きょうだけの料理
取引先の会社を後にし、営業車のシートに腰を下ろすと、肩や背中から力が抜けるとともに吐息が
荷物を片付けながら、カーラジオのスイッチを入れた。
『――高速道路はこの時間、目立った渋滞はありません。一般道も順調に流れています』
道路交通情報をやっている、ということは、もうすぐ三時か。この放送局で水曜日なら、三時からは男性パーソナリティによるトーク番組のはずだ。
営業で外回りが多くなってからというもの、すっかりラジオが日常に溶け込んでしまった。以前はごくたまに、好きな歌手とかが出ている時に聴くだけだったのに。
生命保険や缶コーヒーのCMを聴き流しながら、エンジンをかけ、車を発進させた。取引先は回り終えたので、あとはもう会社へ戻るだけだ。
そうこうしているうちに、時報が三時を告げた。
『高野桃子の、エンジョイ・クッキング~!』
すっとんきょうな女性の声に、頭の中が一瞬にして空白になった。聴こえてきたのものがあまりに想定外で、俺の脳では受け止めかねた。
だがすぐにはっとした。自分が運転中であることに気づき、途切れそうになった集中を立て直す。交通量が少ない道とはいえ、さすがに危ない。気をつけねば。
ラジオは軽快なメロディのBGMが十秒ほど流れた後、別の女性が落ち着いた調子で話し出した。
『みなさん、こんにちは。今週も始まりました、「高野桃子のエンジョイ・クッキング」。司会進行の吉崎友恵です。教えてくださるのは、料理研究家の高野桃子先生です』
『高野です~。よろしくお願いします~』
最初のすっとんきょうな女性の声だ。「先生」、なのか?
どう考えても、普段聴いてるトーク番組じゃない。というか、ラジオで料理番組をやってる放送局なんてあるのか? それとも、番組内のコーナーの一つなんだろうか。
周波数を確認したが、今朝からずっと聴いてた放送局に合わせられたままだった。新番組や新コーナーが始まるのなら、何かしら告知があってもよさそうなものだが。
俺が混乱している間にも、番組は先へ進んでいく。
『先生、今日はどんな料理を教えていただけるんでしょうか』
『今が旬のもやしを、たっぷり使った料理を紹介します~』
もやしに旬があっただろうか。俺はそこそこ自炊しているが、もやしがうまかったりたくさん収穫できたりする季節なんて、聞いたことがない。
司会の吉崎さんは、疑問に思わないのかその点には触れず、話を先に進めていく。
『もやしだったら、いつでも手頃なお値段で買えますから、節約にもなりますね。でも、おいしく料理しようと思うと結構コツがいりませんか?』
『今回紹介するレシピなら、とっても簡単においしく食べられますよ~』
『それは楽しみです。何という料理ですか?』
『「もやしの中華風卵
普通にレシピ本やレシピサイトに載ってそうな料理名だ。名前からしておそらく、もやしを卵と一緒に炒め合わせるんだろう。
『卵が加わるのなら、味も栄養価もアップしそうですね。ではまず、材料を紹介しましょう。四人分です。もやし、200g入り一袋。卵、二個――』
ちょうどコンビニが見えてきたので、その駐車場へ停車させて、俺は慌ててメモを取った。実際に作るかどうかはわからない。ただ、念のためでも何でも、とりあえず書き留めておきたくなっただけだ。
メモし終わると、またすぐに車を発進させた。いっそのこと車を止めたままじっくり聴こうか、と思わなくはなかったが、そのためだけに駐車場を占領したりバッテリーを
『それでは、作っていきましょう』
『まず、ニラを3㎝ぐらいに切ります~』
ざくっ、ざくっという音が続く。ラジオなのに、ちゃんとスタジオで作るのか。てっきり、ポイントの解説を加えながらレシピを話すだけかと思ってた。
『ニラがなかったら、ねぎでもいいですよ~。ねぎがなかったらほうれん草でも小松菜でも春菊でも構いません~』
葉物だったらオールOKなんだろうか。ニラと春菊では風味がかなり違うと思うが……。
『次に、卵をボウルに割って溶きほぐしておきます~。……あっ』
「あっ」? 「あっ」って、いったい何なんだ。
吉崎さんのさり
