貴方の体温を君の体温で上書きする
夏鎖
貴方の体温を君の体温で上書きする
白衣を錆と潮の風が揺らした。
知りすぎた、当たり前の香りは、鼻を通り抜けて知らない匂いを運ぶ。
「緊張してるか?」
優しい声が右耳に触れる。
「いえ……」
硬質な声は隠せない緊張を含んでいた。
「そうか」
貴方は微笑んで、私を抱きしめた。
感じたのは熱だった。
白衣とブラウスの距離はゼロで、布を超えて感じる男の人は骨と筋肉とわずかな脂肪で、それをすべて熱が覆い隠した。
「…………」
じんわり胸の中の広がる幸福を私はなにも言えずに噛み締めた。
「りな……」
私を呼ぶ先生の声も幸せそうで、幸せは数秒で二倍から三倍に四倍から五倍に――
膨張する感情のまま先生をまっすぐに見つめた。
全部を理解して唇が触れ合って、弾けるヘビイチゴの感覚。なにも見えない聞こえない水の底に。二人だけ。
理科準備室は放課後を忘れさせた。
× × ×
私が暮らす町は北海道では珍しくない終わりに向かう街だ。
かつて栄華を誇った鋼鉄産業は文字通り錆びて、若い人は札幌などの大都市へ。人口はどんどん減りついに7万人を切った。
観光の目玉だった夜に輝く工場群の停止も噂され、パチンコ店は市内に1つだけになった。
そんな街に暮らす数少ない女子高生である私はいつも通り学校に向かっている。
「おはよう」
少し前を歩く君に気が付いた私は声をかける。ぶっきらぼうな君は返事はせずに隣にいるだけ。
「今日は暑いね」
8月24日。二学期が始まってから1週間が経った。
短い二週間の夏休みで経験したのは――
「なに?」
君が一歩近づいてくる。私が考えごとをしているといつも「隣には俺がいる」「俺が彼氏だ」とアピールしてくる。
「そうだね。今は君のことだけ考えてればいいよね」
微笑んで一歩近づく。
君と二人並んで学校へ。高校のカップルが当たり前にすること。駅から学校まではバスもあるけど、私の家からなら歩いた方が近い。自転車は山に面しているこの町だとあまり使えない。
山から吹き下ろす風が髪を揺らす。空の青を絡めたシュシュは私のお気に入りで――
「あっ……」
そんなことを考えていたら君は私に愛想をつかして、先に行ってしまった。
「ご、ごめんね……」
謝るけど君は振り返ることなく行ってしまった。
「学校で会えるんだけどね……」
同じ学校だからいつでも会える。登校時一緒にいないくらいどうってことない。
「ちょっと寂しいけどね……」
ひとりぼっちはローファーでひび割れたコンクリートを叩き続けた。
上履きに履き替えて教室に入ると、半分は小学校の頃から見知った男女。もう半分は未だに名前も顔も曖昧な男女がいた。
「おはよう」
「おはよう」「おはー」「おはよ」
私がいつものメンバーの元に赴くと、3人はそれぞれ挨拶をした。
「今日は暑いね」
「気温、今日は29度まで上がるって」
「えー……暑いよー」
「溶けるよね……」
「それなのに今日は体育あるし……」
「やってられないよね」
女の子同士の会話。それにちょっとだけ距離を感じる。夏休みは時々アプリでグループ通話するくらいでみんなと遊びに行ったりはしなかった。
その時はまだ貴方の隣にいることが幸せで、学校での普通の女子高生生活、みんなと遊ぶことは優先順位が低かった。
「そういえば、竹内が坂倉と付き合ってるんだって」
ショートカットの女の子の声に、私は現実に引き戻された。
「竹内くん……誰だっけ?」
私が恐る恐るショートカットちゃんに尋ねる。顔と名前が一致しない竹内くんと、今日初めて声を発する緊張感。別に引っ込み思案というほどでもないけど、どうも誰かと話す時は不器用になってしまう。
「2組のバスケ部の男子。まぁ、坂倉はバスケ部のマネージャーだし自然な流れかな?」
「竹内くんかっこいいよね」
「坂倉さんって前に誰と付き合ってたんだっけ?」
「元カレは――」
私の言葉は流れを小さく変えただけだった。
(坂倉さんは、同級生の男の子と付き合っているんだね……)
まるで人ごとのように、遠く離れた世界のように心に無が浮かんだ。
スマホ一つで友達と、世界と、現実と、虚構と――どこにでも繋がれるようになったけど、恋だけは現実でしなければならない。
