003 退魔師3
結局その日、百合人に話しかけてきたクラスメイトは数人だった。そのどれもが距離を置いたもので、百合人の方も引っ込み思案な性格であるからこちらから話しかけることもできなかった。
まともに会話をしたのは隣の席のフウカだ。
「ねえ、ヤマネさん」
ヤマネさんと呼ばれて、百合人は少しむず痒く思った。今まで百合人か、あだ名のユリとしか呼ばれてこなかったからだ。それがある程度バカにしたニュアンスを含んだものであったとしても、百合人にとっては慣れ親しんだ愛称だった。
それでも、名前をバカにされるのは嫌だったのだが。
「なに?」
「わたしの家、喫茶店をやってるの」
いきなりなんの話をするのかと思った。授業は六時間目まで終わり、後は帰りのホームルームを終えれば帰るだけ、という時間だ。
「はあ、それで?」
「こんど、来てみるといいわ。きっと力になれると思うの」
ねっとりとしたフウカの声に、百合人は照れたように頬を染めた。どこからどう見ても同い年のはずなのに、フウカは一回りも二回りも年上に思えた。
「どこにあるの?」
百合人はこの隣の席の不思議な少女に惹かれていた。
まさか喫茶店に来てほしいというのがデートのお誘いとは思わなかったが、それでも初手対面から今までの感触は悪くないのだと、そう予想した。
「ここからすぐ近くですよ。『サライエボ』って名前なんです」
「『サライエボ』」
オウム返しに百合人は店名を復唱する。フウカはよくできました、とでもいうように目を細めて、その中学二年生にしてはあまりにも大きな胸の前で小さく拍手をした。
何だかバカにされている気もしたが、不思議と腹は立たなかった。これは最近の百合人には珍しいことだった。ここのところ百合人は箸が転がっても怒りだすというような様子だったのだ。
フウカには不思議な、人を癒やす力があるようだった。
「コーヒーは微妙なんですけど、パンケーキには自信があるんですよ」
「自信があるんだ」
「ふふふ、パンケーキをつくるのはわたしの仕事なんですよ」
「コーヒーは作らないの?」
フウカはわざとらしく辺りを見回して、声のトーンを落とした。
「実は、インスタントなんです」
クスリとフウカは笑って、来てくださいねと話をしめた。
百合人は絶対に行こう、と心の中で決意したが、「まあ、暇だったらね」と格好をつけた。それはまるっきり無意味な格好つけで、しかもフウカには見抜かれている。百合人はそれでも意地を通し続けて、それからフウカの方には目も向けなかった。
教室に担任が入ってくる。帰りのホームルームが始まり、あれよあれよと言う間に終わる。
横目でフウカを見ていると、彼女は友人と楽しそうに談話をしていた。
「ええ、今日はお仕事なの。来る?」
「えー、嫌だよー。だってあそこ、変な人いるじゃん」
「うんうん」
「もうっ、いないわよ、そんな人」
二人の友人は年相応に幼い。それと比べてフウカはやはり大人びて見えた。
「でもあの人、ちょっと格好いいよね」
「あ、それ分かる!」
「ちょっと近寄りがたい雰囲気でさあ」
「そうそう、あの人常連さんなんでしょ」
「さあ、いったい誰のことでしょうか。あ、もう行かないと。じゃあね」
「「じゃあねー」」
小走りでフウカは教室を出ていく。残った二人の女子は常連だとかいう男の話をしている。
さて、そろそろ自分も帰ろうか。百合人が席を立ったとき、露骨に後ろからぶつかられた。
「いってぇ、なんだテメエ」
「いや、なんだって。そっちがぶつかってきたんじゃないか」
ぶつかってきた男は、百合人よりも一回り体格が大きかった。その後ろには二人、脂ぎったデブと下品な笑いを浮かべたやせっぽっちのゴボウのような男がいた。
「あぁ? テメエ、転校生のクセに生意気だな」
「あ、ケンちゃんもしかしてやっちゃう?」
ケンちゃんと呼ばれた男はニヤニヤと笑いながら、大きな声で「弱い者いじめはしねえって」と言う。その言葉に取り巻きの二人が声を上げて笑う。
教室に残っていた生徒たちが百合人たちを見ていた。
だが、誰も何も言わない。
百合人は自分がバカにされているのに苛立ちを覚えた。百合人はあまり社交的な性格ではないし、背丈だって高いわけではない。今までバカにされることも何度かあった。だが、初対面の相手にこんな仕打ちを受ける理由が百合人には理解できなかった。
ケンちゃんと、その取り巻き共が笑いながら去っていこうとする。
人をバカにするだけバカにして、それで終わりというわけだ。
その瞬間、百合人の中で何かがキレた。
「おい、ちょっと待てよ」
ケンちゃんを呼び止めると、彼は「ああ?」と巻き舌で威嚇するように振り返った。
