黒ドレスの女 ⑧
翌日の夜。二日酔いで頭痛が酷いのを我慢しながら、スラムとサイランの境付近でミステル・バリアンローグの馬車を待った。アンは墓守小屋で留守番だ。
ほどなくして、スラムの奥から不釣り合いなほどに豪華な馬車が一台走ってきた。確かめるまでもなく、御者台に座っているスマッシュの姿でそれは判る——ミステル・バリアンローグの馬車だ。
夜会に出るのだから普段と違って粧しこむのかと思いきや、スマッシュは普段通りのホットパンツにヘソ出しシャツと丈の短い上着を着ていた——いや、服のデザインこそ同じだが、いつもよりは上質そうな仕立ての物を着ていたが——。
あれが正装のつもりなのか……。
俺は墓地で行われる納骨式や葬儀に参加するときに着る、
一般的な正装といっても、前の世界のような
「よぅ、カネガ、なんだそのミノムシみたいな上着は。ちゃんと正装を用意して来たのか?」
「あぁ、もちろんだ。だが、俺よりもお前が正装していないように見えるが、それで行くのか?」
「はっ! それこそ“もちろん”だ。 カーン様は裸の上に衣を纏うのを好ましく思っておられない。戦の神の信徒として、この服装こそが正装なんだよ」
そう言い放ったスマッシュだったが、アンの話で聞いた“戦の神カーン”は決して裸族などではなかった。
「そ、そうか……」
自信満々に言い放ったスマッシュの根拠が判らなかったが、それを改めさせるのも面倒なので黙っておく。
「それじゃ、後は任せたぞ」
俺の前で馬車を止めたスマッシュは、御者台から飛び降りて
「はぁ〜い、カネガ」
「墓守が芋虫か、キマってるじゃないか、カネガ」
開かれたキャビンの中には、
「御者の真似事をする為の上着だ……夜会に潜入したら脱ぐさ」
「好きにするがいいさ。だが、それまでは御者として精一杯尽くしてくれ」
「よろしくぅ〜」
ミステル・バリアンローグは言うだけ言うと、あとはスマッシュへの出迎えのキスに夢中となり、ダリアもこちらへ招待状らしきカードを投げた後は、スマッシュの後ろから抱きついて首筋に吸い付くのに夢中だ。
「——はぁ」
それほど広くもないキャビンの中で絡み合う女どもをそれ以上見ている気にもなれず、溜息を溢しつつ少しだけ乱暴にキャビンの扉を閉めると、御者台に上がって二頭立ての馬の手綱を握った。
夜会が行われるザイドン・ラーゲンヘルツの別邸は、サイランの北繁華街とスラムの間に建っていた。
周囲に建物はなく、門番に招待状を見せて大きな門扉から続く道を馬車のまま入って行くと、いくつもの篝火が焚かれた広い庭園が見えてきた。
エントランスらしき表玄関に馬車を止めると、召使らしき男女が近づいてきた。
「招待状をお預かりします」
女の召使いに招待状を渡し、男の方はキャビンの扉を開けてミステル・バリアンローグたちをエスコートしている。
彼女たちの視線が俺に向くことはなかった。ただの御者などに興味を示す場面ではないのだから当然だ。
「主人を待たれるなら馬車はあちらに」
御者台から邸宅の中に入って行くミステル・バリアンローグたちの後ろ姿を見つめていると、男の召使いが馬車の待機場を教えてくれた。
男が指差す方に視線を向ければ、確かに
次の送迎馬車が後ろに来ているため、召使いたちも早く動き出してほしそうだ。
「行けっ」
手綱を振り、馬車を前進させる。向かった先の馬繋場では、馬とキャビンを分離して別々に待機するように指示を受けた。
両方ともザイドン・ラーゲンヘルツの私兵が預かってくれるらしい。主人が帰るまでの間、御者は庭で待機。
とはいえ、御者や同行して来た召使い向けに、軽食と暖かい飲み物程度のサービスはあるらしい。
同じ御者仲間として横柄な主人の愚痴を作り笑いを浮かべながら黙って聞くフリをしていると、夜会の始まるを告げる賑やかな音楽が聞こえて来た。
今頃はメイン会場で主宰のザイドン・ラーゲンヘルツが、グラスを片手に挨拶でもしている頃だろう。もしかしたら、珍しい来賓であるミステル・バリアンローグのことを紹介しているかもしれない。
だが、俺の目的は華やかな夜の宴ではなく。その地下で行われている数々の闇取引の方だ。
雑談に夢中になっている御者たちの輪から飲み物を取るフリをしながら離れて行き、篝火の明かりを避けるように庭園の闇へと紛れ込んだ。
ザイドン・ラーゲンヘルツの別邸は洋館風の二階建て。夜会は一階で行われており、二階は大人数の宴から少人数の——一対一のひと時を過ごす部屋になっているそうだ。
