005 退魔師5
百合人はとぼとぼと歩いていく。行先などない。知らない町、たった独り。
ふと気がつくと、周囲はすっかり暗くなっていた。まるで夕方というものがすっぽり抜けてしまったかのようだ。町は暗幕を落とした舞台のように暗くなった。
その暗くなった町で煌々と輝く看板が目に入った。最初、居酒屋かなにかかと思ったその看板だが、『ミルクホール』という文字を見てそれが喫茶店だとわかった。店名は〈サライエボ〉だった。
フウカの家だ。そう気がついて、百合人は喫茶店に入ってみようと思った。
アーチ状の門をくぐると、急な階段になっていた。下の階層は駐車場になっており、三台くらいなら車が停められそうだ。今も軽自動車が一台停まっている。
階段を登りきると扉がある。それを開くと、風鈴のような清らかな音がした。扉にくくりつけられた鈴だった。
「いらっしゃいませ……あら、ヤマネさん」
フウカはカウンターの向こう側で、コーヒーカップを拭いていた。
「来てくれたんですね、どうぞ」
カウンター席にうながされて、百合人はフウカの斜め前に座った。真正面に座るのは何だか恥ずかしかった。
「たまたま見かけたから」
良い訳のように言って、百合人はメニュー表を開いた。
店内には四人がけのボックス席が三つと、カウンターの前に椅子が五つあった。百合人の他に、一人だけ男の客がいる。その男は一番奥のボックス席で、パンケーキを食べているようだった。
なにげなく眺めていると男は飲んでいた瓶コーラを平気な顔をしてパンケーキにかけた。メープルシロップじゃあるまいし、と百合人は目を丸くする。
男はコーラでベタベタにひたされたパンケーキを満足そうに眺めると、四等分に切り分けて、一切れをまるまる口に入れた。
変な人もいるものだ。百合人は気を取り直して自分はなにを頼もうかと考える。
「オススメはパンケーキなんですよ」
「そっか。いや、でも僕はいらないな」
男の食べているパンケーキを見ていると、食欲が失われた。そうか、あれがクラスメイトの言っていた変な客か、と納得した。
「とりあえず、コーヒーでも」
「インスタントですけど、良いインスタントですよ。ホットがいいですか、アイスがいいですか?」
「アイスで」
店内には夕方の地元FMラジオが流れていた。物悲しい声で喋るパーソナリティが頭痛の話をしている。今、頭痛なのだ。そのせいで歯も痛く、眠れない。逆かもしれない。
さすがインスタントコーヒーというわけか、フウカはすぐにコーヒーを出してきた。
「どうぞ」と言われて、ありがとうと受け取る。
今日出会ったばかりのクラスメイトに飲み物を受け取るのは、なんだか不思議な気分だった。
コーヒーは六角形のコップに入っている。周りには水滴一つついていない。
「ストローいりますか?」
「ううん、いらない」
なんだかカウンターの向こう側に見えるフウカがとても大人びて見えた。もともと綺麗な女の子だと思っていたし、今は店内の少し薄暗い場所で見るからか、何だか妖艶にすら思える。ふふふ、とフウカが上品に笑うたびに、胸がしめつけられるような気持ちになる。
これが恋なのだろうか、と思い、その熱い気持ちを冷ますためにコーヒーを飲もうとした。
だが、突然コップの中に何かが入ってきて、ポチャンと音がした。――真っ白い角砂糖だ。
「コーヒーは少し苦いくらいが良い、そうだろ?」
いつの間にか、隣から唯一の客だった男が百合人の顔を覗き込んでいた。
涼し気な雰囲気をした男だ。だが、その顔に表情はなくどこかマネキンじみた恐ろしさがある。美形であることは間違いないのだが、つくりもの臭いというべきか、生気というものが感じられなかった。
「あ、はい」
百合人は驚いて、とっさに頷く。
「そうだろう、俺もそう思う」
男はポチャン、ポチャン、と角砂糖をさらに二つ入れた。
なにをしてくれるんだ、この男は。百合人は甘党をはるかに越えた男を戸惑いながら眺めていた。怒ろうにも男があきらかに年上であるから、強気にはでられなかった。
そこで、ふと気がつく。目の前の男の髪はずぶ濡れのカラスみたいな黒髪だが、その天辺だけが誰にも踏み荒らされていない新雪のように真っ白だった。
百合人はその男を覚えていた。初めてこの腑卵町に来たときによったコンビニで見たあの男だった。
「もう、ヨシカゲさんったら辞めてください。ごめんなさいね、ヤマネさん。今あたらしいのを淹れますから」
「え、いや……これでもいいよ」
「そう言うなよ、新しいのをもらえるって言うじゃないか」
「他人事だと思って、ちゃんとお金をいただきますからね」
男はふん、と肩をすくめて、もとは百合人のものだったコーヒーをのんだ。
なにを思っているのか分からない男が、隣のカウンター席に腰を下ろした。男が先程までいた席をみれば、あのグロテスクなパンケーキのコーラひたしは綺麗サッパリなくなっていた。
「それで、こいつがそうか?」
男がフウカに意味深なことを聞いた。
「はい、そうですよ。さっき話した――」
「ガキだな」
それが自分のことを言っていると気がついて、百合人はムッとした。
「当たり前じゃないですか、わたしと同い年なんですから」
そうは言うが、謙遜にしか思えない。フウカは百合人より一回りも大人に見える。
「それで、お前。甘いものは好きか?」
