「白い布団」
康 忠功
白い布団
「白い布団」
青年は白い布団で寝ていた。家には彼一人しかいない。時刻はもう九時である。青年は高校三年になるから、この時間に寝息をたてて掛け布団を羽織っているのは、想定外であった。
青年は目を覚ました。スマホを取り、時間を見ると、気分が落ちた。青年は歯を磨き、シャツを羽織り、長ズボン履いた。欠伸をしながらドアを開けると、冷たい風に撫でられ凍えた。木から紅葉が落ちている。
青年は頭がかなり良かったが、あまり勉強に時間を費やさないので、それなりの成績を残していた。しかし絵の才能は凄まじく、大きな賞で優勝したこともあった。親も教師も、誰もが青年の才能を認めていた。
一年前、青年は坂本という女性にたまらなく焦がれていた。自分の全てを投げ打ってしまってもいいような、究極的な恋愛である。しかしそれはいつまでも報われなかった。
当時、純粋な気持ちだけで、人は振り向かすことができないと青年は考えた。しかし周りの人間は、あまりに呆気なく人を振り向かせ、幸せになっている。何故自分だけそうならないのか。青年は、それを自分の腹のうちに飼っている限りない執着心の為だと直感した。この魔物故に、自分は女性に恐れられるのだと考えたのである。魔物は青年にとって良くもあった。その性格が絵画の才能を昇華させたことを、青年は知っていたのである。これらのバランスは、他人と自分との幸福的均衡を保たせた。天は二物を与えずという言葉は、青年のセンチメンタルを安心させたのである。
しかし、現在、青年には貞淑な恋人がいた。つまり青年は現在、何一つ具体的な悩みを持っていなかった。青年には全くの不幸がなかったのである。
学校が終わり、下駄箱で彼女を待っていた。騒がしい集団や、物静かな女も、みんな入り口を開けて外に出て行った。私だけが、ただじっと入り口前に立っていた。すると不意に、肩を軽く触れられた。
「ごめん先生に呼ばれちゃって」
彼女が言った。
「あぁ」
「今日遅刻したんでしょ。珍しいね」
「お陰で注意された。気をつけないと」
ドアを開けると、やはり寒かった。
「先生となに話してたの?」
「進路のこと」
「どこにしたんだっけ」
「芸大。これからまた頑張らなくちゃ、勉強とか、絵とか」
「そっか」
「ならいいんだけどさ」
校門をくぐると道は紅葉に散りばめられていた。女が言った。
「実はさ」
「うん」
「私単位やばくて、卒業やばいかも」
「単位って、中間テストの成績悪かったの?」
「テストはまぁまぁだったけど、最近遅刻が多くて」
「あぁ。俺も人のこと言えないな」
「そうだね」
落ち葉を踏みながら、だらだら話していた。
一週間後、再び青年は寝坊した。スマホを見ると九時半であった。青年は焦った。この日は彼女と一緒に登校しようと約束していたのである。もちろんスマホは彼女からの連絡で埋め尽くされていた。青ざめて、電話をかけようとしたが、授業中だったのではばかった。
青年は深くため息をついた。寝坊したなら仕方あるまいと、だらだらと仕度をした。
シャツを着ながら青年は何かぼんやり、忘れてはいけなかったようなことを思い出そうとしていた。恐らくそれはさっき見た夢である。どうしても思い出せないので、思い出そうとしていたことすら忘れ、学校に向かった。
放課後、彼女はとても怒っていた。しかも遅刻のせいで提出期限であったプリントが出せなかった。青年の方も単位の危機迫っていた。
その三日後、青年はまた寝坊した。スマホを見ると九時だった。その日も彼女と約束をしていたから、もちろん連絡で埋め尽くされていた。
しかし青年は青ざめなかった。青年の意識は、さっき夢に現れた、坂本に完全に囚われていた。最早忘れかけていた、あの最愛だった坂本である。
なにやら白い部屋で、雲に座った坂本は、笑いながら話しかけてくるのである。青年もまた笑いながら喋っていた。そして、坂本の手が青年の手を触れようとするとき、トビュッシーの「月の光」が鳴り響いた。触れる直前、月の光はこれ以上ないくらい大きくなった。そのとき、青年は目を開けた。
起きてしばらくその夢が頭に渦巻いた。静かな部屋な部屋に一人、空を飛ぶ飛行機が静寂を強調していた。青年は戦慄していた。
青年はなんて目覚めの悪い朝だと思った。だが、その意識とは裏腹に感情は高揚していた。むしろ、久し振りの興奮に、鼓動は早くなり、体は覚醒していた。この違和感はなんなのかと考えながら学校へ向かった。その時、間違えなく青年は充実していた。
それから青年は、二日連続で学校に遅刻した。夢に坂本は現れなかったが、心地よい眠り、まどろみに屈服した。どちらも四時間目まで出席してなかったため、先生から注意を受けた。それにも関わらず、その三日後には学校を欠席してしまった。それからしばらく遅刻癖が続いた。