そしてこんな田舎じゃ、恋の範囲は狭くて、みんな小さいころから知っている人と中学生の頃には付き合って、高校で市外の人が入ってきて新しい恋をする。
でも、普通じゃない私は、中学生の頃から普通じゃない恋を――
今も普通じゃない彼氏を――
「そろそろほーむるーむはじめるよー」
眠そうな担任の声でみんな席に戻っていく。
私もみんなと同じように席に戻る。窓越しに君の姿が見えた気がした。
体育館で行われたバレーボールで少し汗をかいた。
運動は得意じゃない。とはいっても嫌いではない。だから時々トスをあげたりして、私なりに試合に参加した。
「やっぱり暑いね」
「体育館は湿気がね……」
「本当それ……」
みんなが体操着をぱたぱたして中に空気を送る。それに合わせて桃と柑橘と石?が混ざったにおいがする。
女の子の香りなんで創作で、私も私以外もボディーソープとシャンプーと制汗剤で皮脂の匂いをごまかしてるだけだ。
ただ、それだけ。
「先生おはよう」
「お疲れ様です~」
渡り廊下に差し掛かったとき、バサりと音がした。
「あぁ、お疲れ様」
それはついに1週間前までは毎日聞いていた、聞き慣れた声だった。
「あっ……」
すれ違う瞬間、初めて出会った時の貴方の匂いを思い出した。
忘れようとしていた、熱も思い出も。
「…………」
「…………」
でも、私とあなたはまるで知らない人のようにすれ違った。
でも、それはもう当たり前で当然で、過去の人同士だった。
先生と生徒に戻ってしまった。
1週間前、貴方との距離がこんなに遠くなるなんて思わなかった。
× × ×
貴方に出会ったのは中学二年生の頃だった。
何もない田舎の娯楽は噂話と恋愛だった。この町は道内ではまだマシで田舎といっても季節ごとのイベントは盛んだし、娯楽不毛地帯ではない。
それでも何もないときは恋くらいしかすることがないのだ。
私は文学少女だった。小さい頃は今よりずっと内向的で友達はあまりいなかったし、人付き合いも苦手だった。普通の女の子みたいにファッションに興味はなかったし、流れのはやいネットやテレビにも興味をそそられなかった。両親が休日はよく本を読んでいて、家の中に紙の書籍はたくさんあった。だから本を読むことは自然と趣味になった。
そんな私は一四歳の時、不意に焦燥感に襲われた。
この狭い町の中学校で、私の同世代の女の子はみんな恋をしていた。
小学校の頃に同級生の男の子と手をつないでいた。中学の頃に先輩とキスをしていた。
持て余した暇な時間を可憐な乙女たちは胸の高鳴りに投資した。
でも、私はまだ人を好きになるなんて感覚も知らなかった。
いつも教室の隅で本を読んで、嘘の世界にときめきを感じているだけだった。現実にときめくことなんてできていなかった。
昔、同級生の男子に告白されたときもなんだか怖くて断ってしまった。異性という存在が、恋をする私が、変わってしまうことが怖くて。
そんな私も恋をした。
進路を考え始める秋。海に面したこの町で暖房が手放せなくなる十一月の終わり。高校見学で訪れた今私が通っている学校に貴方はいた。
東棟の三階。トイレから出てきた私はあなたにぶつかってしまう。
視界いっぱいに広がった白。それは貴方が着る白衣の色で、洗剤ではごまかしきれない薬品と――男の匂いがした。
「大丈夫?」
貴方は優しく声をかけてくれた。
「はい」
返事をしていたときにはきっと恋に落ちていた。
眼鏡をかけた理知的な顔。田舎の鋭いイケメンとは違った柔和な表情。私の生活範囲にいた他の誰とも違うものを貴方は持っていた。
「見学の中学生?」
「はい。そうです」
「そうか。気をつけて」
貴方は私に微笑んで背を向けた。
「あの!」
自分でも信じられないほど大きな声が出た。
「どうした?」
「な、名前を教えてください……」
でも風船の空気が抜けるように、声は小さくなり最後にはほとんど聞き取れないほどに。
それでも貴方は優しかった。
「僕の名前は――」
人生初めての恋だった。
× × ×
お昼休み。
私は君とお弁当を食べるために中庭に向かった。
H型の校舎の上側の空白。倉庫の近くに向かう。
「あっ、もう居たんだね」
自然と頬が緩むと君は待ってたよと言うように立ち上がる。
「それじゃ食べよっか?」
倉庫の入り口の階段に腰掛ける。
「いただきます」
