カルマの塔
富士田けやき
序章:白の復讐者誕生
アルカディア王国。古代語で理想郷という意味を持つこの国は、周辺諸国に比べ、多少なりとも力を持っていた。それは武力であり、経済力でもあり、歴史や積み上げてきたものの大きさでもある。ローレンシア大陸の七王国に数えられる由緒正しい国家であった。
その王都アルカスの一角、美しく整備された街並みとは打って変わって、暗く寂れた場所があった。集まる者たちも薄汚く、空気もよどんでいる。此処に住まうものたちの大半は、奴隷階級の者たちであった。
「ねえさん、アルレットねえさん。教会からパンをもらってきたよ」
「あら、ちゃんとお礼を言ってきた? 私のかわいいちっちゃな坊や」
「もちろんさ。あとその坊やってのはやめてよ。僕はねえさんの騎士なんだから」
「はいはい。じゃあパンを半分こしましょう。小さな騎士さん」
「うん!」
この国にも当然階級がある。王を頭とするそれは、貴族、平民、奴隷と大まかに分かれている。それらは基本的に不変のものであり、階級を買うとなれば多額の金が要る。奴隷から平民、平民から貴族、どれも奇跡が起こらねば変動することは無い。
「おいしいね、ねえさん」
「ええ、とても美味しいわ。神父様に感謝しないといけないわね」
この姉弟もまた奴隷である。母は弟を産んですぐ他界、父は母が娼婦であったため、誰が父であるかわからない。たった二人の小さな家族であった。
「明日は僕のためたお金を使ってたまごを買おうよ」
「じゃあ私のお金も合わせてふたつ買いましょ」
カビの生えたパンを食べ終わり、明日に希望をつなぐ。ただ生きる、それだけでも重労働なのだ。二人で力を合わせて、朝から晩まで労働をして、ようやくパンと水、薄いスープ。たまの贅沢でたまごをひとつ、それが奴隷階級の生活であった。
「さあ、食べたら寝ましょう。明日の朝は早いし、夜は寝るものよ」
「じゃあねえさんお唄を歌ってよ。そしたら僕もいっしょに寝るよ」
「ええいいわよ」
小さな子でも奴隷ならば働かねばならない。児童労働が悪などという価値観は近代以降に形成されたもの、農夫の子は畑作を手伝うし、商人の子や技術者の子は親の仕事を盗み見て、時には体験し、覚えていく。奴隷の子は、労働力として社会に組み込まれる。教育など一部の特権階級のものでしかない。
「ねえさん、お唄!」
「はいはい」
短いろうそくの火を消し、小さな家族はせまく薄いベッドに二人入る。抱き合わねば落ちてしまいそうなほどの狭さ、ちょっとした寒風すら通す薄い布、ベッドと呼ぶにはあまりに粗末、それでも二人は幸せであった。
「ねえさん、あったかい」
「奪われたら許しましょう。盗まれたら許しましょう。殺されたら許しましょう。許しは何物より尊く、乞うて天を仰ぎ見れば、神は許しと慈悲を与えてくださるでしょう。だから許しましょう。許しましょう。許しましょう。わたしの小さな宝物。あなたを産んだ美しき世界を愛して頂戴」
優しい歌を聴きながら、弟は姉の温かさを感じる。絶対手放してなるものかと力いっぱい抱きとめる。たった二人ぼっちの家族。だからこそ、離れてはならない。
「ねえ……さ、ん」
まどろみの中に堕ちる弟を、姉もまた宝物のように大事に抱きしめていた。
「おやすみ、アル。私のかわいい宝物」
奴隷は人である。しかし世界は彼らを人とは認めない。
○
「さぼるなよチビども!」
怒号飛び交う建設現場。此処で荷運びをするのが奴隷の仕事である。奴隷の中でも単価の低い子どもは、単純作業を行う現場では特に好まれる。力仕事であっても、それは変わらない。潰れたなら、買い換えればいいのだから。
「おい、アル。昼休み、いつもの場所でな」
「わかったよ。それまでお互い頑張ろう、カイル」
ほんの少しすれ違った瞬間、小さく会話する。ほんの少しでもサボりの兆候が見えれば、彼らの雇い主は平気で鞭を打ってくる。彼らは奴隷を同じ人だと思っていないのだ。