『先生、卵を割っていると殻が混ざってしまうことがありますが、そういう時はどうすればいいんでしょうか?』
『さ、
なぜだろう。そこはかとない不安が頭をもたげるのは。
『ここまでが下準備ですね。では、調理していきましょう』
『まず、フライパンにごま油を熱します~』
『ごま油、大さじ一杯です。先生、火加減はどれぐらいですか?』
『中火です~。油が温まったら、さっきの溶き卵を一気に流し入れます~』
ジュっという、卵が油に触れたのであろう音がした。音だけなのに、フライパンから周りの空気へ広がる熱や、卵が焼かれた時の香りまで伝わってきそうだった。
『木べらで大きくかき混ぜます~』
『ずいぶんゆっくり木べらを動かしてますね』
『急いだり、
またか? 何が「あっ」なんだ。
今度は吉崎さんのフォローもないまま、先へ進んでいく。
『は、半熟状に固まったら、いったんお皿などに取り出しておきます~』
動揺しているように聞こえるのは気のせいだろうか。
『次は野菜ですね』
『フライパンをキッチンペーパーでさっと
『ごま油、大さじ二分の一です』
『まず、もやしを炒めます~』
『もやし、200g入り一袋です。先生、火加減は?』
『今度は強火です~』
二人の声と重なって、ジャーっという、いかにも野菜を炒めていそうな音が聴こえる。音だけなのに、食欲が刺激されて腹が減りそうになった。
『続いてニラを加えて炒めます~』
『ニラ、約50gです』
『取り出しておいた卵もフライパンに戻して、全部を一緒に炒め合わせます~。調味料も加えます~』
『酒、大さじ二杯。オイスターソースも大さじ二杯――』
いよいよ佳境に入ってきた。どうにか完成しそうなことに、なぜか俺がほっとしている。
『調味料が全体になじんだら出来上がりです~。……あっ』
……最後の最後で。「あっ」って何なんだ。いったい何が起きてるんだ!
聴く側の気持ちを置き去りにしたまま、番組は進んでいく。
『器に盛りつけます~』
『「もやしの中華風卵炒め」、完成です。では、さっそく試食させていただきます』
感想を言わなくてはならないから、おそらく急いで食べているんだろうけれど、それでも少し間が
『もやしもニラも、とてもシャキシャキしていますね。歯ごたえがあって、野菜らしいフレッシュな香りが感じられます』
微妙な表現だと思う俺は、ひねくれているんだろうか。深読みしなければ、単純にほめているんだろうけれど。
もやしって、加熱が足りないと青臭さが残るよな。
『卵はこんがり焼けていて香ばしいですね。
こういう料理だとだいたい、卵はふんわりと、レシピによっては半熟に仕上げるものなんじゃないのか。それに普通、パンチがきくほど胡椒を使うだろうか。
最初に卵だけを炒めていた時の「あっ」が、ふとよみがえる。
半熟状に固まったらいったん取り出すと説明していたが――あの時点で、半熟を通り越して完全に固まってたんじゃないのか。フライパンに戻してさらに過熱したら――焦げた。
すべては俺の憶測だ。証拠は何もない。そう自分に言い聞かせるのだが――疑う気持ちが、どうしても
考えたり疑問を差し
『「高野桃子のエンジョイ・クッキング」、本日はここまでです。先生、ありがとうございました。来週もよろしくお願いします』
『こちらこそ、よろしくお願いします~』
始まった時と同じ軽快なBGMが流れ、フェードアウトしていく。それと入れ替わって、日帰り温泉のCMが始まった。
前方には、俺の勤めている会社が見えてきている。夢を見ていたわけでもないのに、現実の世界に戻ってきたかのような感覚がなかなか消えなかった。
その後、何度同じ曜日の同じ時間に同じ周波数で聴いても、料理番組が放送されていることはなかった。
休日に、俺はメモした材料をそろえて、番組の手順通りに料理してみた。それほど手間もコツもいらない割にはおいしく仕上がった。
ただ、あの番組で完成したものとどの程度同じ料理になっているのかは、確かめようもない。
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