包みからおにぎり二つとおかずがはいった小さいタッパーを取り出す。女子力の欠片もないお弁当だった。
「さっきね、先生とすれ違った」
卵焼きを食べる。甘じょっぱくて美味しい。
「なんかさ……私のことなんて知らないみたいな態度だった……」
焼いた魚を食べる。塩がきいてる。
「失恋ってこんなのなんだね……」
おにぎりを食べる。一口目じゃ具まで届かなかった。
「人を好きになるって大変だね……」
ブロッコリーを食べる。マヨネーズが欲しい。
「なんで恋って終わっちゃうとゼロになっちゃうんだろうね……」
貴方との関係は全てなかったことになった。
貴方を想って入学したこの学校。
貴方と初めて話せた瞬間。
貴方に名前を覚えてもらえた。
貴方の恋人になれた。
貴方はキスをしてくれた。
君が右手に触れた。
私より体温の高い手が心のもやもやを溶かしていく。
「ありがと……」
微笑むと今の彼氏は誰?という目を向けてくる。
「そうだね……」
曖昧にごまかす。
「失恋したってすぐに彼氏作ってるしね」
貴方に振られた時に残っていた恋心はどこかに消えることはなかった。
でも、君がすぐに埋めてくれた。
「これ食べる?」
私はりんごをお箸でつまんで君の口へ――
「おいしい?」
うんと頷く君を見てなんだか幸せな気持ちになった。
教室に戻ると白衣を着た貴方が授業の準備をしていた。
(そういえば……授業だったね……)
物理の授業は退屈で仕方ない。それは貴方が私の彼氏だったときもそうだった。
そんな私に貴方は物理について色々教えてくれたけど、最終的には「テストで点を取れるコツを教える。それだけ覚えないさい」と言われ匙を投げられてしまった。
たった2か月前のことなのにすごく遠く昔のことのように感じる。ちょっとずつ貴方との思い出は過去になっていく。
貴方が銀の腕時計を見つめる。チャイムが鳴る。
「授業を始める」
まだ生徒たちが席に着き始めてないのに授業を始めてしまう。貴方は授業時間に厳しくて開始ぴったりにチョークを手に取り、チャイムが鳴り終われば教室を出ていってしまう。こうした時間にぴったりのところが「機械人間」なんて生徒の間で呼ばれているけど、実はそうじゃないことも知っている。ただ仕事を完璧にこなすだけで時間には案外ルーズなのだ。デートには遅刻したり早く来すぎたり――そういうギャップもすごく好きだった。
「はぁ……」
よくわからない公式をノートに写す。数式は泳ぎだして、緑の罫線を飛び跳ねる。瞼が重たくなってきて――いけない。この授業くらいはちゃんと聴こう。
(付き合っていたころはどうやって集中力保っていたんだっけ……)
小さくあくびをして左手で口元を押さえる。意味はわからなくても、理解はできなくても、とりあえずノートにシャーペンを滑らせる。
「そろそろ時間か……それでは次回の小テストの対策プリントを配る。これをこなせれば満点が取れるはずだ」
貴方は眼鏡を直してから神経質な手つきでプリントを扇状に広げる。
「先生ー」
クラスの男子が手を挙げる。
「どうした?」
「一つ訊きたいことがあるんですけど?」
「なんだ?」
「橘と付き合っていたって本当ですか?」
「……そのような事実はないがなぜ?」
「先生と橘が札幌にいたって山根が……」
「うん?いつの話だか知らないが……私はしばらく札幌には行ってないな」
「そうっすか……」
男子生徒がいかにも残念そうな顔をする。
私は私に集まる視線に曖昧な笑みを浮かべて――心の中がぐちゃぐちゃになった。
(えっ?なんで?どうして?)
加速していく。
(なんで、なんで、どうして、どうして……?)
混沌として
(優しい言葉は嘘? 好きって言ってくれたのは嘘? 手を握ってくれたのは嘘? 初めてデートに出かけたあの日は嘘? 私にネックレスをプレゼントしてくれたのは嘘? 誕生日にちょっと背伸びして買ったシックなボールペンを嬉しいと言ってくれたのは嘘? 手料理を美味しく食べてくれたのは嘘? ドライブをしたのは嘘? 函館で二人で見た夜景は嘘? 札幌で二人で並んで味噌ラーメンを食べたのは嘘? キスしたのは嘘? 抱きしめてくれたのは嘘? ねぇ嘘? 嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?嘘なの?)