「サボるなと言っているだろうが!」
別の子どもが鞭を打たれている横で、少年たちは石を運ぶ。
○
「まったく、次に買われる相手は、もう少し奴隷使いが優しいと助かる」
「期限付きのこーいう現場だと荒くなるもんね。でも金持ちの、おっさん専属だと十中八九……『あれ』でしょ」
「あー……『あれ』は嫌だなあ。考えるだけでケツが痛くならぁ」
奴隷にもさまざまな種類がある。種類というか、彼らを買ったものによって行う仕事も役割も、当然異なってくるのだ。アルとカイルはとある建築商会にまとめて雇われた期限付きの労働力である。
「理想を言えば個人所有のお手伝いとかか?」
「それはやだよ。ねえさんと別れなきゃならなくなる」
「出たよシスコン」
「うるさいやい!」
奴隷には基本的に仕事を選ぶ権利は無い。売られた場所に行き、労働するだけの存在。だが、仲介たる人買いにとって売りやすい相手、シチュエーションもある。期限付きの、このような現場は誰も好かない分、希望すればほぼ通る。アルは好んでこれらに売られるよう人買いに希望を述べていた。すべては姉と離れぬためである。
「まあ変わってるよ。奴隷の癖に家族で暮らしてるんだもんな」
カイルは遠くの国出身である。すでに亡国であるそこに親族がいるのかいないのか、カイル自身知りえない。わかっているのは、敗戦し、奪われ、奴隷に身をやつし、今このアルカディアで人に買われていると言うこと。
「家族で買われてるところは結構いるよ」
「お前はそれ以外だろうが……苦労しているだろうな」
「まあね」
「……お前じゃねーよ」
そう言ったきりカイルはアルから目を離した。
アルは首をかしげながら、別の方を見る。
「遅いね、そろそろ来てもいいころだけど」
アルはきょろきょろと周りを見渡す。しかし人影は見受けられない。
「おまたせ」
アルの頭に小さな石がぶつけられた。指先ほどの大きさの石は、痛みよりも驚きを身体に伝える。「うわっ」とよろけるアル。その上、石垣の上に立つのは、
「ファヴェーラか。遅いぞ」
ファヴェーラと呼ばれた人物は、鉄面皮とはまた違う感情の乏しい目で二人を見下ろす。一見して浅黒い少年にしか見えないが、一応れっきとした女である。
「ごめん。撒くのに手間取った」
そう言って少女は二人に真っ赤な果実を投げ渡す。
「おっ、りんごかよ。いっただっきます!」
りんごを猛烈な勢いで喰らう二人を尻目に、しゃくしゃくと規則正しく、しかし二人と同じ速度でりんごを食べるファヴェーラ。下層階級の食事速度は早い。
「ぷは、生き返るね。いつもありがと、ファヴェーラ」
アルが感謝の意を述べると、ファヴェーラは無言で頷く。まるでからくり仕掛けの所作、それでも二人にはその機微がなんとなく理解できていた。付き合い自体はそれほど長くは無いが、なんとなく馬が合うのだ。
「しっかし泥棒家業ってのも楽じゃねえよなあ。こうしてりんごが食えるけど、リスクと見合うかってーとちょっとなあ」
「別に問題ない。捕まったら死ぬだけ」
「それは問題しかないよ」
泥棒は悪行である。捕まれば弁償だけではすまない。殴られ、蹴られ、身分証に「この者泥棒である」という生きている限り永遠に消えぬレッテルが貼られる。これはさまざまな場面でマイナスな効力を発揮するし、二度とまともな目で見られることは無い。
「それに、へまはしない。私はプロだから」
ファヴェーラはこの国の人間ではない。生まれはこの国だが、両親は遠く東方からやってきた泥棒の一族、不法入国でこの国に入り、ファヴェーラを生んだ。つまりこの国はファヴェーラの存在を認知していない。国籍や身分がないのだ。ゆえにファヴェーラに人権は無い。奴隷にすらある最低限すら存在しない。殺しても、虫や畜生となんら変わりないのだ。
「まあこの年で泥棒ギルドの一員だし、そこらの泥棒とはわけが違うよ」
