「シェヘラザード計画」習作集

牧 鏡八

Sheh.1 階段

 階段というのは不思議なもので、そこは部屋でも廊下でもない、中途半端な空間である。当たり前だが段差ばかりで、敬遠されがちな存在だ。

 しかし、人間はエスカレーターやエレベーターよりもずっと長く、階段とともに時間を過ごしてきた。まあ、不便だから、最近離れつつあるのだろうが。

 それでは階段が近い将来、嫌われるあまり消滅するかと言えば、そんなことはないだろう。遠い将来ならあるかと言えば、たぶんない。


 階段なんて危ないものだ。特に雨の日の屋外の階段など最悪だ。あれは人を殺しにきている。だから、大概エレベーターを使う。階段なぞ手摺とともに錆びるだけだ。あと、夏の階段はホラーである。一段下で引っくり返っている蝉の恐ろしさよ。死んでるのかと思って一段降りた瞬間、顔面目掛けて勢いよく飛んでくる。夏の階段は常に心肺停止の危機と隣りあわせだ。やはり迷わずエレベーターに向かう。たまにゴキブリの死骸とご一緒することになるが、階段で蝉の奇襲を受けるよりはマシだ。死んだものは怖くない。



 いや、違うな。死んだものも、時に恐ろしいことがある。

 学校の怪談によくある13階段なんて目じゃない。そんな体験が――。




 私は趣味で楽器をやっている。チェロという、バイオリンをもっと大きくした弦楽器だ。ある東北の小説家は、この楽器の中に夜ごとに小動物を放り込んで演奏するとかいうトンデモなお話を書いたが、普通そんなに大きな穴は空いてない。楽器屋に行って一度見てもらった方がいいだろう。

 だが、楽器自体はたしかに大きい。小学生低学年の子ども一人分とだいたい同じ大きさだ。これを持ち歩くのはなかなか大変である。ハードケースにしまいこみ、背負って運ぶのだが、要は、背筋を伸ばした小学生をずっとおんぶしているようなものだ。バスに乗るとき、精算機にぶつけないよう毎度気を遣うが、いつも心ばかりになってしまう。逆に満員電車では武器になる。1.5人前の突撃である。ハードケース側からぐいっと押し込めば、人など柔らかいものだ。押し込まれた方の殺意は計り知れないが、子ども一人分のハードケースがあっては怒気もナイフも通るまい。そもそも眼前に迫る楽器の価値の、と言うより価格の高さは、推して図るべし。少し頭があれば、手出しはできない。これをいいことに、有効な盾として乱用するのは罪深いことであるのは自覚しているが、文句を言う前に少しでも詰めて欲しい。こっちだって、0.5人分余計なだけに必死なのだ。


 で、こうして苦労して持ち運ぶ先は、練習だったり本番だったり様々だが、あの日は本番であった。細かい雨が朝から降り続け、地面はどこも濡れそぼっていた。

 雨の日は湿気が高く、楽器のコンディションも通常とは異なる。立派なホールならば、それでも空調等で一定の環境に保たれるだろうが、その日はマンションの一室を改造したサロンでの演奏だった。

 絶妙な湿り気の中、神妙に演奏を終え、先輩たちからの感想を聞きながら帰路に着く。


 サロンを出ると、真っ直ぐエレベーターを目指す。チェロを背負っての移動は、とにかく楽することが重要だ。が、こんな時に限って、点検中の張り紙がされている。ため息をついて先輩らと一緒に階段へ向かう。先輩らはピアノ弾きで、持ち物は手提げ鞄一つといったところだが、唯一チェロをおんぶする私は憂鬱だった。階段を下りるとき、ケースを上に下に、激突させることが多いのだ。その度、中で100万円単位の楽器がどうなっているのか、心臓が口から飛び出そうになる。

 この日も、ゆっくり慎重に、手汗をかきながら下りていった。手すりを握りたいが、生憎の雨でびしょ濡れである。口を一文字に引き結び、汗をたらしながら一歩ずつ踏みしめておりていく。

 背後からは頭越しに、先輩たちの気楽な会話が聞こえてくる。足音軽く、後ろの人とおしゃべりしながらおりてくる。


 二階分おりて、あともう少しで地上となったとき、私は前方に不審な影を見た。一瞬不吉な予感がよぎり、立ち止まる。……もしや瀕死の蝉ではないか?

 ゆっくりと足を下ろし、段差の死角を覗き込む。心臓が破裂しそうになる。足元は濡れてよく滑る、狭い階段。背中には高価な楽器。蝉の奇襲を受けたら、損害額は百万単位――。吐き気を感じながら、首を伸ばす。


 ……正体は、引っくり返ってこと切れたゴキブリだった。


 ほっと胸を撫で下ろす。いや十分気持ち悪いが、あの体勢のゴキブリは間違いなく死んでいる。よって、そのときの私には無害だった。平静な心でその段差をやり過ごす。


 途端、大きな楽器ケースで覆われていた先輩の視界が晴れた。


「ひゃあああ! ゴキブリ!」

「ええ、うそっ!!」

「きゃああああっ」


 大袈裟な悲鳴が聞こえたと思ったら、背中に激しい衝撃が走った。

 驚いて振り返る。


「ごめん! 蹴っちゃった!」



 大柄な先輩の両足が、楽器ケースにクリーンヒットしていた。死んだゴキブリに驚き転んだらしい……。




 なるほど。そうかあ。転んじゃったかあ。転んで楽器ケースに全体重で体当たりしちゃったかあ――。






 嘘おおおおおおっ!!







 階段とは恐ろしいものだ。そこは生と死が入り乱れ、生と死が分かれる狭間の空間である。

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