決壊した
「それでは今日はここまで」
貴方は荷物をまとめてさっさと教室から出ていってしまう。
それと同時に奇異と下衆な興味を持った視線が向けられる。
飛び出した
貴方の白衣が私が起こした風にふわりと舞う。
「嘘つかないで」
冷たい言葉を固めて結晶にして貴方にぶつける。
後ろに通りすぎていく貴方は、それでも何事もなかったかのように「廊下は走るな」なんて注意をする。
(なんでそんなひどいこといえるの……?)
悲しくなった心に居座る当然の疑問にふっと黒い影が落ちた。
初めての失恋。実は私が知らないだけで、こんな風に何もなかったようになるのだろうか。それが当たり前なのだろうか。あのドキドキも全部なかったことにして、みんなみんな新しい恋に進むのだろうか。全部忘れて。
走り始めた足は止まらない。翻るスカートの中で終わりゆく夏の風が暴れてプリーツを乱す。
学校を飛びだす。意味もないその行動を理性では制御できない。
足は勝手に山の方へ向いた。海に行く勇気はなかった。海の方には貴方との思い出がたくさんあるから。山の方ならなにもない。
キツイ傾斜を、ペースを落としながら登る。山頂にあるラジオとテレビの送信のための電波塔はまだ遠い。そう感じてから自分が山頂を目指していることに気づく。
(頂上にいけば何か変わるかな……)
なんの根拠もない理論を盲信した。
足が徐々に重たくなるのを感じながら私は頂上を目指した。
× × ×
高校に入学した私はまず安心した。新しい環境への期待や不安はなかった。貴方が異動せずこの高校にいることがなにより私の心を落ち着かせた。だって貴方を追ってこの高校に入学したのだ。貴方がいなくなっていたらこの高校に来た意味はない。
色んな表情をした入学生の中で私だけが横を向いて教員席に背を伸ばして座る貴方を見ていた。きっと恋する乙女なんて、可愛くて微笑ましいものではなかったと思う。ただ夢中に、貴方を見つめていた。
教員席の隅の方に座って、白衣ではなくジャケットを羽織った貴方はぼけーと新入生の方を見つめていた。
そんな姿もなんだか素敵で私は入学式そっちのけだった。
入学式も終わり、それぞれの教室で担任から色々説明を受ける。その時配られた時間割表を見て、私の感情は安心から嬉しさに変化した。
(化学の授業……担当……!)
後で知ったことだけど、貴方は化学と物理の授業を全学年担当していた。各学年120人で三クラスしかない高校だけど、今思えば内容や進行の違う授業を複数も担当するのは大変だったと思う。
三日後、初めての化学の授業があった。貴方らしく初回から淡々と授業を進めていてクラスのみんなには大変な不評だったことを覚えている。
それでも私は貴方と仲良くなりたくて、貴方と近づきたくて、授業終わりに話しかけにいった。
「先生、私のこと覚えてますか……?」
「君は……何年か前に学校見学にきた生徒かい?」
(あっ……覚えててくれたんだ……嬉しい)
心がぽわっと温かくなった。
「そ、そうです!」
「そうか。入学おめでとう。これからも頑張ってくれ」
嬉しさもつかの間、先生は立ち去ろうとする。
「あっ、待って――」
思わず呼び止めてしまう。
「なにかな?」
先生が怪訝そうな顔で私を見る。
「えっと、あの……授業でわからないことがあったら質問してもいいですか?」
「もちろん。なんでも応えよう」
そういうと先生はさっさと教室から出ていってしまった。
「なに?あの先生?態度悪くない?」
「自分の名前だけ言ってドンドン授業始めちゃうし」
「黒板の字小さくない?」
「なんかロボットみたい」
「今だって質問に行った子のこと軽くあしらってたし」
「感じ悪い~」
私はそんなクラスの女の子たちの会話を聞いて内心ラッキーと思っていた。
(みんながそう思っているなら先生のことを好きなのは私だけなのかな……それならライバルはいない……)
私はその時傲慢にも先生のかっこよさに気が付いているのは私だけだと思っていた。それが私の好みであることや、初めての恋に舞い上がって盲目になっていたと知ったのは随分あとのことだった。
それから私は化学の授業が終わるたびに貴方の元に駆け寄った。授業に関する細かい質問だったり、好きなことを聞いたりした。
「なんで周期表なんて覚えるんですか?」