ファヴェーラは無言で胸を張った。泥棒でもプロなりの矜持があるらしい。
ちなみに泥棒ギルドとは、この国にある闇ギルドのひとつ。裏家業に身を置くもの、その中である程度信頼を勝ち得たものが所属することが出来るプロ集団である。所属することでさまざまな特典、利点はあるが、同時に相応の上納金も必要である。ファヴェーラの一家は親子三人所属していた。
「そのおかげでこうして俺たちはりんごにありつけるっと」
「うまーい!」
「うまし」
三人で並び塀の上に座る。意外と景色が見えるこの場所はかなりの穴場であった。この穴場を巡って争いがあったりなかったり。
「んー、りんごを食べながら眺める景色は最高だな」
「王宮が見えるもんね。あーあ、あそこの人たちはりんごなんて好きなだけ食べられるんだろうなあ。シチューとかもぐびぐびっと樽でさ」
「樽じゃ飲まねえだろ。つーか、たぶんそんな良いとこじゃないぜ。俺はごめんだねあんな場所。こっちの方が性に合ってるぜ」
「えー、僕はあっちが良いなあ」
アルの眼は王宮やその周辺の美しい区画に吸い込まれていた。カイルはむすっとして大きな口を開け咀嚼する。たまにアルは羨ましそうにあちら側を眺めていた。最近、とある場所に行って熱を出して死線を彷徨ってからは特に――
熱の影響かあまり覚えては無いらしいが。
カイルはいの一番に食べ終わり、石垣の陰になっているひんやりとした地面に腰を下ろした。ほんの数秒、タッチの差でアルとファヴェーラも食べ終わる。
「あとで、仕事終わりにおねえさんの分も渡す。この前の、花のお礼」
「ねえさんの分も!? ありがとうファヴェーラ!」
満面の笑みを浮かべるアル。自分の分をもらうときよりもうれしそうである。カイルはやれやれとため息をつき、ファヴェーラは――やはり無表情であった。
「しっかしよお。アルの姉さんは本当に美人だよな」
カイルはアルをじろじろ見て、
「似てるっちゃ似てるけど……男らしさにゃ欠けるな」
むっとするアル。少し中性的な容姿で姉譲りの美しい黒髪がさらさらと揺れる。やせっぽっちだが、それは食生活の劣悪さにも原因があるだろう。ファヴェーラよりよっぽど女性的だが、一応れっきとした男である。
「うるさいやい。僕はねえさんを守る。お前みたいな悪い虫がつかないようにな!」
「人のこと虫扱いとはいい度胸だな。このやせっぽっちが」
じゃれあうようにカイルがアルに飛び掛り、一瞬のうちにマウントを取ってアルのほっぺを引っ張っていた。にゅーっと引っ張られるそれを見て、一瞬だけファヴェーラが吹き出したのを、この場の誰も知らない。
「えーっと誰が誰を守るって?」
「ふるふぁい(うるさい)! ひょーひぃがふぁふふぁったんふぁ(調子が悪かったんだ)!」
「ったく、口だけは一人前だな」
カイルが指を離すと、ほっぺが元に戻り、むっとした表情だけが残った。
「ん?」
すると、作業場のほうから鐘の鳴る音が聞こえてきた。これは休憩の終わりを告げる鐘であり、つらい労働の始まりを告げる鐘でもある。
カイルもアルも嫌な顔をして立ち上がった。
「おっと、遊びは終わりか。そんじゃファヴェーラ。また終わりごろ会おうぜ」
「急がないと鞭だからね。それじゃまた後で」
「わかった」
二人は作業場へ、もう一人は街へ消えていく。雑踏から遠く、人通りの少ない裏路地には、りんごの種だけがぽつりと残っていた。
○
アルは駆ける。りんごひとつとたまごをひとつ胸に抱え、大切な姉の下へ急ぐ。りんごを見て、姉はどう思うだろうか、喜ぶだろうか、嬉しがるだろうか、それともちょっぴり怒るだろうか、そしてその後抱きしめてくれるだろうか、想いが溢れ、笑顔が浮かぶ。
家が見えてきた。粗末な家。隙間だらけの襤褸小屋。それでもアルにとっては世界で一番幸せな、もっとも価値のある場所であった。
「ねえさん、ただいま!」
