ひとり

@shirayukiderera

ひとり

ひとり


観察力の優れたハヤト少年は、妙な婦人が近所を歩き回っているのを訝しんでいた。巨大なゴミ袋を大事そうに両手に一つずつ持ち、みすぼらしく歩いている婦人。彼女は「ゴミおばさん」と周囲に蔑まれている。ハヤト少年は考える。

あの袋にはなにが入っているのだろう。

何のために街を徘徊しているのだろう。

ハヤト少年は学校のない週末にゴミおばさんを観察するようになった。

ゴミおばさんが歩いてきた。彼女の近くにいた人々は、わざとらしく眉をひそめて離れてゆく。ボロボロの服に薄汚れた眼鏡をかけ、ゴミ袋を二つもった婦人。そして、周囲の人が離れたがる最大の理由、狂気の眼。焦点の合わない特有の眼。ハヤト少年は探偵になりきって、自分に秘密の尾行任務が課されていると想定し、観察する。彼は今夢中の探偵小説の主人公のように、観察結果をまとめる。

一 婦人は日頃ゴミ捨て場に出す程度のゴミ袋を持っている。

二 ゴミ袋の中には大事な物が入っている模様。なぜなら彼女は片時もゴミ袋を離すこと無く持ち歩いているからである。

上記の如くノートに書き込んだハヤト少年は、探偵である自分に酔いながら、布団に潜った。

探偵事務所で働く夢を見た。

目覚まし時計が喧しく鳴る。ハヤト少年は探偵事務所の仕事を放り出して飛び起きた。月曜日。彼は探偵から生徒になるのだ。彼は憂鬱そうにのろのろとランドセルに物を詰めて出掛ける。

ハヤト少年は五分ほどの通学路をとぼとぼした足取りで歩く。後ろから背の高い少年が駈けてきて、ハヤト少年を突き飛ばして行った。けたたましく笑いながら通り過ぎるその少年はハヤト少年の憂鬱の原因である。彼の名はマサキ君といい、学校で会うたびにハヤト少年に暴力を振るいおもしろがっている、ある意味で典型的な少年である。ハヤト少年は運悪くマサキ少年と隣の席であるために、学校で嫌がらせをうけているのである。ハヤト少年がランドセルを教室の古びたロッカーに入れている時から、地獄が始まった。マサキ少年はハヤト少年がランドセルをしまっているとき、ハヤト少年の椅子を自らの机に運び、足を投げ出して二つの椅子にひとりで腰掛けた。ハヤト少年は泣きそうに、机の周りをうろうろする。マサキ少年は自分がハヤト少年を困らせていることに快感を感じながら、悪としての自分に酔うように意地悪な笑みを浮かべた。自分自身の他人への嘲笑はマサキ少年の劣等感のある心に劇薬のように刺激を与え、次なる悪事へと導く。マサキ少年はハヤト少年に意地悪く話しかける。

「椅子がないようだね。どうしたの」

ハヤト少年は震え上がってしまった。マサキ少年が常に悪事を働くことを目的として自分に接することは分かっていた。であるならば、ここでいかに高度に返答したとしても、拳骨がとんでくるはずなのだ。また、もし…

「おい、無視をするな。」マサキ少年が言う。と同時にハヤト少年は拳骨が腹にのめり込む痛みを感じることになる。ハヤト少年にはどうすることも出来なかった。

夕刻、ハヤト少年がへとへとになり家に帰る。家においては両親の顔色をうかがうことに就寝までの時間を費やす。ハヤト少年の両親は仕事場の嫌な上役、理不尽な説教などで蓄積した精神的疲労を、ハヤト少年に当たり散らすことで解消していた。内気な息子が大人になったら経験するであろう理不尽な物事に慣れさせるという口実で良心の呵責を押さえつけていた。ハヤト少年が当たり散らされることを避けるためには、なにもしないに限るのだった。顔色をうかがい、小さな物音にすら注意してくらすのである。そうして暇を潰すには、ひとり妄想に耽るしかないのだった。自分が探偵であるという妄想に。何故あの婦人はゴミ袋を持っているのだろう。ハヤト少年は再びそのことを考える。狂っている、理屈など通じないのだと考えれば片がつくのだが、それで終わらせるにはハヤト少年には時間が有り余っていた。それだけでなく、ハヤト少年には、彼女の目に、なにか特別な物を感じているのである。誰かに自分にかまって欲しいと、思っているような気がするのだ。それにはまず調査が必要だ。ハヤト少年は探偵になりきっていた。

ハヤト少年は、明日への憂鬱を胸に床についたが、かすかにあの婦人への好奇心が、胸の一角に光となって差し込んでいた。明日への憂鬱に、慣れてきてしまっていた。彼は学校に行く夢を見た。そこでも彼は殴られていた。

翌朝の学校は、さらに苦痛であった。運動好きな体育会系の担任教師が、学級活動の時間に

「人の顔色ばかりうかがっている、どうしようもないずるいやつ」として彼をこきおろした。マサキ少年の仕業だった。彼は担任教師までも悪事に利用しだした。マサキ少年は勉強のできるスポーツマンであったのだから、教師及び生徒の人望が得られないはずがなかった。マサキ少年は狡猾にも今まで何一つ悪事の証拠を残さなかったのだ。担任教師はその日、機嫌が悪く、(ハヤト少年はそれを一目で察していた)ハヤト少年は一時間理不尽に叱責された。周りの生徒たちも、教師への賛同の声を挙げ、冷笑した。ハヤト少年は両親の理不尽なやつあたりに慣れきっていたが、自分を中心として湧き起こる蔑みの輪が胸を縊り殺すくらいに締め上げるのを感じた。涙の流れるのを止めることは不可能であった。

