新空間ラヂオ

里内和也

ロード交通情報

 熱いコーヒーの入ったマグカップを、私はリビングのテーブルにそっと置いた。椅子に腰かけて、その熱々を慎重に口に運ぶ。体も心も求めていた苦みが全身にみ渡り、思わず深く息をついた。

 締め切りが間近に迫っていた小説を、つい先程、どうにかこうにか仕上げることができた。もうあの物語のことを考える必要はないはずなのに、まだ頭の中が半分ぐらい、空想の世界をふらふらとしている。おまけに、ここ数日ずっと自宅でパソコンに向かっていたので、肩や背中はガチガチだ。目は乾燥し、遠くがかすんで見える。

 小説家というのは、もう少しスマートで華やかな仕事かと思っていたが、どうやらそれはメディアの演出による幻想らしい。もっと売れっ子の作家なら、また違うのかもしれないが。

 私はいったんマグカップを置いて、テーブルの隅のポータブルラジオに手を伸ばした。執筆中はずっと、このラジオをかけっぱなしにしている。雑多ざったな声や音が部屋の隙間を埋めていると、それだけでなぜか落ち着くのだ。いまや私の創作には欠かせない存在になっている。もっとも、内容の大半は聴き流しているので、ほとんどBGMと変わらないのだが。

 執筆が片付いた今は、じっくり聴ける。私はゆったりした気持ちでスイッチを入れた。

『○×高速はこの時間、目立った渋滞はありません――』

 道路交通情報か。車を運転せず、それどころか車でどこかへ出かけること自体が少ない私には、あまり関係がない。ただ、日本道路交通情報センターの人の穏やかで澄んだ声には、癒されるものを感じる。

『△△高速では、自転車同士の接触事故のため、※※インターチェンジ付近で3㎞の渋滞になっています』

 コーヒーをすすりながら、普段通り聴き流そうとして、マグカップを持つ手が止まった。

「自転車同士が接触事故」――高速道路で!?

「乗用車同士」を聴き間違えたのだろうか、と自分の耳を疑ったが、いくら思い返しても頭に残っているのは「自転車」という言葉だ。気になって仕方ないが、同じ情報がもう一度繰り返されるわけもないので、もはや確かめるすべはない。

 私の戸惑いをよそに、ラジオではすでに次の情報が読み上げられている。

『×□道では、路上に散乱した魚のため、2㎞の渋滞になっています』

 魚が散乱とは、また大変なことが起きたものだ。おそらく輸送トラックから落ちたんだろう。ニュースでも取り上げられるに違いない。後でチェックしてみよう。

『卵を回収するため、交通規制が敷かれています。係員の指示に従って迂回うかいしてください』

 卵? 散乱したのは魚じゃなかったのか? 

 別の道路の話なら、ちゃんとどの道路か前置きするはずだ。魚、卵……と考えて、ふっと二つが結びついた。

した魚」!?

 道路上で魚が卵を産んでいる光景が、目に浮かんだ。交通規制を敷いてまで回収しなければならないほどだから、相当な量の卵に違いない。なぜそんな状況になったのか、まったくもって謎というほかない。

 これもまた聴き間違いだろうか。いや、疲れているのは確かだが、そこまでぼんやりしているわけではない。きっと今日は、珍しい事件が立て続けに起きているんだ。

 私が動揺している間にも、道路交通情報は一定のペースで進んでいく。

『国道○※□号線では、ただいま△×交差点付近が道路の補修作業のため、片側通行になっています。係員の指示に従って通行してください』

 コーヒーを再び口に含んだら、さっきに比べて苦みが薄れているように感じられた。

 ニュースもワイドショーも、すでに路上の珍事の話題で持ち切りかもしれない。まさかそれを、道路交通情報で知ることになるとは。

『作業員への差し入れも、係員の指示に従ってお渡しください』

 ……差し入れを持っていく人間がいるんだろうか。いや、これは作業員の家族に向けての情報……なわけない。そんなことを伝えるのにわざわざ公共の電波が利用されているなんて、いくらなんでも考えにくい。だが一般人が差し入れをしていたら、もっとおかしい。

『日本道路交通情報センターの、鈴木がお伝えしました』

 別段、目を引く変事などなかったかのように、道路交通情報は淡々たんたんと終わった。続いて流れてきた家電量販店のCMが、やけに騒々そうぞうしく聴こえた。

 しばらく外に出ないうちに、日本の道路はずいぶん変わったらしい。明日にでもどこかへ出かけて、じかにこの目で確かめてこよう――私は静かに決意を固めた。

 



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