Sheh.6 至福のとき
「先輩にとって、至福のときって、どんなときですか?」
金曜日の夜。今日も今日とて遅くまで働いたあと、二人で入った居酒屋で、後輩の女子が尋ねてきた。
「会社にいないとき」
即答すると、ニートですか? と冷えた視線を送られる。
「じゃあお前、会社いるとき幸せ?」
「先輩ほど愚痴は言いませんけど、幸せとはちょっと違う気がします」
いや、楽しいこともありますよ? と慌てて付け加えるが、俺に気を遣っても、残念ながら評定には影響しない。どうせなら暴露してしまえ、吐いて楽になれ、と小突くと、じゃあ飲みますねと言われたので、即座に非を詫びた。
若干不服顔のままだが、話は元に戻る。
「そもそも、ほんとに幸せ感じてるなら、至福のときってなんだなんて言いませんよ」
それもそうだ、とうなずく。
「で、先輩? 至福のときって、どんなときですか?」
「上司がいないとき」
「限定するのはリアルなのでやめてください」
と言うか、さっきと実質変わってません……とため息をつかれる。
仕方ないから、ハイボールをもう一杯頼みながら本音を言った。
「酒飲んでるときだな」
「知ってました」
――今の会話は何だったんだ。後輩の嬉しそうな顔を見つめながら、心の底で首を傾げた。
「あ、じゃあ、課長はどうですかね?」
「課長?」
「そうです。課長にとっての至福のときって、なんでしょうね?」
焼き鳥の串にかぶりつきながら考える。
「課長ねえ……」
「子煩悩ですよね、たしか」
「ああ、そうねえ。運動会の前日とか、気合の入りようが凄かったからな」
「いいですよねえ。子煩悩なパパ」
「そういうもの?」
「もちろんです! 課長イケメンですし、女子人気高いんですよ!」
しかも仕事もできますし! と鼻息荒くのたまう。やはり最近のトレードは、イクメンのデキ男らしい。これが数年後にどう変遷しているのか、楽しみだ。運ばれてきたハイボールをくらう。
「子煩悩な課長は、子どもといるときで決定ですね」
「あ、勝手に決められちゃうの、これ」
「はい!」
満面の笑みで言われては仕方あるまい。紳士たる者、淑女をたてるべし。
「あ、あのハゲはどうですかね?」
「お嬢さん? 言葉遣い」
「やっぱり育毛剤買ったときですかねえ?」
「あの無視しないで? 男性的にくるから、それは。あとどのハゲ……?」
「でも、この前、育毛剤効果なかったって、八つ当たりしてきたんですよね。あのハゲ」
「よし。選択肢は三人にまで絞れたが、評定に響きそうな人選になってしまった」
「性格悪いし、仕事できないし、不毛ですよね。あの若ハゲ」
「おっと、これはまさかのダークホースだっ!?」
「うるさいですよ、先輩。ハゲますよ?」
ほんと、やめて――世界中のハゲに謝って! 俺の親父とか!!
「ああ! そう言えば、最近異動してきた調査役とかどうですかね?」
「どうせ、うどん打ってるときでしょ。はいこの話終わりね」
「先輩、調査役のこと嫌いすぎません?!」
目を丸くされるが、当然も当然である。
「だってあの人、典型的な古い上司で苦手なんだもん。全然関係ない担当のくせに、やれこの会議資料作れ、出張の飛行機予約しろって、それで遅いと、お前は仕事ができないって――椅子にふんぞり返って扇子ぱたつかせてるだけの貴様より、数千倍仕事してるわ!」
「いやでも、料理上手じゃないですか!」
「それは認めるが、たまに差し入れ持ってこられるとイラッとするんだよね」
「どうしてですか?」
「押し付けてる仕事量に対して、少なすぎませんかね? って」
さすがにがめついと思います……と引かれてしまったが、反省はしていない。
「でもまあ、調査役は料理してるときでしょうねえ。この前も、ストレス解消しようと思ってキッチン立ったら、料理作りすぎちゃったとか言ってましたし」
「――本当? どこでストレスを感じたんだ?」
「後退する髪際ですかね?」
だからやめて差し上げろって……。男性としてひどく共感し、心の底からもっとハゲろと念じた。
追加の串が運ばれてくる。それを二人でちまちま摘みながら、話が進む。
「主任はどうだろ?」
「女性のですか?」
「そう。黒髪のロングヘアがふつくしい大和撫子」
男性社員のハートを鷲掴みにしてますよね、とジト目で睨まれ、テーブルの下ですねを蹴られる。痛い。
「猫好きって、専らの噂だけど。手帳も猫のイラストのやつだったよね? あと小物も、猫盛りだくさんだし」
しかし、後輩はちっちっと指を振った。
「男性社員は皆、節穴ですか? あの人、どっちかと言うと、犬好きですよ?」
うそーん、めっちゃ猫だらけじゃん、主任の周り。まさに猫かぶりってか? やかましいわ。
「そもそもあの人、実家で犬飼ってますし」
「猫はその倍飼ってるんだろ?」
「いや、飼ったことないって、言ってましたよ」
「ほんとは飼いたいとかか!」
「飼うつもりないって、話してましたけど……」
じゃあ、なんだあの猫グッズは、と呟くと、後輩はしばらく悩んでから言った。
「猫かぶってんですかね?」
……。
「どうしました、先輩?」
「ちょっとトイレに」
「はい。いっトイレです!」
かわいく手を振られるが、これはどうも彼女には悪い虫がついているようだ。
ラストオーダーの時間を過ぎた頃、とうに終わっていた話題をなんとなく蒸し返した。
「至福のときのことだけどさあ」
後輩は一瞬、はてと首を傾げてから、思い出して数度うなずく。
「お前の至福のときって、まだ聞いてなかったけど、いつなの?」
そうですねえ、と言って、デザートを頬ばる。
「甘いものを食べてるとき?」
「万歳して。ウェスト計るから」
「いや変わってないですよ! と言うか、万歳して計るのは、ウェストじゃありません!」
もうっと嘆息して、アイスを口に運ぶ。それをぼうっと眺めていると、ふふっと彼女は微笑んだ。
「分かりましたよ、先輩。私の至福のとき」
「ほう? どんなとき?」
「こんな固っくるしいスーツは脱ぎ捨てて、先輩と二人、家でごろごろしている休日です」
俺は笑った。
「なるほど、そうか! それはベストアンサーだな!」
「ふふっ。それほどでも――」
「まさに
種類の違う笑い声が混ざり合う。しかし、二人のこの空間は、端からはしょうもなく見えても、本当に幸せである。まさに今こそが、至福のときであろう――。
翌日、調査役から急な出勤の電話を受け、髪の毛を毟り取りそうになったのは、また別のお話。
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