すっかりと葉は落ちてしまった。寒い中、二人はマフラーとコートを羽織り、道を歩いていた。
「テスト勉強どう?」彼女が言った。
「ぼちぼち」
「ふーん」
沈黙が流れた。
「何かあった?」
「いや、別にないよ」
「嘘でしょ」
「違うって」
「でも本当にそろそろまずくない?」
「俺もどうにかしないといけないと思ってる」
「ちゃんときなよ」
「どうすればいいんだろう」
「でもわかるよ。先生はとにかく来い、来い。って言うけど、実際来ようと思って来れたら苦労しないよね。だから私は色々実践してなおした」
「どんなことしたの?」
「例えば夜早く寝たり。寝る二時間前までにご飯食べなかったり。寝る前スマホいじらなかったり。朝起きた時とりあえず光を浴びたり」
「色々あるんだね」
「あるよ。だから調べて色々やってみなよ。きっと治るから」
それから青年は奮闘した。起きたとき、体と瞼が重いと、必ずまた寝てしまうから、毎日十時に規則正しく寝て、夜飯を早めに食べ、朝光を浴びることを心がけた。最初のうちは改善されず、学校に行けば先生に叱られた。「頑張っているんです」と言うと、「頑張っているなら、来ればいいじゃないか」と言われた。折れそうになり、二度寝しそうな日には、彼女が電話をかけてきてくれて、なんとか起きれた。起きれない日もあった。だが、着々と遅刻癖は改善されていた。
とうとうほとんど改善された頃、期末テストがすぐ近かった。青年の受験を左右するテストだった。
帰り、彼女と信号を待っていた。放課後から二人でテスト勉強をしていたため、陽は落ちそうである。夕暮れは枯れ木を照らし、赤く染めた。
「もう明日か」
彼女が言った。
「そうだね」
「高校最後のテストじゃない?」
「たしかに」
「そう考えると、高校生活あっという間だったなぁ」
「まだ卒業は早いんじゃない」
「すぐだよ。ねぇねぇ」
「ん?」
「高校生活楽しかった?」
青年は言葉が一瞬出なかった。しかし、そう言えと言わんばかりの女の笑みが陽に照らされているので、思わず咄嗟に口にした。
「楽しかったよ」
「私も楽しかったよ」
そう言って彼女は青年の手を繋いだ。
「大学行っても遊ぼうね」
「うん」
「浮気したらダメだからね」
「うん」
「ずっと一緒だよ」
「うん」
最寄りの駅に着いた。ホームに降りるとすぐ、電車が来るアナウンスが鳴った。
「あ、もう来ちゃった。じゃあまた明日ね」
「さよなら」
そう言って彼女は電車に乗り込んだ。電車が動いても、彼女はドア越しに青年に手を振った。青年は微笑しながら振り返した。見えなくなると、青年はただぼーっと、電車を待った。
青年はいつものように、早く飯を食べ、風呂に入った。暗い部屋で、万全に就寝した。時刻は十時だった。
たくさんの人がいた。木のテラスから、すぐ先の湖に浮かぶ船を見ていた。船は絢爛な光を灯し、ゆっくりと右へ向かっていた。あたりが暗いので、光は一層煌めいた。喧騒に汽笛が混じる。船からひとり、飛び降りた。それをただじっと眺めていると、不意に、肩を軽く触れられた。
振り返ると、坂本がいた。
「素敵だね」
そういって彼女は青年の手を繋いだ。
手は、その温かみに溶けた。触れる肩の感触は、この世の何よりも柔らかい気がした。
青年は揚々と話した。
「ここは有名な場所でね、昔お父さんと来たことあるんだけど、やっぱり今見ても綺麗だ」
「そうなんだ」
雑踏がこだまする中、坂本の声だけが鮮明に浮いている。その声は甘く、青年を鼓膜から胸の方にかけて撫でた。
そのとき、月の光が流れた。それはひっそりとフェードインし、徐々に音量を上げた。辺りはだんだん明るくなった。白くなるにつれ、音は更に大きくなり、坂本も大きくなっていった。そのとき青年は、それが夢であることに気づいた。しかし夢は終わらない。音楽はさらに大きくなった。あの時と比べ物にならない程の爆音だった。そのとき、ひどい頭痛が青年を襲った。青年はこの夢が終わってしまう気がした。どうにか終われせたくないから、青年は必至に頭の痛みに耐えた。それを優しく見つめる、大きくなった坂本は、青年に手を回し、愛してると言った。
その時、青年は目を開けた。スマホを見ると、時刻は八時である。遅刻だが、急げばテストには間に合う時間だった。ラインには彼女から万が一送れないようにと連絡がたくさん来ていた。青年は、心地の良い、幸福感に溢れた、あの幻想の世界と、車の走行音だけが外から聞こえる、ただ静かな暗いこの部屋とのギャップに困惑した。そこにはただ布団があり、ただ机があり、ただスマホがあった。
青年は白い布団を羽織った。再び目を閉じ、静かに眠った。
「白い布団」 康 忠功 @yasutadakatu
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