「この後の授業でイオンについて学ぶ。そのための土台作りだ」
「どうして実験しないのに白衣を着るんですか?」
「体育教師がジャージを着るようなものだ。特に意味はない」
「好きな食べ物はなんですか?」
「魚卵だな。とびっこが好きだ」
授業のことからくだらないことまで。授業終わりの僅かな時間で貴方と私は徐々に仲良くなった。
そして初めての中間テストで化学のテストで平均点に届かなかった時、初めて貴方がいる理科準備室に入った。
「先生……なんの用ですか?」
「……心あたりはないのかい?」
「……あります」
「なら言う必要はないだろう」
貴方は眼鏡をゆっくり持ち上げて、ちょうどいい具合の場所に調整した。
「別に悪くはない。だが、授業終わりにあれだけ質問してきておいてこの点数はないだろう」
貴方の言葉が痛みを伴って胸に響く。
「だ、だって私文系ですし……」
「高校一年生の段階で文系も理系もないだろう」
「そうかもしれないですけど……」
「そもそもこの問2-3は授業終わりに教えたところだろう」
「そうですけど……」
「文系と言いたいなら暗記で解ける問題は解けるべきだろう」
「…………」
ぐうの音も出なかった。
でも、恋する乙女は強かった。
「それなら放課後に補習してください」
「補習?」
「化学の成績を良くしたいんです! お願いします!」
勢いよく頭を下げた。
「……なぜそこまでしたい? 物理はともかく化学は暗記で充分だ。補習は不要だろう」
「……先生のこと……好きだからじゃ……ダメですか……?」
ポロっとこぼれた本音はほとんど告白だった。だけど、私も貴方もきっとそんな意味には捉えていなかった。どこまでも先生と生徒だった。まだ女と男じゃなかった
「……水曜日と金曜日の放課後。1時間だけなら付き合おう」
「えっ?」
「といっても化学は補習するようなことはほとんどない。だから他の理系科目も見ることにする。それと、補習をやるなら君だけというわけにはいかない。他の生徒も自由に参加できるように呼び掛ける」
もっとも補習に来たがる物好きは他にいないだろうが。貴方はそう付け足した。
「……来週からでいいですか?」
「あぁ」
「ありがとうございます!」
普段からは考えられない勢いで立ち上がって頭を下げた。
それから貴方と私の新しい日々が始まった。遅咲きだった五月半ばの桜が散った頃から、距離はどんどん縮まった。放課後の補習はもちろん私しか来ず、貴方を独り占めだった。
でも、恋心はわがままで次第に放課後の一時間、貴方と話すだけでは満足できなくなった。
もっと貴方と話がしたい。手をつなぎたい。抱きしめたい。キスがしたい。愛されたい。衝動は収まらない。
「先生……」
「どうした? 問題は解けたか?」
「いや……解けないですけど……」
「なら早く解け」
「いや、そうなんですけど……」
「なんだ? 解き方がわからないのか?」
「……先生と……たいです……」
「なに?」
「先生とどこか行きたいです」
先生が口を閉じた。
「それは学外で、という認識で間違いないか?」
「……はい」
「それは教師としての範疇を超えている」
「わかってます……」
シャーペンを転がして窓の外を見る。まだ冷たい風が校庭の砂を巻き上げる。
「どうしてもか?」
「えっ?」
「もし二人で、校外で、どこかに出かけてしまえば教師と生徒の関係ではなくなる」
「…………」
「それでもか?」
のどの奥に言葉が詰まった。
私はまだ、それがどういうことかはっきり理解していなかった。
「……ふぅ」
貴方は小さく息を吐くとQRコードが画面に表示されたスマホを私の目の前に置いた。
「これは……?」
「華の女子高生ならわかるだろう。連絡先だ」
プライベートな、と貴方は付け足した。
「少し考えて……返事してもいいですか?」
「もちろん。そのための連絡先だ」
私はスマホを取り出しアプリを立ち上げて貴方のスマホの上に自分のスマホを――カメラがQRコードを認識して先生とすぐに繋がれるようになる。
「今日はここまでにしよう」
補習の時間はまだあったが、先生は準備室から出ていってしまった。
私は胸に貴方の連絡先が入ったスマホを抱きしめた。
家に帰って、何度も何度もフリック入力を繰り返しては消した。
(先生になんて言おうかな……)