二階には夜会をサポートする給仕や召使いは上がってこない。闇取引でもなく、サイランの政治に関する密会や、男女の密会が夜な夜な行われている。
つまり、二階から侵入すれば余計な詮索を受けずに済むということだ。
別邸の裏手へ回り、まだ使われていない部屋を探し、使徒の身体能力を使って外壁をよじ登った後は、閉まっている木窓の
「まずは侵入成功か」
散々ミノムシだの芋虫だのと言われたポンチョを脱ぎ捨て、P226の残弾を確認してスライドを引く。初弾を
素知らぬ顔でまだ使われていない個室から廊下に出ると、まずは賑やかな音楽が聞こえる一階のメイン会場へ向かった。
夜会のメインは立食形式のビュッフェ——とはいえ、来賓たちが直接料理を取ることはない。給仕たちが運ぶ料理やお酒を自由に手にとり、立ち話を楽しみ、話が盛り上がれば用意された客席に座って歓談。
さらに親密になれば、二階へ上がってより深い会話を楽しむことになるのだが——今夜の夜会に限っては、新たな関係を築きたい相手はただ一人。
今夜の参加者たちはミステル・バリアンローグと関係を結ぼうと躍起だった。彼女と顔を繋ぐことに成功すれば、スラムだけでなく、サイランだけでもなく、神王国ベネトラに広く流通させる薬を手に入れられる。
“薬の神ドラグル”を信仰する者は数少ない。さらに言えば、薬学に関する深い知識と豊富な経験を積むのは容易いことではない。ミステル・バリアンローグがそれをどこで学んだのかは知らないが、代え難い人物であるのは間違いない。
俺から見れば信仰心よりも恋人との語らいに夢中なレズビアンにしか見えないのだが、ミステル・バリアンローグが調合する薬が一級品なのはよく判っているし、
そんな賑わいを傍目に、会場の奥にある地下へ通じる階段へ向かう。
場所は全てスマッシュに聞いてある、降りる手順もだ。
会場の奥に垂れ下がる幕の切れ目前に立つ屈強な男に、さりげなく、そして無言で通行料を握らせる。
男は一瞬だけ手渡された通行料に視線を向けて確認すると、幕を捲りあげて奥へ続く細い階段へ降りるように促した。
ここまではスマッシュの情報通り。
ミステル・バリアンローグはわざわざサイランの都市側で闇取引をする必要などない。地下に降りた経験はないのだ。ここから先は、自分の目で確認し、対応していかなければならない。
降りた先は上と比べて随分と薄暗い、小さな燭台に細いロウソクが等間隔に並んでいるが、顔を突き合わせなくては誰か判らないほどだ。
細い通路を歩いた先に、また屈強な男が立っていた。今度は通行料を払うことなく、逆に鼻から上を覆うマスクを手渡された。
これで顔を隠せってか——。
マスクを被り、奥にある垂れ幕をくぐって夜会の裏で行われている闇取引の地下会場へと入っていった。
地下会場も通路同様、近づかなければ顔が視認できないほどに薄暗く、さらに顔半分を覆うマスクを皆が着けているため、判るのは服装から察せられる性別と、売り手側と買い手側、そして意匠の違うマスクを着けてお酒と軽食を運んでいる給仕くらいなものだ。
ここで行われている闇取引のシステムは、現代の商談会を思わせる——地下会場は一階のメイン会場とは違い、木板なのか石壁なのかよく見えないが、パネルに似たものが何枚も立てられ、そこに売り手側が商品見本を並べて買い手と商談を行なっていた。
扱っているものは様々だ。貴金属や宝石を始め、
そして中には、生きている動物や人間が入った檻までもが置かれている。
ここに売り手として参加しているダダーリン兄弟を探しつつ、取引の会話に耳を傾ける——。
「素晴らしいな、これはライオリラの仔か?」
「さすがは深い見識をお持ちでございます。隣国より買い受け、密かにここまで運びました珍獣の仔でございます」
「見ろこの毛なみ、皮を剥ぎ取って冬用の上着にするもよし、中を抜いて剥製にするもよし、これほどのライオリラを飾っている者は、このサイランに誰一人おらんぞ」
興奮した様子で、檻の中で怒りを露わにする動物に醜悪な笑み浮かべている男の後ろを通り過ぎる。
檻の中の動物は、ライオンのように雄々しいたてがみを生やしながらも、ゴリラのように発達した筋肉を持っていた。
人を入れる檻よりも遥かに頑丈そうな太い鉄格子に閉じ込められ、鋭い歯牙を剥き出しにし、縦に割れた黄色い目は周囲の人間全てに憎悪を振りまいているのが判る。
すでに人よりも大きな体だが、あれでまだ仔なのか?