マサキ少年は大層気持ちよさそうに笑っていた。

ハヤト少年はその日、帰路において、自宅学校双方の精神への圧力が、自分を押し潰すのを感じた。この感覚は悪事を働かれるようになってからたびたび、五、六回経験しており、抑え難い感情であった。精神への圧力が心を押し潰し、鬱憤が血のように吹き出してくる。家族、マサキ少年、その他の全ての人々への憎悪、怨念、殺意が、絶頂に達する。妄想で何をしても抑制するのは不可能だ。そういうとき、ハヤト少年は家の前の信号を渡らずに、まっすぐ走って公園に駆け込んでいく。そして、叫び声をあげながらそこに暮らす鳩を蹴り飛ばし、燕の巣を叩きおとし、雛を踏みつぶす。また、植えてあるヒマワリやアサガオを力任せに引き抜き、辺りに撒き散らすのである。一連の行動が終わり、公園が鳥や花たちの死骸だらけになったころ、ハヤト少年は半笑いのような複雑な表情で歩いて帰る。マサキ少年へ復讐をする勇気が無く、代わりのような形で鳩や植物を惨殺しているのだった。公園で小型爆弾が炸裂したようなその光景は、いつも翌朝には跡形なく消え去っている。ハヤト少年は不思議に思いながらも、思い出したくないような気持ちで翌日以降過ごすのだった。あの体育会系の教師に呼び出されるのをほんの少し恐れていたのみだった。夕日が、鳩や燕の遺骸の血をてらてら光らせていた。今回も、明日には片付いているだろう。ハヤト少年は確信するように、そう思った。



マサキ少年が帰宅した。今日学校でハヤト少年をこれ以上ないほど嘲弄してから、なぜだか彼は胸が痛かった。ハヤト少年に悪事を働くことを望まないという本心がちらとあらわれてきていた。

「俺はハヤトが大嫌いだ」と口に出してみた。自己に再認識させようとした。ハヤト少年は憎しみの対象、鬱憤のはけ口でしかない。良心の呵責を感じるはずがない。と思おうとした。なぜだか彼には出来なかった。ハヤト少年の涙をみてから、心がやけに痛んでいた。自分がなぜハヤト少年を毛嫌いし、殴るのか、悟ってしまいそうだった。彼はそれを必死に避けようとしていた。そして核心をつかない考え事という奇妙な行為をしているうちに、いつのまにか夕日が輝いていた。夕日が美しく、卵のようだと思ったとき、彼は核心を突いてしまった。俺は顔が醜い。それに比べてやつは卵のような顔だ。いや、顔なんてなんでもない。俺は奴より優れている。勉強、スポーツ、性格、あらゆる面で優れている。思い知らせよう。思い知らせよう。顔を泣き顔にして醜くしてやろう。無意識にそう考えていた自分に、今、マサキ少年は気づいてしまった。夕日が光を放つ中、彼は外に走り出た。何も考えるな。自分に言い聞かせた。道も分からず、ただ走った。しかし、反対の道からハヤト少年が歩いてくるのを見てしまったとき、小学生には分からないような複雑な感情があふれ出してきた。それらは混ざり合い、ハヤト少年に対する憎しみへと凝固した。


ハヤト少年は公園から家へむかっていた。両親に帰りが遅いのをどう言い訳しようかと考えながら歩いていた。ふと、ゴミおばさんの調査をしようと思った。鳩の惨殺だけでは、気が晴れなかった。なんとしても抑鬱感を後回しにしたがった。だが、しばらく歩くと、ハヤト少年が走ってくるのを認めた。彼の心は現実に戻された。傷だらけの彼の心は、彼の欲する唯一の救いを求めた。日ごろ観察するうち、彼女に惹かれていた。あの人なら、僕を分かってくれる。ゴミおばさん、助けて。彼は理不尽に、そう願った。

ハヤト少年は目を疑った。ゴミおばさんがそこにいた。すわりこんで、おかしな、しかしなにか美しい目つきでゴミ袋をいじっていた。そして、彼女はゆっくりとハヤト少年に目を向けた。

「助けて」とハヤト少年は言った。彼女なら全て了解していると信じたかった。彼女に酷く扱われてしまったら自分はどうなってしまうのだろう。

彼女は黙って彼にほほえんだ。ハヤト少年ははっとした。彼女の目には美しさやらは微塵もなかった。狂っているだけなのだ。ただこの老婆は、理由もなくゴミ袋を持ち、徘徊する狂人なのだ。これに気づいたとき、彼はひとりではなくなった。ゴミおばさんを狂人と認識するすべての人とのつながりを、彼は感じた。

「あなたはひとり」ゴミおばさんは呟いた。

狂った老婦人はゴミ袋を開いた。そこには、血塗れに潰れた鳩、燕の死骸がぎっしり詰まっていた。

「あなたはひとり」

マサキ少年が眼前に迫ってきていた。

「あなたはひとり」

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