065 悪魔1-5


      3


 花園が悪魔を呼び出したのは今から一年程前。その頃の彼女は養成所を出たばかりの駆け出し声優だった。


 自分で言うのもなんだが才能はあった方だと思う。養成所での成績は良かったし、その後の事務所にだって「預かり」ではなく「所属」として入社する事ができた。


 簡単に言ってしまえば「預かり」がバイトで「所属」が正社員だ。


 所属になれば事務所から色々なバックアップを受けられる。マネージャーもつくし、良いこと尽くめだ。預かりの方は十把一絡げの売れない声優たちで、けれどそれすらなれない声優志望、声優もどきもいるわけだから、一発で所属にまでなれた花園には確かな実力と、少しばかりの――しかし必須な――運もあったわけだ。


 彼女はそれまでの人生で挫折というものを味わった事がなかった。世界が自分の思う通りにトントン拍子に進んでいく。そんな気すらしていた。神様は私を愛しているなんて本気で思っていたのだ。


 思えば生まれたときから蝶よ花よと育てられた。裕福な家庭に生まれた花園は、それまで飢えというものを一度も感じた事はなかった。勉強もできた、運動もできた、容姿も抜群だった。そんな彼女が声優を目指したのは大した理由からではない。ただ子供の頃からアニメが好きで、気がついたら自分もアニメに関わる仕事をしてみたいと思っていたのだ。


 自分に絶対の自信を持つ花園は、気後れというものをしない。だから演技をするのも得意だった。どのような役柄も演じられた、それも堂々と。それは花園の天性であり、持たざるものには一生かかっても獲得できないものだ。


 しかしそれはあくまで、花園ミナという一個人のものであり、彼女は声優『花園ナナナ』ではなかった。彼女はあくまで自分を演じていただけであり、役になりきっていたわけではないのだ。


 それでも彼女はベルトコンベアーに乗せられたように声優としてのキャリアを歩む。二本ほど木っ端の役でアニメに出演した後、初めて主役級の役を勝ち取った。一応はオーディションで、という事になっていたがそれは出来レースで、事務所の根回しがあった。


 それでも花園は自分に与えられた役割であるから、全力で演技をした。


 しかし結果は、さんざんだった。


 彼女の演技には底があって、そこにあっさりと到達した。当然だ、極限まで言えば彼女は自分の素を、少し声色を変えて発信しているに過ぎないのだから。


 音響監督には怒られた。


「そういうのじゃないって、何回言ったら分かるんだ!」


 ネットでは叩かれた。


「なんか原作と雰囲気違うんだよね。確かに演技は上手いんだろうけどさ」


 同僚には慰めるフリをして貶された。


「ミナちゃん、まだ若いから大丈夫だって。みんな最初は下手なんだから」


 プライドの高い彼女はその言葉を聞いて怒り狂った。しかしどうすることもできはしない。袋小路。今まで積み上げてきた自信が見事に瓦解した。


 そうなってしまえば、自分が持っていたと思っていた黄金でさえ、石ころに変わっていた。


 ――私は天才じゃないし、神様にも愛されていない。つまらない人間だ、死んだほうがマシだわ。


 花園はそんな事ばかりを考えていた。


 そんなある日、彼女はたまたま通りかかったガード下で老婆に呼び止められた。


 ひと目見た時占い師かと思った。わざとらしいフードつきのローブを着て、腕には古めかしいブレスレットを無数に巻いてる。その老婆が手招きしている。その手は干からびたミイラのよう。


「ちょっと、ちょっとお嬢さん」


 うんざりしながら花園はその老婆に近づいた。


 いつもならば無視するが、今の彼女は捨て鉢で、占いをしてみるのも面白そうだわと思っていた。それで嫌な事を言われたら、全部やめちゃいましょう、とも。


「可愛らしいお嬢さんだねぇ」


 と、老婆はしわがれた声で言った。


「どうも」


「お嬢さんにこれをやろう」 


 老婆はフードをとった。そしてあらわになった顔を見て花園はぎょっとした。左右で目の大きさが違う醜い女だったのだ。


 どうやら占いをしているわけではなさそうだが、呪いの物品か何かを売っている店のようだ。いかにも怪しい、眉唾ものだ。


 老婆が花園に渡したのは一冊の本だった。表紙には見たことのない文字が書いてある。


「それはね、『――の鍵』だよ」


 老婆はそう言ってニヤリと笑った。


「なんなの、この本。白紙じゃない」


「ええ、ええ。時が来れば読めるようになりますよ」


「ふうん。それで、いくら?」


「もちろん差し上げます。お代は結構ですので」


 いきなり白紙の分厚い本を渡されて、これは無料ですだなんていかにも怪しい。普通ならば受け取りはしない。けれどこの本には異常な魅力があった。まるで花園の事を呼んでいるような、自分がこの本の正当な持ち主であるとすら、思ったのであった。


「この本はグリモワール。悪魔を召喚するための儀典です。いずれ時が来れば、かならずこの本は貴方のためにページを開かせるでしょう。そうすればお嬢さんの願いが叶いますよ」


「素敵ね」


 花園はグリモワールを受け取り、家に持ち帰った。


 開いていみてもやはり本は白紙のままだったが。


 それからというもの、花園は嫌な事があるごとにグリモワールを開いてみた。悪魔が出てきて自分の願いを叶えてくれる。花園にとって本を開く行為は、一種のおまじないのようなものだった。本を開くだけで心が落ち着いた。


 そのうちに彼女は自分が悪魔を召喚する本などというものを本気で頼り期待し拠り所にしている事に気がついた。本当に悪魔を召喚する事を願っていたのだ。


 彼女の演技はますます他人から酷評されていた。


 ――上手いけど、心がこもっていない。


 そんな事を他人によく言われた。


 心ってなに? 花園は自分なりに全力でやっている。心だってちゃんと込めているつもりだ。けれど誰からも認められない。


 もう花園は自分の力では状況を打破することができなかった。だから他人を頼るしか無かった。そしてある時、本は花園にその内容を読ませた。


 白紙だったページに、文字が浮かび上がったのだ。


 そこに浮かんだ文字は日本語ではない、が、当然のように読む事ができた。


 そして花園は悪魔を召喚する事に決めた。

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