神世界フェティスに降り立って、初めて見たアルマジロのようなペルタ。馬や牛がいるから地球と同じように感じてしまうが、やはり別の世界なのだといやが応にも実感させられる。
「この指輪は?」
「“衰弱の神プロステン”様の
「いいわね……主じ——老人に贈るには、少しお洒落すぎるかしら?」
「いえいえ、蒼い貴石は長寿を願う幸福の石。長命長寿を願い、贈られるのがよろしいかと」
高齢者の遺産でも狙っているのか? むせるほどに強い香水の匂いと指輪に醜悪な笑みを浮かべる女から距離を取りたくなったが、指輪一つとっても使い道が興味深い。
「ぐふふっ、この娘は奴隷契約を結んでおるのか?」
「いいえ。“契約の神プーラン”様のお手を煩わせずとも、調教は済んでおります」
「ほぅ! では……いいのだな?」
「はい……どれだけ殴り蹴ろうとも、例えその四肢を切り落としたところで、この小娘は逃げも隠れもいたしません。この体、忠誠、そして命までもが全て、あなた様のものとなります」
「ほぉ〜!」
奴隷契約を結ぶと、奴隷商人は奴隷の死を感じ取る事ができる。売り手がなんども奴隷を死に追いやるような人物なら、不当な扱いや行為を受けていることは想像に難くない。
そのような相手に何度も奴隷を売るほど、奴隷商人は目先の契約を優先したりはしない。
嗜虐的性嗜好や趣味を相手に押し付けるなら、それ相応の相手を準備する必要があるということだ。
どの世界にも変態は存在し、変態相手の取引は非常に大きな利益を生む金儲けへと繋がる——どこか安堵感にも似た感情が湧き上がる。
サイランにこういった思想を持った人間が多数いることはある意味で収穫なのだが、今夜の目的はそんな調査ではない。
売り手を囲うどの集まりも似たような会話で溢れていたが、とある一画では複数人による価格交渉が静かな熱を上げていた。
「一粒あたり180万だそう」
「私は190万だす」
「すべて儂に売ってくれれば、単価をさらに1.2倍にしよう」
「いやいや、この石をよく見てくれ。紛れもない本物だ、もっと出そうってお人はいないのか?」
売り手が値をつり上げようとしているのは、小さな小指ほどの紅い石——紛れもなく、賢者の
ここだな——マスクを着けているせいで、手配書の人相と売り手の男を照らし合わせることはできそうもないが、賢者の
それに、このタイミングで希少な賢者の
だが、この囲みと地下会場からダダーリン兄弟を連れ出すことは容易じゃないし、奴らは三兄弟だ。席に座る二人が兄弟だったとして、あともう一人がどこにいるか——。
——だが、まずは二人の確保だな。
何かいい方法はないかと薄暗い地下会場を見渡すと、お
興味を失ったフリをしながらダダーリン兄弟のテーブルから離れ、薄暗い地下会場の配置をもう一度よく確認しておく。
会場の四隅や席のいたるところに、防犯用の監視らしき男たちが木偶の坊のように立っている。しかし、この薄暗さではさほど意味はあるまい。
いやむしろ——この夜会の下で行われている闇取引は、悪人たちによる悪の
誰か一人でも裏切れば、これほどオープンな闇取引は二度と行われないだろう。参加者全てが悪人であり、犯罪者であり、異端者であるからこそ成り立つ、ある意味で健全な取引。
だが俺は、悪人でもなければ善人でもない。言うなれば——金の亡者。
この闇取引会場も、上で行われている夜会も、俺にとっては何の価値も興味もない。
軽食のパンが置かれているサイドテーブルからナフキンを取り、明かりの陰になる部分へ移動してホルスターからP226を抜く。
そして、周囲から見えないようにナフキンを上に被せて隠す——P226は何年も使い続けた愛銃だ。
照準器など覗かなくとも、腰撃ちで弾がどこに飛ぶかは十分判っている。
非合法なルートで弾薬を手に入れ、群馬の山奥で撃ちまくった日々を思い出す。腰に肘をつけるように構え、体に覚えさせた高さと角度——あとは人影の動きを読み、トリガーを二連射。
サイレンサーで十分に減衰された発砲音は商談の喧騒によって完全に掻き消され、薄闇を飛翔する弾丸は吸い込まれるように猛獣の——ライオリラの檻の鍵を破壊した。
「あぁ、なんて可愛いライオリラなんだ。見ろよ、この黄色い目玉……あぁ、食べちゃ——あ?」
