ」
「イケメン」
昔その固さに驚いたりんごアメだけど、今なら美味しく食べられる。安っぽいりんごの味も、祭りだと思えば許せた。
「あっ射的あった」
美和がふらっと射的の屋台の方へ行き、慌ててその後を追った。迷子になりそうで冷や冷やする。
「射的やりまーす」
「あいよ、二百円ね」
美和は財布から小銭を二つ出すと、すぐに空いていた銃を手に取った。
棚に並んでいるものを見ると、こんなもので撃ち落とせるのかと思うほど大きな箱のおもちゃや、小さなぬいぐるみまで色んなものが並んでいた。
「射的、得意なんだよ」
にやりと笑った美和は、二回目で目の前の小さなぬいぐるみを撃ち落とした。
「嬢ちゃん凄えな」
射的のおじさんが嬉しいのか嬉しくないのか分からない顔で笑った。
「でしょ」
その後、美和は残りであと一つ撃ち落とし、二つもぬいぐるみをゲットした。
「はい、あげる」
満足そうな顔をしながら、美和は妙に気の抜けた顔の、クマのぬいぐるみを差し出した。
「もらっていいの」
「二つも取れたんだし」
ありがとうと、そのぬいぐるみを受け取った。中途半端な顔が可愛い。
その後も、焼きそばだったりたこ焼きだったりを食べ歩いた。遊ぶことを忘れかけていた私に、全てが光と熱を持って流れ込んでくる。
楽しいと思った。
九時になって酔っ払いが増えてきた頃に、バスに間に合うように屋台街の外に出た。私が乗るバスは、九時半が最終だ。
「楽しかったっしょ」
美和が二本目のりんごアメをかじりながらそう言った。
「楽しかった」
「久し振りに、真衣の活き活きした顔見た気がするわ」
「…そんなに普段覇気無かった?」
「無かった」
「うわぁ」
確かに、三年生になってからは受験ばかりで、沈みがちだった気もする。
「ずっとさー…こんな風に遊んでたいよね」
急に、ぽつりと美和が言った。
「…そうだね」
「もーさーなんかさー、三年生になってみーんな進路なんだもん。分かるんだけどさ、なんか強制的に大人にさせられてるようで嫌じゃない?こうやってさ、遊ぶのちょー楽しー!って、それでいい気もするんだけど」
そうだなぁ、とぼんやり思っていたら、隣はもうあっでっか、とかじりすぎたりんごを必死に噛み砕いていた。
「美和は、子供でいたいの?」
「子供でもいいけど、大人は嫌ってだけ」
「何で?」
「だって、色々気にしなきゃいけないじゃん。結婚だの、仕事だの」
理解できない言葉では無かった。きっとこの高校生が終わったら、大学生になって、そのまま就職までまっしぐらなんだ。その間に成人しちゃうから、年齢的にも子供でいる権利を奪われてしまう。そして、その子供と言う言葉は何の縛りも無い自由に置き換えられる気がする。現実を見なくても許されるのが、きっと子供なんだ。
「それが嫌だから、勉強したくないし遊んで目を逸らしてるんだ」
美和の少し寂しそうな声音を、初めて聞いた。
「…大人って、楽しいのかな」
気付けば、そう言っていた。
「どうだろうね、分かんないや」
大して甘くもなかったりんごアメをかじりながら、美和はそう返す。
「とりあえず今日は楽しかったよ」
かばんに付けた、クマのぬいぐるみを見ながら言った。
「それ。超それ」
「あー、今日みたいに現実見てたくないなー!」
祭りから帰る人がちらほらいるのを分かってて、わざと少し大きな声でそう言った。馬鹿な高校生が何か言ってる、って思って欲しかった。
「ほんとそれー!」
美和も少し声を張った。
あはは、と笑った。そうやって笑ってたい。ずっと。
「現実見なきゃいけないなら、大人になりたくないね」
「マジでそれ」
あっバス大丈夫?と聞かれ、思ったよりゆっくり歩きすぎていたことに気付いた。
「あっ時間無いじゃん」
「やっばー!急ご!」
走るほど急がなきゃいけない時間でも無かったけど、訳も無く二人で走った。あはは、何か楽しいねって、それだけでいい気がした。
翌日、学校の図書館に行ってまたノートを広げた。
やるべき範囲の参考書も開いたけど、昨日書いた問題だけを解いてまた手が止まった。一度遊んでたいって思った衝撃とその味は、簡単に勉強の世界へ戻してくれない。
「まーいっ」
美和が、いつものかばんを持って現れた。きっと書類を書かなきゃいけないって頭では分かってるんだろう。
「やっほ」
「書類マジで書かなきゃいけなくなったんだよねー、しーちゃん今日で志願理由書だけでも下書きしろってさ」
しーちゃんというのは、美和の推薦に関することを担当してくれる先生のことだ。高橋先生だから、しーちゃんらしい。
「何字書かなきゃいけないんだっけ」
「八百」
「うわぁ」
「志願する理由が八百書けるだけでも、もう合格させて欲しいんだけど」
「それは確かに」
「まっ、本当は大学なんて行きたくないんだけどねー」
志願理由書を広げながら、そう美和は呟いた。
「美和、行きたくない進路わざわざ選ばなさそうなのに」
「親がうるさいだけだよ。せめて大学出とかないとお金がー、とか言ってて」
「あぁ…」
分かる気がした。
「ねぇ、真衣これ書いたら遊ぼ」
「いいよ」
昨日と違って即決した。だって、もう子供でいたいという欲に抗ったって仕方ない気がする。
そうだよ、私高校生なんだよ。十七歳なんだよ。
「よっしゃ、やろ」
そう言って、美和は理由書に取りかかり始めた。
それから数時間かかって、やっと美和は八百字の志願理由書を書き上げた。
「ふー、終わったもうやりたくない」
「でもそれ下書き一回目」
「悲しいこと言わないで」
よっしゃしーちゃんに出してくるわ、と言って席を立った。
私も、図書館を出る準備をした。昨日よりは進んだけど、やっぱり思った通りでは無い。それでいい気もした。
アイス食べたいなぁ、とぼんやり思った。学校を出ると、近くにコンビニがある。とりあえずそこに行こうか、と考えながら昨日の祭りを思い出した。
楽しかった。久々に楽しいと思った。
家に帰っても、何も言われなかった。勉強に関して口うるさいお母さんは、ただおかえり、ご飯食べたのと聞いてきただけだった。そりゃそうだ、私は塾に行ってたと思ってたんだもの。何だかそれまで含めて楽しい気がした。私塾じゃ無くて本当は祭り行ってたの、いいでしょ。口が裂けても言えないけど。
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