アルは戸を開ける。目に映るのは自分と同じ色の、黒曜石と見紛うばかりの美しい長髪。それだけでアルは幸せいっぱいである。
「今日はね、たまごと、あとじゃーん! ファヴェーラがくれたんだ。りんごだよりんご」
反応を待つアル。姉はゆっくり振り返り、にっこり笑みを浮かべた。
「おかえり、私のかわいい騎士さま」
その笑顔に、嬉しさが爆発した。
「あれ、今日のスープ」
アルは食事の並べられた卓を見て、怪訝な顔をした。
たまご料理が二つあるのはわかる。パンも教会か、花の売れ行きが良かったのか、まあ理解できる。しかしスープが、いつもの薄いスープではなく、具がたくさん入っている、アルの見たこと無いものであった。
「今日は花の売れ行きがすごく良くて、せっかくだからシチューを作ってみたの。昔かあさんが一度だけ作ってくれて、すごく美味しかったから」
姉の、アルレットの言葉に、嬉しそうな表情を見せるアルだったが、内心疑問符は残っていた。何故、今日なのか。
(別に今日は何かの記念日じゃないしなあ。でも、美味しそうだ)
ぐうと腹がなるアル。アルレットはにっこり微笑んで、アルにどうぞと促した。
「いただきます!」
がつがつ食べ始める。カビの生えたパンも、シチューにつけて食べると天にも昇る味わいであった。こんな美味しくて、こんな幸せでいいのだろうか。あまりにも幸福で、アルは少し怖いくらいであった。
「おいしい? 上手に出来てるかしら?」
アルレットの問いに、アルは何もかも吹き飛ばすほどの勢いで頷いた。苦笑するアルレット。その苦笑ひとつでさえ、アルの心を満たす。姉の一挙手一投足がアルに幸せを運んでくれるのだ。
(嗚呼、僕はとても幸せだ)
幸せの形はひとつではない。たとえ貧しくとも、奴隷として扱われようとも、姉といっしょならばそれでいい。姉だけでいいのだ。他に何もいらない。そう断言できるほど、アルはとても姉を愛していた。そして同じように姉もまた、
「ねえ、アル?」
アルを愛しているのだ。だからこそ、想いはすれ違う。
「なあにねえさん?」
首をかしげるアル。シチューが口の端からつーっとこぼれる。あわててアルはそれをぬぐった。
「あのね……アルは、今のお仕事つらい?」
突然の姉の問い。アルは首を横に振った。
「たいしてつらくないよ。前の場所ほど理不尽に鞭を打たれないし、気晴らしに殴られたりもしないからね」
アルの返しに、アルレットは表情を曇らせる。アルは嘘など言っていない。本当にたいしたことないと思っているのだ。これくらい当たり前だと思っているのだ。同年代の市民は、こんな酷い目にあっていない。農村の子どもだって、こんな理不尽な目にあっていない。殴られ、蹴られ、一日フルタイムで働き、すずめの涙ほどの賃金を受け取る。それが彼にとっての当たり前。地獄しか知らないから――
「もし、アルが奴隷から解放されて、そして市民のようになれたら、どう?」
姉の問いに苦笑いするアル。
「無理だよ。身分を買うお金が無いもの。一生働いて、それでも足りない。とくに僕なんて現場ばっかりの奴隷でも底辺だし、できっこない」
端から諦めている様子。そしてそれも当たり前なのだ。この国は奴隷が這い上がれる仕組みになっていない。アルのような子どもにだって理解できている。無理だ、と。
「でも、もし解放されるとしたら?」
「そりゃ……解放されたいけど。あ、そんなこと話してたらシチューさめちゃうよ。せっかくのシチューなのに」
不可能な話よりも目先のシチュー。アルは再度ずるずるとシチューにがっついた。
もしこの時、アルが本当の気持ちを、『最後』まで言っていたら、未来は変わっていたかもしれない。それが幸か不幸か、
(でも、アルレットねえさんといっしょなら、奴隷でも市民でも何でもいいんだよ)
それは、彼の人生の終わりで彼は知るだろう。
○
次の日、アルレットはとある貴族の家に買われていった。残されたのは身分すら買えるであろうお金だけ。
