しゅうまつの過ごし方

@nekonohige_37

しゅうまつの過ごし方

 「エウル……ケーテ、ランツァハルト……ケテル、セオルフォルス……」

 抑揚のある声で紡がれる、今まで誰も聞いたことの無い言語。

 それはごく普通の雑居ビルの屋上に居座る人物から紡がれていた。

 その人物の周りには幾つかの蝋燭と、それらを繋ぐ幾つもの白線によって彩られており、この場所を真上から見下ろせば、先ほどから奇妙な言語を使う人物の周りに引かれた白線が星をモチーフにした図形、俗に魔方陣と呼ばれるそれであると直ぐに分るだろう。

 そして、ごく普通のビルの屋上に魔方陣と蝋燭を飾り、所属不明な言語を紡ぐ人物の姿もまた奇妙だった。

 「クルスル……トルスル……ルーサー、イーブ、イーブ……」

 まず目に留まるのは紺色を基調とした布地で作られたマントだ、そして次に目に付くのは、マントと同じ素材で作られたであろうカラーコーンの様な形の三角帽、首から下げられた幾つものペンダントに右腕に握られた杖。

 その服装は、まさしく夢物語に登場する魔法使いのそれだった。

 「ボンペイ……ルーサーヘクト、カツァル、ナハト……ルッツィエ……」

 そうなると、先ほどからその人物が呟いて居る言葉が誰かに対して紡がれた言語ではなく、ある種の奇跡を人為的に起こす為に使われる特異言語、俗に呪文と呼ばれる物だと直ぐに検討が付くのだが。

 その人物の後ろ姿を見て大きく溜め息を吐く一人の男には、目の前で行われている行為が非科学的なまじないの域を出無いと分っていた。

 なぜなら、先ほどから呪文を唱える人物の顔を男は良く知っており。

 ボブカットに赤いセルロイド製の眼鏡が特徴的な彼女が、糞真面目に胡散臭い呪文を信じる信じ込みやすさは秘めていようと、不可能を可能にする力など持っていないと知っていたからだ。

 「ケルナ……ルーツァ!! ケルセクト!!」

 恐らく呪文の最後の小節なのだろう、先ほどから呪文を唱えていた人物、鮫島未来(さめじま みらい)は大声で呪文を唱えると両手を振り上げ持っていた本と杖を放り投げる。

 だが、彼女の宣言を裏切る様に沈黙が響き、持っていた杖が地面に打ち付けられる音だけが響き渡る。

 「満足か? 鮫島」

 「ルーツァ! ケルセクト!」

 昔からよく知る人物、鮫島の名前を呼ぶ男の名前は架古野入鹿(かこの いるか)、彼女とは物心ついた頃からの仲ではあるのだが。

 入鹿の言葉が気に食わないのか、鮫島は再び呪文の末尾を唱えるが結果は同じである。

 「そもそもよ、こんな胡散臭い本……書いている事良く実行する気になったな」

 入鹿は腰を曲げると彼女が放り投げた本を拾い上げて表紙を見る。

 そこには安っぽいイラストと、同じく適当なフォントで『君も今日から魔法使い』と書かれている。

 一緒に彼女が放り投げた杖は、良くSF作品で見かける様な如何にも怪しげな物では無く、老人が散歩をするときに使う本来の意味での『杖』だった。

 「事実かは重要じゃないの、信じることに意味があるの」

 そう言い、振り向くと親指を立てて相変わらずのポーズを取る鮫島。

 彼女の眼差しには一点の曇りも無く、自身が言っている事に一点の曇りも無い。

 そう証明するかの様な口調は、もともと純粋そのものな彼女の雰囲気をなお一層強い物にしていた。

 「いや、その胡散臭い本を信じる奴なんて、今時子供でも居ないだろ……っつうか、もう時間が時間なんだし、家に帰ろうぜ」

 豪奢なイルミネーションの様に光り輝く街並み、幾つの光があるのか見当もつかないが、それでもこの暖色系の明かりの中、沢山の人々が営みを続けている事は容易に想像が出来る。

 何て事の無い相変わらずな日常だ、街は相変わらず平凡な調子で回りその中の自分たちもまた、飽きもせずに生活を続ける。

 だが、生活をするにはお金が必要だ、だから会社に勤め、安定した収入を得てそれらを使って毎日の生活を少しづつ豊かにしてく。

 労働なんて先祖代々人類が繰り返してきた習慣だ、多少事業体系の変化はあれど余計な部分をこさぎ落としていくと、その中心に見えるのはどれもが皆見慣れたアルゴリズムだ。

 人と言うのは昔からこうだと決められた現実は、これと言って不満を持つことも無く受け入れるものだ。

 だが、鮫島未来と言う一個人が社会人にもなってもなお、業務が終わった会社のビルの屋上で似非魔術を披露している事を鑑みると、彼女は今現在自身等に押し付けられた未来を受け入れる気が無い様だ。