貴方と話すのは楽しい。心が満たされる。でも、付き合うってどういうことなのか、私はまだわからなかった。
「うーん……」
悩む。
「電話……したいな……」
貴方の声が聞きたくなった。
「どうしようかな……」
電話をかけるかどうか考えだしてから心臓の音が止まらなくなった。それに合わせて私の体は落ち着かなくなり、スマホを握りしめたまま部屋を行き来する。
そんなことを何回か繰り返しているうちに机に脚をぶつけてしまう。
「あっ、」
スマホを落っことしそうになり、慌てて宙で掴み取る。
と、その時開きっぱなしだったアプリに画面に触れてしまい図らずも貴方に電話をかけてしまう。
「あぁ!」
(ど、どうしよう! どうしよう! せ、先生に電話かけちゃった……じ、時間は……まだ八時半だから大丈夫だけど、い、いきなり電話かけちゃったし、も、もし出たらな、なんていえば……)
焦っていると、貴方の声が聞こえた。
『もしもし?』
「は、はい!」
『いきなり電話とは驚いたな』
「ま、間違えてかけてしまって……」
『そうか。それでどうするか決まったか?』
先生に尋ねられて、永遠とも思える沈黙が私たちの間に立ちふさがった。
しばらくしてようやく私は口を開けた。
「先生は……私のこと……どう、おもってますか……?」
『どうとは?』
「す……
好きですか?
『……生徒として、ではないよな?』
「…………」
私は無言で頷いた。貴方には見えないのに。
『好きだ。一人の女性として』
「えっ……?」
『でもそれは許されないことだ。教師だからな』
感情がめちゃくちゃになった。嬉しい。でも、それに合わせて色んなものが噴きだしてきた。言い表すことができないほどだった。
「付き合ってくれますか?」
人生最大の勇気は――
『覚悟があるなら』
「はい。私も貴方が好きです」
幸せな瞬間だった。
でも、今ならわかるよ。恋愛小説みたいにここで終わりになんてならないことは。
× × ×
山頂はまだ遠かった。
緑に生い茂る木々が影をいくつも作っているおかげで熱くはない。でもここまで走ってきた代償で息は途切れて、足は重たく、体は涼を求めて絶え間なく放熱を繰り返していた。
「会いたいな……」
口から洩れたのは君への想いだった。
もう貴方のことは忘れよう。君のことで上書きしてしまえばいい。
そう考えて、でも考えることだけは単純で、どうしてもどうしても忘れられない。
道中の自動販売機でスポーツドリンクでも買っておけばよかった。そんなことも考えられないほど、夢中で山を登っていた。
貴方の影を振り払って、君を求めるように山頂へ向かう。こんな辛い気持ちになるなら、ずっとずっと貴方を好きなままで、気持ちなんて檻の中に閉じ込めしまえばよかった。それができなかった。それくらい好きだった。
「君に会いたいな……」
一台の車が私を追い越していく。それがノロノロノロノロと息を切らして山頂を目指して歩く私を馬鹿にしているように思えて薔薇の棘のような苛立ちが胸を内側から突き刺した。
貴方のことを考えると悲しくて辛くて苦しくなる。
君のことを思うとこの辛い坂を上り切りたくなる。
なんでこんなことしているのかわからないままで上へ上へ上へ――
ようやくたどり着いたのは頂上に続く百段を超える階段。
「登るよ……登り切ればいいんでしょ……」
膝に手をついて不器用に不格好に上を目指す。一歩一段登るたびに貴方との思い出を消して。君との思い出が増えるように願って。
最後の一段を登り切った瞬間、狭い場所で風が舞った。一面に広がった海はいくつもの船が波を立てて意味のない線を黒い海に刻んでいた。
乱れる息のまま誰もいない場所で叫んだ。
終わりの町を通り抜けて海に沈んだ。
「会いたいよ……」
ボロボロになったものを癒してほしかった。
その願いは通じた。
「……来てくれたんだね……」
君はなにも言わずに私の元に近づいてくる。
君を抱きしめて、最後に残った貴方の体温を消したい。
「でも、君のことは抱きしめられないんだよ……」
私が考えていることが分かったのか、君はぴたりと足を止める。
「エキノコックスが怖いからね」
君は狐だからね。
貴方の体温を君の体温で上書きする 夏鎖 @natusa_meu
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