君の伝えたいこと

横本 優志

出会いは突然に

 いつも持ち歩いている猫のハンカチはすでに汗で濡れている。僕が背負っている学校指定のカバンにも背中の汗が染みてきている。夏も本番に入り、今日は猛暑日になるそうだ。熱中症で死ぬなどというが、死にたい人にとっては、何が原因だったとしても、死ねるならば本望だろう。しっかりとした理由があるならばなおさらだ。

 学校近くの並木道を歩いていると、四方八方からセミの叫び声が響いてくる。セミたちの声は、どこか生き急いでいるように聞こえてならない。そのセミたちを捕まえるために、小学三年生くらいの少年が虫取り網を振り回していた。少年の輝く目をみて、ため息をが漏れるのを我慢しながら、学校へ向かう足を速めた。


 校門の前でスマホを開くと花火の背景とともに七時二十五分が表示される。グラウンドからは野球部の暑苦しい掛け声が響いてくる。

 学校は九時始業のため、朝早い時間であれば校門から校舎に続く道にも人一人いない。しかし、時間ギリギリになると、この道は歩行者天国に早変わりする。自分だけのためにこの道があるような気がしてほおが緩む。

 昇降口でローファーを脱ぎ、カバンからシューズケースを出す。背中に「千葉」と書かれた真っ白なシューズをはき、代わりにローファーを閉じ込めた。

 無人の学校というものは不安になるが、どこか神聖な気がする。どこまでも続いていそうな廊下、さびれた空気、ひっそりと見える掲示物。異世界といっても過言ではないような空間の合間を縫い教室に向かう。一瞬しかできない異世界。喧騒が訪れたら砕け散ってしまうこの世界。そう思うとどこか儚げで、寂しい気分になる。

 教室の扉は現実への窓口だ。僕はそう思っている。ためらいを打ち払うように一思いに扉を開く。いつも通りだ。そう僕は安堵の息をこぼす。何も書かれていない黒板、乱れのない机。そして、窓際の一番後ろの席。ペットボトルに入った白い菊。カバンをひっかけると疎に席に近づき、白い菊を引っこ抜き教室の後ろにある花柄の花瓶に挿す。水が無くなってきていたので水を注ぎ足す。そうしているうちに続々とクラスメイトがやってくる。喧騒が迫ってきて少しイラつく。水を注ぎ足し終えると、予鈴が鳴るまでの間、現実から逃げるように読書に耽った。

 

 予鈴が鳴ると、担任の山崎先生が駆け込んでくる。たっぷり脂肪の乗ったおなかや脂ぎった顔を見ているだけで教室の温度が二度は上がった気がした。いや、下がったのかもしれない。そんなんだから五六にもなって独身なんだよ、とクラスメイトがはやし立てる。さらに、全く似合っていないいたずらっ子のような笑みが不快感を増幅させた。山崎先生は何かサプライズ的なものがあるときに、この背筋が凍るような笑みを浮かべる。

「今日は、生徒諸君に嬉しい嬉しいお知らせがあります」

 先ほど自分が入ってきた扉の方にちょいちょいと合図をする。

 途端に男子の声援が上がった。女子も複雑そうな、でも、悪印象は抱いていないような目を向けている。クラスの全員が黒板の前に立つ少女に注目した。

「成田空港の成田に、美しい鈴って書いて、成田美鈴といいます。札幌から来ました。まだ引っ越してきたばかりで右も左もわからないのですが、どうぞよろしくお願いします」

 のんびりした雰囲気を纏った、背の小さな成田美鈴という少女はぺこりと頭を下げた。ポニーテールが前に垂れる。野球部の平野がブラボーと言ったのを皮切りに巻き起こった拍手は、隣のクラスの田中先生がお叱りに来るまで鳴りやまなかった。成田美鈴も照れたような表情で人懐っこい笑顔を浮かべていた。そんな中、僕だけは、糸の切れた人形のように頬杖をついたまま固まっていた。

「席は……千葉の隣でいいか」

「……はい?」

 急に名前を呼ばれてはっと我に返る。注目を集めているのがわかる。そんな視線を気にしないように黒板の方に目を向けると、成田美鈴と目が合った。大きな黒目に吸い込まれそうになる。

 こくりとうなずくことしかできなかった。成田美鈴は笑顔になると荷物をもって速足でこちらに向かってきた。カバンをひっかけると隣の席に座る。

「成田は教科書も何もないはずだから、届くまでは千葉が見せてやれよな。あと、学校内の案内も任せた。以上」

 僕に有無も言わせず、山崎先生はそれだけ言うと教室を出ていった。それを確認すると、ある人は授業の準備をし、ある人はぺちゃくちゃと話し始めた。時間があまりないということもあってか、成田美鈴に話しかけるクラスメイトはいなかった。

「えっと……さきっも言ったけど成田美鈴です。少しの間、迷惑かけちゃうと思うけどよろしくね。名前、なんていうの?」

 突然、近くから声が聞こえたのでびっくりした。

「千葉……千葉慶大です」

 ぶっきらぼうに答えることしかできなかった。何でも聞いてなって言えてたら頼りがいのある人に見えたのだろうな、と思い自分の気の利かなさを呪う。

「そっか。千葉君ね。あらためてよろしくね」

 そんなことを気にしているとは知らずに、成田美鈴は右手を出してきた。周りの目もあり、どうしようかためらっていると無理矢理手を握られた。驚いた顔をしている僕を見て成田美鈴はいたずらっぽく笑った。

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