「ガァァー!!」
一人目の犠牲者はライオリラの檻の前に立つ買い手だった。檻の鍵が撃ち壊された瞬間、ライオリラの仔は格子扉を弾き飛ばすように跳躍し、狂気に満ちた視線を送り続けていた買い手の頭を噛み砕いた。
「キャァー!」
「檻が壊れたぞ!」
「ガァァァァ!!!」
ライオリラは血と内臓物が滴り落ちる鋭い牙を剥き出しにし、周囲を威嚇するように一吠えすると、次の標的に選んだのは自分を檻に閉じ込め連れ回した売り手の男だった。
「た、助け——!!」
売り手の男の叫びはライオリラの巨腕で殴り潰され、散乱する肉片や破壊された肉片が地下会場に僅かな明かりをもたらしていた燭台を倒し、一匹の猛獣が檻から抜け出した混乱は狂乱へと変わっていった。
「に、にげろぉおー!」
「み、皆さま落ち着いて下さい!」
「邪魔だどけぇえ!」
買い手も売り手も関係なく、入り口の細い階段に向かって一斉に逃げ出した。だが、多勢が駆け込めば、当然のように詰まって進めなくなる。
そして、その後背にライオリラが襲いかかり、より凄惨な状況へ変化していく。
ライオリラの鍵を破壊した直後、俺は陰に身をひそめながらダダーリン兄弟の動向を見ていた。
奴らも最初はライオリラの凶行に驚愕の表情を見せていたが、すぐに気を持ち直して賢者の
なるほど、そっちが搬入路か。
ライオリアの檻を見た時から、地下会場のどこかに搬入路があると考えていた。でなければ、人の体よりも大きなライオリアを閉じ込める檻を地下会場に設置することが不可能だからだ。
この闇取引に参加している大多数の買い手は、何か異常事態が発生すれば細い階段へと殺到するだろう。
それに引きずられるように、焦った売り手もそちらに向かう。
それが人間の心理というやつだ。
こんな状況下で冷静な判断を取り戻せるのは、サラマイヤーの店舗で見た惨劇を平然と行える者たちくらいだ。
だが、それでは困る——逃げる二人のうち、動きがトロそうな方を狙い、その足を撃ち抜く。
「がぁっ!」
「大丈夫かッ?!」
「あ、足に何か刺さった……」
「くそッ、何かの破片が刺さったか。立てるか?」
ダダーリン兄弟の一人が膝から崩れ落ちて四つん這いになり、太ももの裏を押さえて悶え苦しみ始めた。
「おい、早く逃げないと危険だぞ」
そ知らぬふりをしながら駆け寄り、直近でマスクの下の顔を窺う——撃ち抜いた方はバルブロじゃない。
となると、今まさに肩を貸して立ち上がらせようとする男が——バルブロ・ダダーリンだ。
「すまないが、そっちの肩を頼む。向こうに裏口があるから、そこから外に出る」
「他に出口があるのか?」
「あぁ、向こうの幕をくぐれば倉庫に出る。そこからさらに進めば搬入用の馬繋場だ」
「い、いでぇ……いてぇよ兄貴……」
「判った。早く移動するぞ。このままでは失血死する」
撃ち抜いた方は弟か——背後から聞こえる悲鳴と怒号、そしてライオリラの咆哮が地下会場に響き渡り、その混乱は上階のメイン会場にまで波及していた。
上はスマッシュとダリアがいれば問題ないだろう。馬車はスマッシュが操れるし、俺はこのまま金儲けを続けさせてもらうか。
ダダーリン兄弟とともに幕をくぐって倉庫側へ抜ける搬入路へと出た。痛みに呻く弟を連れているため、後ろから追い越して逃げていく参加者が何人かいた。
だが、倉庫に出た頃にはその人影も減り、バルブロは弟が心配なのか、一度寝かして足の様子を見始めた。
「このままじゃ本当に失血死する……あんた、何か縛るもの持っていないか?」
顔色を青くさせていく弟はすでに虫の息——当然だ。P226の一発は太ももの動脈を破り、急速な出血で死までのカウントダウンはゼロを目前としている。
しかし、その僅かを待っているつもりはない——バルブロは出血部分を手で抑え、俺を見ずに意識を失っていく弟の頬を叩きながら声をかけ続けている。
「おい、早くなにか持ってこいよ!」
いよいよバルブロも弟の死を覚悟したのか、声に激しい怒気を含ませて後ろを振り返ったが——その先に見えたのは俺の顔ではなく、黒いSIG SAUER P226のグリップだった。
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