先日、市場で見初められたアルレットは、幾度かの誘いを断りながらも、積み上げられていく自身の購入金に対して、とうとう頭を下げたのだ。
すべては、アルを幸せにするために――
アルは止められなかった。屈強な男に連れて行かれる姉を。
アルは言えなかった。「置いていかないで。一人にしないで」と。
アルは、独りぼっちになってしまった。『解放奴隷』という身分と、しばらくの生活に困らない程度のお金と引き換えに。
○
「よお久しぶりだな解放奴隷のアルくん」
カイルとファヴェーラが仕事帰りにアルの家を訪れた。アルは生気の無い顔で彼らを迎え入れる。
「……ぼろいのは相変わらずか。つーか掃除しとけよ」
ぱぱっと掃除を始めるカイル。ファヴェーラは不動。あまり家事全般が得意でないのだ。その点カイルはある程度なんでもこなせる。
「はい、アル」
ファヴェーラがアルにりんごを手渡そうとする。もぞもぞとそれを受け取ろうとするアルの手を、掃除中のカイルが叩いた。
「死んだ魚に食わせるりんごはねえよ」
「……私が盗んだやつ」
ぼそりといった言葉は無視して、カイルはアルをにらみつけた。
「別に働けとは言わねーよ。もうお前は誰のものでもねーし、身分も『解放奴隷』だ。扱いは市民にゃ劣るが、つれー労働とはおさらばさ。うらやましいぜ畜生」
カイルはアルの襟首を引っつかむ。
「でもな、んな死んだ目してんじゃねーよ。だらだら生きてんじゃねーよ。誰のおかげで、自由の身になったと思ってんだ!? アア!? 誰が人生投げ売って金作ったと思ってんだ!? あの人が不幸を背負った分、せめてテメーは幸せにならなきゃ駄目だろうが! このスカタン!」
カイルの怒声が小さな襤褸小屋に響き渡る。ファヴェーラは止めない。
「でも、もう、ねえさんは」
ぐずるアルにカイルの頭突きが炸裂した。これにはさすがのファヴェーラも驚く。
「そんなぐだぐだ言ってる暇があったら働けよ! 働いて働いて、お前がアルレットさんを買ってやれ。それが恩返しってもんだろうが!」
アルは目を見開いた。盲点だったのだ、姉を、買い戻すということ。あまりに現実感が無い。不可能に等しい――奴隷にとっては。
「解放奴隷は、制約はきついけど市民に近い。労働賃金は奴隷の比じゃない。容易じゃないけど、不可能でもない。必要なら、私も手伝う」
「つーわけだ。どうするよ、やせっぽっちの騎士さんよぉ」
アルは自分を恥じた。自分などよりよっぽど自分と、姉のことを考えてくれていた二人の友にあわせる顔がない。そして、深い感謝の念が溢れる。
「ありがとう。僕、働くよ。頑張って働いて、ねえさんを買うんだ」
アルの目に灯がともる。それを見て、カイルは少し照れながら、倒れているアルに手を伸ばした。
「悪かったなやりすぎた。でもよ、恩返しできる相手のいるうちは……諦めんなよ」
カイルは天涯孤独である。家族の生死は不明。おそらく死んでいる。恩があったとしても、永遠に返すことなど出来ないのだ。それを知るからこそ、カイルは本気でアルに向き合った。まだ、親友は間に合うのだから。己と違って。
「ああ、ありがと親友」
伸ばされた手を力強くアルは握り締めた。がっしり握られた手には活力が溢れていた。カイルが「よっと」とアルを引っ張り起こす。
「ファヴェーラも、ありがと」
「うん。私も、友達だから」
表情の無い顔。しかし感情が無いわけではない。その無表情に込められた感情を、アルは理解している。
「そんじゃあ親友君。働いた後でとても疲れた友達二人に、ちびっとご馳走しておくれ」
「うちにはろくなものないよ。パンと水くらいしか」
「材料は、ある」
ファヴェーラが後ろ手から袋を差し出す。その中には、適当にかっぱらってきたのだろう取り止めの無い食材がずらり。アルとカイルは顔を合わせて笑う。それを見て「……」無言無表情だが、ちょっぴり不機嫌な様子のファヴェーラが二人をにらんでいた。