その瞬間――百合人の握りこぶしがケンちゃんの顔面に沈み込むように、ぶちあたった。
百合人が殴った直後から、教室は騒然となった。
女子生徒の悲鳴のような叫び声が上がる。取り巻きの二人はあたふたと目を点にさせて百合人を見ている。殴られたとうの本人は、その場に無様に尻もちをつき、驚愕した表情のまま顔面を痛そうに抑えている。
百合人は倒れたケンちゃんを蹴りつける。そのまま何度も執拗に蹴り続け、ケンちゃんは身を守る用に芋虫のように丸まっていく。周りにいる生徒はもちろん、取り巻きの二人さえ百合人の気迫に押されたのか、止めようとはしない。
ケンちゃんは何度か反撃しようとしてきたがその度に百合人に体のどかしら――それは主に急所に近い部分である――を殴られて、その内に動かなくなった。百合人は経験上よく知っている。こうして動かなくなった相手は、ただ嵐がすぎるのを待つか弱い羊と一緒なのだ。
こちらが飽きて殴るのをやめるまで、その場でカメになっているだけだ。それが分かっているからこそ、百合人はいつまでもケンちゃんを殴るをやめない。その内にそれが楽しくなっていく。
こういう人をバカにするような男は、一度痛い目にあうべきだ。百合人はそう思いながら、殴り続ける。人の痛みを知るにはまず自分が痛みを経験してみるのが手っ取り早い。
おそらく、この男はこれまで人をバカにするだけバカにして反撃されたことなんてなかったのだろう。典型的な小物だった。
教室から生徒たちが走って出ていく。おそらく教師を呼びに行ったのだろう。百合人はケンちゃんを蹴るのをやめて、自分のカバンを手早く机の横からとり、逃げた。
後ろも振り向かず、まだどこに何があるかも分からない校内を、出口めざして走る。
逃げた所でどうにもならないのは分かっていた。だが、百合人は今、不思議な高揚感につつまれて、楽しくて楽しくて仕方なく。スキップでもしそうなくらい軽やかに逃げていた。
人を殴るのは快感だった。
空は晴れわたり、海は同じ分だけ青く美しく、風は清澄で暖かくも涼しくもなく。素晴らしい日であると、百合人は体感していた。
だが、百合人がはたと足を止めたとき、それがまるっきり心象の天気であると実感した。
空が晴れわたり――? 見上げた空のどこからも日の光は降り注いでおらず、分厚い雲が一面を覆っている。今にも雨が降り出しそうなくらいだ。海なんてどこにも見えない。腑卵町は山に囲まれたくぼみのような町だ。風はため息のように生暖かい。
またやってしまった。
百合人はとぼとぼ帰り道を歩く。
この町では癇癪を起こさないようにと思っていたのに、転校初日にやってしまった。逃げたのも悪かった。良い訳ができる状況ではなかったが、せめてあの場で教師を待って弁解をしたほうが良かった。一応、最初にイジメを受けたのはこちらなのだから。情状酌量の余地はあったかもしれない。
だが、百合人の感情は百合人にすら制御できず、自分の中に生まれるマグマのような感情にただ突き動かされてしまうのだ。
「どうしよう……」
明日とは言わず、夜にでも教師が家にやってくるかもしれない。自分は祖父にも見捨てられ、児童厚生施設にでも入れられるかもしれない。いや、もしかしたら精神病院の方かもしれない。なんにせよ、大変なことになった。
手を見れば、そこにはケンちゃんの血が付着していた。服の裾にも血が飛び散っている。鼻から出たものだろうか、それとも口の中でも切って出たものだろうか。あるいは両方かもしれない。
百合人は家に帰りながら、どうすればいいのかと考えていた。だが、答えは当然でなかった。
百合人は自分がおかしくなったのだと実感していた。彼はもはや自分の意志とは関係なしに人を傷つけていた。まるで自分の中に、自分とは違う自分がいるような感覚が――。
足が重く、家に帰りたくなかった。
いや、そもそも自分には帰るべき家などどこにもないのだ。自分は孤児で、この曇り空の腐った卵のような町で、残飯をあさりながら生きていくような人間なのだ。それは悪い考えではないように思えた。やけっぱちの百合人は、自分が家を出て一人で暮らしていくことを想像した。
ホームレスのように公園に寝泊まりし、毎晩レストランの裏手のゴミ箱に入る廃棄物を漁る。盗みもやったらいい。そうして、人の迷惑になりながら生きていけばいい。
そんな想像をしていると、祖父の家についた。
百合人はなんと説明しようかと考えながら、呼び鈴を鳴らさずその家に入った。
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