2
ハツキ・サカサキは、ぼんやりと車窓の外を眺めていた。
先程まで入院した病院のVIP用個室でベッドで横になっていたが、荷造りした母親が急に飛び込んできたのだ。
今は母に連れ出され、病院の外で待っていたハイヤーの後部座席に並んで座っている。
大好きな母親、ミズキ・サカサキは行き先は告げなかった。
だが母親の横顔には、何か決然とした意志が秘められているのが小さな娘にも感じられた。
ハイヤーはマルドゥック市内を郊外へ向けて走っていた。
"目覚めた時の私は、今の私と同じなのかな・・・"
ハツキは窓の外を流れる景色を眺めながら、近いうち自分が受ける手術について考えを巡らせていた。
やがてハイヤーは市内を縦断する河へと差し掛かった。
河に掛かる鉄橋を走っていると、進行方向の橋の上部のトラスから何か黒いものが垂れ下がっているのにハツキは気付いた。
「・・・お母さん、あれ何?」
そちらに近づくにつれ、それが何なのか分かってきた。
それは逆さ吊りの人間だった。
ちょうどタロットカード占いの【吊るされた男】に良く似ている。
全身黒尽くめの逆さ吊りの男に母親も気が付いて悲鳴をあげた。
「運転手さん、逃げて!!」
運転手が反応するより速く、吊るされた男はワイヤーを外し、ハイヤーのボンネットに落下してきた。
運転手は急ブレーキをかけてハンドルを切った。
ハイヤーは歩道へと乗り上げ欄干にぶつかり停止した。
慌てて後部座席を振り返ると、母娘は固く抱き合っているのが見えた。
どうやら二人とも無事らしい。
運転手は膨らんだエアバックを押しのけると、周囲を確認するため車外へと出た。
ふと振り返ると、ハイヤーの屋根の上に降り立った吊るされた男の姿に気づいた。
黒尽くめの男は懐から平たい円形の物体を取り出した。
それはドーナツのように中心に穴が空いているが、外側は白い光を放つ鋭利な刃だった。
チャクラムと呼ばれる投擲武器だ。
吊るされた男は、その凶器を運転手に向かって恐ろしい速さで投げつける。
チャクラムは回転ノコギリのように高速で回転しながら運転手の顔に当たると、たやすく額を切り裂き後頭部から抜けていった。
運転手は一瞬びくん、と痙攣するとそのまま後方に倒れ絶命した。
路上に赤黒い血が広がっていく。
吊るされた男、黒い暗殺者はハイヤーの屋根から飛び降りると母娘が乗っている後部座席のドアに近づいてくる。
一部始終を見ていたミズキは覆い被さるように娘を抱きしめた。
男がドアノブに手を掛けようとした瞬間、コツコツと垂直のトラスの鋼鉄の柱を鳴らす足音が聞こえた。
暗殺者は動きを止めて、振り返った。
「承認まで、あと30秒・・・。これはその過程での偶発的な出来事に過ぎない。」
短く刈り込まれた銀髪の大男が、重力を無視してトラスの柱を垂直に歩いて降りてくるのが見えた。
黒い暗殺者は一瞬怯んだが、すぐさま懐からチャクラムを取り出すと大男に向けて投げ放った。
円形の刃は唸りをあげて飛んでいったが、大男に命中する寸前で、まるで磁石が反発するように急に進行方向を変えて見当はずれの方へと逸れていった。
大男は地面の近くまで来るとトラスを蹴って歩道に着地し、黒い暗殺者の方に近づいてくる。
深い水底のような暗い光を湛えた双眸が、暗殺者を見下ろした。
「承認まであと20秒・・・。抵抗しない方がいい。」
大男の警告を跳ね除けるように暗殺者は背中に差した剣を抜いた。
「承認まであと10秒」
大男が言い終わらないうちに暗殺者は斬りかかった。
即座に大男の戦車の砲身のような剛腕から拳打が放たれる。
鉄球のような拳は、暗殺者のこめかみに直撃した。
黒い暗殺者は吹き飛ばされ欄干に激突した。
「・・・ボイルド、まだ8秒早い!」
ミズキ・サカサキの左手首に嵌めた金色のブレスレットが声をあげた。
車内の二人は驚き、しゃべる
「・・・ボイルド、今のは違法だ」
母娘の視線は車外の戦闘より、喋るブレスレットに釘付けになっている。
「いや、武器は使用してない。偶発的に場に居合わせ、正当防衛したまでだ」
ボイルドと呼ばれた大男はブレスレットに応えるように呻いた。
だが黒い暗殺者は何事も無かったように立ち上がった。
「時間だ。
ボイルドはそう言うなり懐から大型のセミオートのハンドガンを取り出すと、暗殺者に向けて容赦なく撃ち始めた。
橋は四車線のため後続車が次々と通り過ぎていく。
「ボイルド、一般車両が近くを通ってる!その銃は火力が強すぎる」
「すでに一人死傷者が出ている。敵の装備は充分に強力だ」
ボイルドは倒れた運転手を指差すと空になったマガジンを捨て
しかし暗殺者は人間とは思えぬ動きで弾丸を紙一重で躱している。
ミズキ・サカサキはハツキの手を取ると車外へ出ようとした。
暗殺者が足止めを食っているうちに逃げようと考えたのだ。
再びブレスレットが声を発した。
「動かないで。すでにあなたのお嬢さん、ハツキ・サカサキは我々の保護対象として承認されている」
瞬間、ブレスレットはぐにゃり、と"
ブレスレットは金色の美しい毛並みの一匹のネズミに変わっていた。
なんとそのネズミはサスペンダーで吊り上げたズボンを履いて、二本足で立っている。
ハツキの表情がぱあっと明るくなった。
「かわいい!」
金色のネズミを両手で優しく包み込んだ。
赤い目が少し驚いたようにハツキを見上げている。
「かわいいと言われたのは初めてかも知れないな」
「ネズミさん、お名前は?」
ハツキが無邪気に聞いた。
「俺はウフコック・ペンティーノ。委任事件担当捜査官だ。マルドゥック・スクランブル-09により、君は保護対象として・・・」
ウフコックは言いかけたがハツキが急に顔に頬を押し付けてきてたので言葉が継げなかった。
「保護ってなに?」
ハツキは再び聞いた。
「君を守る、ということ・・・」
ウフコックは照れ臭そうに呟いた。
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