「あはは、ごめんよファヴェーラ。任せて、僕が腕によりをかけて二人に振舞って見せるから……ねえさんの見よう見まねだけど」
アルが腕まくりして、狭苦しい調理場というにはあまりに貧相な場所に立つ。その背をカイルとファヴェーラが見守る。
たとえ失敗してもいいのだ。アルが自分から動いたことにこそ意味がある。それに自分たちは奴隷身分である。下層の人間である。ちょっとくらい失敗しても、おいしくいただいてみせるという自負があった。
「うげえ」
「まず、うま……まずい」
アルの初料理は、食材が意味不明な食べあわせだったことも手伝い、泥水すら美味しくいただける彼等の舌をも凌駕した。
「く、ははは。ほんっと糞まずいなこれ。つーかくせえよこの果物」
「一番高価なやつだった。あの店は詐欺」
「泥棒に詐欺呼ばわりされるとはな。まあこのくせえのを高く売るのは詐欺だ」
「と、とげとげしてて剥くのが痛かったのに、中身がくさいなんて酷いよ」
二人でも狭い家に、三人で騒ぎながら食卓を囲む。一人だった孤独も薄れ、不思議と力が湧いてくる。家族とはまた違う、友達という和が、そこにはあった。
「あははははは」
アルに笑顔が戻った。
彼の心からの笑顔は、もしかするならば、この時期が最後だったのかもしれない。
○
アルの家からの帰り道、カイルとファヴェーラは並んで歩いていた。
「……一応、カイルの耳には入れておく」
「ん、なんだよ急に?」
基本的にアルと三人でいるとき以外、会話らしい会話など無い二人である。特にファヴェーラから話題を振ってくることは珍しい。
「アルレットさんを買った貴族、ヴラド伯は……問題がある」
「問題って……おい、まさか」
「覚悟は、必要」
カイルは髪の毛をかきむしる。自身にとっても憧れの対象であるアルレット、そして親友の不遇に対する怒り、やり場の無いそれを発散させているのだ。
「やるせ、ねえなあ」
月明かりが、雲に覆われ、闇の帳が重くのしかかる。
○
アルは精力的に働いていた。字が読めない、学のないアルが出来る仕事は、やはり力仕事や単純作業。それほど賃金は上昇しなかったが、目標のある人間は強い。
「必ずねえさんを取り戻す!」
その不断の決意の下、アルは徹底的な節約と貯蓄に精を出していた。
あの日から一年の月日が経った。
ある日の事である。家の前に人が立っていた。ずた袋を担いだ男がアルの家の前に立つ。そのことに疑問を浮かべながら、アルは声をかけてみる。
「すいません。うちに何か用ですか?」
アルの方を見る男。ごみ虫を見るような視線は、アルとて何度も経験している。
「ほらよ汚らわしい奴隷のガキ」
ずた袋を投げつけられ、むっとするアル。
「僕は解放奴隷です」
「ふん。それで人間様になったつもりかよ。いいか、お前らは一生人間にはなれない。奴隷は奴隷のままだ。解放奴隷だって飼われてないだけで非人間にゃ違いねーんだよ」
この意見は珍しいものではない。この国の、おそらく市民以上の大勢が同じ意見を持っている。この手の罵声は慣れたものであるが、嬉しいものではない。
「……この袋は何ですか?」
問答を続けても無駄。アルは必要なことだけを聞く。男もまたさっさとこのスラム街というべき場所から去りたいのか、必要以上に罵倒する気はないようだ。
「あの方は玩具を壊しすぎてな、領地ならともかくこの王都では処分場所にも困る。だからこうして俺が元あった場所に返しにきたんだ。ったくめんどくせえ」
玩具、アルの耳に不思議にこびりついた響き。元あった場所というのも気になる。
「どういう、意味ですか?」
男は不快げな顔でアルに視線を合わせた。
「どういう意味も糞もねえよ。察しの悪いガキだな。ヴラド伯の買った玩具が壊れたから元の場所に返しにきた。あとはそっちで処分しとけ、以上」
男はそう言い捨てて、その場を去る。