「いや、嫌いじゃないですけど。そこまで好きでもないですよ」
男の黒と白の髪が揺れた。
「俺は麻倉ヨシカゲだ。お前は?」
「ヤマネ百合人です」
「ゆりんど?」
ヨシカゲが首をかしげて、呆けたように天井を見上げた。そして、ふっと口元だけ曲げた。それが笑っているのだということに、百合人は気づいた。
「ゆりんどか、ゆりんど。面白い名前だな」
「そうですか、ありがとうございます」
百合人の言葉尻が、苛立ちによりつり上がった。
それをいなすように、ヨシカゲは涼し気な顔をして視線をはずした。
「はい、どうぞ」
フウカが変えのコーヒーを差し出してきた。
「ありがとう」
百合人はそれを、大人ぶるつもりでブラックのまま飲んだ。口に合わない苦味を感じて、百合人は正直なところ砂糖の一つでも入れたかったが、まるでヨシカゲに対抗するように頑なにブラックにこだわった。
「世の中には数奇な運命をたどる人間もいる」
ヨシカゲはまるで独り言のようにそう言い放つ。
「どういう意味ですか?」
「この町は、同じだ」
さらに意味が分からなくなり、百合人は首を傾げる。フウカはどうでも良さそうに食器の後片付けをしはじめた。
「腑卵町は数奇な町だ。そういう場所は多くない。だが、世の中には確実にある。そうだな、流れる川の水が、渓谷の谷間の奥まった場所で汚らしいゴミをためるように、悪いものを溜め込んでしまう場所というのがある。そしてこの町は、そんな場所の中でとりわけ酷い」
「嫌な町ってことですか?」
「嫌って訳じゃない。ただ、ダメなんだ。どれだけ良くしようとしても、ここは酷い町だ。ところでお前、影になにか入っているな――」
「やっぱりですか?」口を挟んだのはフウカだ。「少し、変な臭いがしたものですから」
臭い――それは学校でもフウカに言われたことだ。
気にはなったが自分の臭いなどかげるはずもなく、そのままにしたのだ。
「ああ、臭うな。ぷんぷん臭う。お前の影は濃すぎる。この町の人間は影が薄いからな、最初は越してきたと言うからそれでだろうと思ったが、どうやら違うようだな」
「いったい何の話をしてるんですか」
「さあ、なんの話だろうな」
はぐらかすように、ヨシカゲは鼻で笑った。
「もう、ヨシカゲさん。ふざけないで説明してあげてください」
「俺がか? 別にいいだろう、本人も困ってないようだし」
「そんなことないですよ、ねえヤマネさん」
百合人はなんの話か分からないので答えらない。
それよりも、二人の仲の良さに嫉妬した。
二人の関係はまさしくツーカーだった。まるで二人の夫婦のような掛け合いのような二人の会話の中で、自分だけが阻害されている。そう百合人は思った。
「そんなことあるってさ」
「もう、ヨシカゲさんったら! 悪い癖ですよ」
ヨシカゲは甘そうなコーヒーをごくごくと飲みほすと、沈殿した砂糖をながめた。それを見て、フウカがパフェ用の細長いスプーンを手早くカウンターにおく。ヨシカゲは底にたまった砂糖をすくい、なめだした。
「糖尿病になりますよ」
「そんなこっちゃあ死なねえよ」
「死ぬよりつらいですよ、体が腐りますよ」
「脳が腐るよりはマシだな」
「はいはい。ああ、ヤマネさんも何か食べますか?」
これだ、このとってつけたような優しい気のつかいかた。これこそが、百合人がこの場で邪魔者であるということを何より示しているように感じられた。
「いや、いいよ。もう帰る」
帰る場所などあるのだろうか?
「どこに?」
まるでその自問を見透かしたように、ヨシカゲがきいてきた。
「どこだっていいだろ!」
百合人はいきなりキレた。それはどうしようもない程の怒りだった。
だが、叫んでからしまったと百合人は一気に冷静になって思った。気になる女性の前で、取り乱してしまった。そして、その自分をフウカは驚いたような顔で見ている。
「たしかに、そうだな」
だが、ヨシカゲだけは腹立たしいほど冷静だった。
まるで春の陽気にサクラを散らす風がふいたとでもいうような、無関心とも違う、当たり前の事象を体験したとでも言うような様子だった。
「悪いけど僕は帰らせてもらうよ!」
百合人は苦いコーヒーをこれまた苦い顔をして全て飲み、薄暗い店内で立ち上がった。
「あぁ、それじゃあな」
まるで旧知の友のようにヨシカゲが手を上げた。それがまた苛立った。だが、今度は怒鳴らずに済んだ。そのかわり、叩きつけるようにコーヒーの代金を置き、店のドアを乱暴に開けて、外に飛び出した。
自分はどこに行っても一人だ。
百合人の頭の中をそんな盲信が支配した。
その瞬間、彼の影がちらちらと燃え盛る炎のように揺れた。それを見たものは、誰もいなかった。
家に帰ると、祖父はもう床に入っていた。
老人の寝る時間は早い。
噂には聞いていたが、どうやら本当だったようだ。時刻は八時を少し回った所。まだ目を瞑るにはもったいない時間だ。
百合人は一人で食事をとった。あっちにいた時もこうだった。冷たい食卓、冷え切った父との関係。ただ、目を細めて一人だというのにイヤフォンをつけて音楽をきいていた。
ここでも同じだ。どこに行ったって同じだ。自分はどこにも行けないのだ。百合人の盲信はますます確固たるものになっていった。
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