残されたアルは、そのずた袋に、おそるおそる手を伸ばす。
心臓が早鐘のように鳴り響く。これ以上触れてはいけない。近づいてはいけない。
とっくに理解しているのだ。中身を。理解したうえで、見てはならない。見るべきではない。見ずに処分すべき。川にでも流せばいい。埋めてしまえばいい。そうすべきなのに――
アルは、その袋を開けてしまった。中身は――
「お、おぅっぷ」
一瞬耐えた。しかしほんのり腐臭を帯び始めている『それ』を、理解した瞬間、アルは耐え切れず胃の中のものをすべて撒き散らした。胃液がのどを焼く。地面には水っぽい吐しゃ物の海。
「あ、あ、あ、あ」
壊れかけの心が断末魔の声を上げている。何もかも放り出してこの場から消え去りたい衝動に駆られる。忘れよう、忘れて、明日から希望に満ちた明日を送ろう。カイルとファヴェーラと三人で――
だってもう、アルレットねえさんは――
「ああそうだガキ。……ってきたねえなおい!?」
なぜか戻ってきた男。アルは虚ろな目を上げる。
「壊れた『それ』の処分代だ。受け取っとけ」
アルの目の前に銀貨一枚が投げ渡される。アルの視線は男に向いたまま、
「なんで、どうして……」
ぶつぶつとつぶやくアルを見て、男はつばを吐きかけた。
「なんでもどうしてもあるかよ。買ったものをどうしようが伯爵の勝手だ。伯が買って伯が壊した。処分がめんどくさいから駄賃まであげてる。いったい何が不満なんだ? 金か? 金が欲しいのか? この業突く張りが、これだから奴隷は好かん。対価を求めぬ分、馬や牛のほうが何ぼもマシだ。このクズども」
男は好き放題吐き捨てたあと、ずた袋を蹴飛ばした。中から、手足を失った死体が飛び出してくる。それが運ぶために切り取られたものなのか、生前切り取られたものなのか、アルにはわからない。わかりたくもない。
「そういやこの女、結構美人だったな。あーあもったいねえ。もし貴族に生まれてりゃあちやほやもされたろうに。まあ、しょうがねえ、奴隷なんだしよ」
そう言って男は今度こそきびすを返して去っていった。
残されたのは呆然と立ちすくむアルだけ。貴族に生まれていれば、奴隷じゃなければ、二つの言葉がぐるぐる渦巻く。非人間、アルはようやくその意味に至った。今まで知ったつもりでいたことを、目を背け続けていたことを――
「……そうか」
アルは知った。
「……そうだったのか」
アルは知ってしまった。
「く、くく、くはははははあはははははははははあはははははあ!」
狂ったように笑う。アルの心は壊れてしまった。もう二度と元には戻らぬくらい木っ端微塵に砕け散る。むしろ自ら心を砕くように狂気を増す。
「僕らは人間じゃないんだって。可笑しいよねえ、ねえさん! だってほら、僕にも赤い血が流れている!」
アルは二の腕を抱きしめるように掻き毟った。爪が皮膚をえぐり、中から血がにじむ。
「二つの足で立っているし、両の腕もついている! 指も五本あるし、目も二つ。鼻も耳も口も、みーんな同じなのに僕らは人間じゃないんだッ!!」
絶叫するアル。
「亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜ッ!」
血の涙を流し、漆黒の髪に白髪が混じる。憎悪、憤怒、諦観、絶望、さまざまな感情が渦巻き、それが凄絶な表情を生み出す。アルは壊れた。おそらくは姉もそうなったであろう。人を超え、獣へと――
「……それじゃあ駄目だ」
しかし、アルはぎりぎりのところで踏み止まった。獣では駄目なのだ。獣に人は壊せても、獣に人の社会は壊せない。文明に淘汰された敗者に堕ちては意味が無い。
「それじゃあ人じゃないって自分が認めてるもんじゃないか、うん」
それをアルは直感で理解したのだ。
「オーケー、僕は落ち着いている。僕は人間だ。少なくとも、僕らが僕らをそうであると思わなきゃ意味が無い。そうでしょ、ねえさん?」
変わり果てた姉を、以前と変わらぬように抱きしめる。
「さっきは吐いちゃってごめんよねえさん。再会して嬉しくなっちゃってさ、つい吐いちゃったんだ。あはは、おっかしいよねえ。大丈夫、ねえさんは世界一綺麗だよ」
手足をもがれ、歯が折れ、乳房は断たれ、耳はそがれ、眼球はくり貫かれ、死の間際の表情は凄絶の極み、加えて死後ほどほどの時間が経過しており、腐臭も漂い始めている。しかしアルには美しく見える。誰よりも美しい姉が帰ってきたのだ。
「おかえりアルレットねえさん。さあ、おうちに帰ろう。二人いっしょにならなきゃ駄目なんだ。いっしょならなんでも出来る。二人ならきっと」
アルはアルレットを担いで、家の中に入る。
銀貨は捨て置く。あれを受け取るわけにはいかない。あれはアルレットを買い取ったお金と意味合いが異なる。アルレットが自身の覚悟で手に入れたお金と、玩具の処分代。後者を受け取るわけにはいかない。銀貨一枚というはした金で、姉を玩具に堕とすわけにはいないのだ。
「僕らは本当に人間じゃないのかな? それとも人間なのかな? 知りたいんだ。知らなきゃいけないんだ。だからさ」
アルは戸を閉める。中には姉と二人っきり。なつかしの家族、二人ぼっちの小屋。隙間だらけの壁、粗末な食卓、そしていつも二人で眠った狭いベッドに姉を優しく寝かせた。
「見ていてねえさん」
そしてアルはおもむろに口を開き――
「僕の中で」
アルは初めての業(カルマ)を背負う。
○
「アル!?」
アルの家が燃えていた。火が轟々と立ち上り、ちっぽけな小屋など容易く飲み込んでいく。すべての思い出を灰燼にする。
「カイルか? そんな大声を出すなよ」
カイルが声のしたほうに視線を移すと、ぱっと見見知らぬ男が立っていた。炎に映える美しい白亜の髪、怖気のするほど美しい少年がそこに立つ。
「アル、なのか?」
おそるおそるカイルは問う。くすくす笑う少年。
「当たり前だろ? 変なカイルだなあ」
カイルは震えていた。何が起きたか、カイルは大体理解している。後ろについてきたファヴェーラがギルドのルートで仕入れた情報、ヴラド伯爵の悪癖によりまたひとつ奴隷が殺された。それは黒髪の美しい奴隷であったということを。姉が死んだのだ。アルにとって間違いなく最愛であるはずの姉が、なのに――
「ファヴェーラも久しぶり。最近忙しくて会えなかったからさびしかったよ」
なのにアルは恐ろしいほど普段通りなのだ。平静を保っている。否、保っているのではない。平静なのだ。一切の揺らぎなく、アルはそこにいる。
「そろそろね。住む場所を変えようと思ってたんだ。ほら、一応そこそこ金はあるしさ」
だから燃やしたのだと言わんばかり。平静だが、間違いなく狂っている。
「やりたいことが出来たんだ。それにはさ、今のままじゃ駄目なんだ。もっと知識が要る。もっと力が要る。子どものままじゃ駄目だ。だから、ね」
アルは自身の家、燃ゆるそれを見る。
「バイバイしなきゃ。そうでしょ、ねえさん?」
アルは自身のお腹をさすった。まるで中に何かがいるかのように。その仕草をカイルはぎょっとして見ていた。カイルもファヴェーラも問えない。姉の死体を、何処へやったのか、を。それが想像通りであったなら、なんと言う常軌を逸した行動なのだろうか。
「やりたいことってのは……なんなんだ?」
カイルが搾り出した問い。それに対しアルはにっこりと無邪気な笑みを浮かべた。
アルは白い髪をたなびかせ、炎を、生家を、思い出を背に宣言する。
「上を目指す。僕が、いや、俺たちが人間なのかを知るために!」
炎が高らかに燃え上がる。カイルは知った、もうあの頃のアルは死んだのだ、と。姉譲りの黒髪が似合う優しき少年は死んだのだ、と。今此処にいるアルは――
『白の復讐者』である。
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