 「今日は帰るの? 『そこで諦めていいのか少年』!!」

 「いや『青年』だ、つうかお前もいい加減諦めろよ」

 びしりと分りやすい擬音を放ちそうな仕草で彼女は入鹿を指差すと、少しだけ方向性がずれた渇を飛ばす。

 だが、今さらと言った具合で入鹿は鼻を鳴らすと、空を見上げて小さく溜め息を吐き、懐に入れていた煙草を取り出し慣れた仕草で口に咥える。

 「まぁ……受け入れたくない気持ちも分らんくも無いがな……」

 彼は真新しいライターで煙草に火を灯すと、一口吸いこみゆっくりと紫煙を吐く。

 鼻を突く特有の匂いを放つ煙越しに見える夜空、その中には、夜空の2割ほどを埋めた巨大な月がゆっくりと迫って来ていた。

 「終末理論は机上の空論じゃ無かった訳だし、今さら何か抵抗するよりも、いつも通りの日常をな……」

 夜空が今の様に変化した切っ掛けは、今からずっと過去にさかのぼる。

 それは丁度入鹿が4歳の誕生日を迎える頃だった、まだ物心も付いていない年頃だった為、当時の事は鮮明には覚えていないが、それでもネットを漁れば当時の事件は嫌という程目に留まる。

 切っ掛けとなったのは一つの隕石らしい、大きさにしては丁度一軒家一つ位の大きさのそれが、遙か彼方の宇宙から地球に接近した。

 しかも運悪い事にその軌道上に地球は乗っかっていたらしく、当時の人々は大慌てし、その隕石がもたらすであろう被害に地球人一同は冷や汗を流した物だが、此処でちょっとした奇跡が起きた。

 その奇跡の主人公が、地球の周りを飽きもせず回り続けていた月だ。

 毎度毎度飽きもせず同じ軌道を描き、地球の周りで円を描き続けていた月は、偶然にも地球へと迫っていた隕石を受け止めたのだ。

 結果、多少細かな隕石の欠片は地球に降り注いだものの、民家の窓が数枚割れた程度のささやか過ぎる被害で事は終息した……

 かに見えた訳だが、実際にはこの一件が更に深刻な事態を招く結果になった。

 隕石との衝突により月は少しだけ軌道をずらし、円では無く細かな螺旋を描くようになったのだ。

 その螺旋の中心、それはつまり地球であり、月は冷やかしに来た客の様に何度もじらしながら地球へと近づき始めた。

 簡潔にまとめると、本当に迷惑な話だが、月の要らん活躍により地球と言う特殊な惑星は急遽寿命が設定されてしまったのだ。

 それが当時から20年とちょっと後、つまりは鮫島未来がお手製の魔女っ子衣装を作り上げてから数カ月後の事。

 つまりは、会社の屋上で辞めた筈の煙草を咥えた入鹿が、ゆっくりと紫煙を吐きだしてから数週間後の事だ。

 「っつうことで、明日も仕事あるんだから帰るぞ鮫島」

 「諦めたらそこで勝負は負けなんだぜ!!」

 相変わらずな調子でポーズを取る鮫島だが、いい加減この辺にして家に帰らないと明日の仕事に支障が出るだろう。

 何せ、世界が数週間後に終わってしまうとしても、それまでの生活費を稼ぎ文明を維持しなければそれ以前に自分たちは死んでしまうのだから。

 恐らく、当時のニュースが『三日後に地球は滅びます』なんて報道してたなら、皆が仕事をほっぽりだし思い思いの事に華を咲かせたのだろうが、実際は『20年』というあまりにも長すぎる期間だ。

 流石にこの事実には皆が呆れ、あまりにも現実味の欠けた未来を余所に、殆ど全ての人たちはこれまで通りの生活を開始したのは言うまでも無い。

 ましてや、物心ついたころから終末の明確な日時を教え込まれてきた入鹿や鮫島にとって、それは自然と受け入れざるを得ない事実なのだ。

 「勝負ってのは一回の試合で決着着くもんじゃねぇだろ?」

 「……むぅ」

 少しだけ不満そうに口を尖らせる鮫島、歳は同い年なのに関わらずこうした仕草を見ると、生まれ持った童顔と相まって一層幼く見える。

 「それに、他に試したい魔法はあるのか?」

 「今は……手持ち無い、でも諦めたらそこでお終――みぎゃっ!」

 「んじゃあ今日は家に帰って、新しい呪文でも覚えて明日出直せばいいだろ?」

 「……うう……」

 噛みつく様に熱く語る彼女の鼻を指で弾くと、入鹿は代替案を提示して見せる。

 すると、暫くは鼻をさすったのち、鮫島は僅かに赤くなった鼻の頭から手を話すと小さく頷く。

 そして何時もの帽子を外すと、屋上に幾つか設置された蝋燭に息を吹きかけて火を消す。

 そもそも、なんで彼女が今時こんな胡散臭い事に夢中になっているのか、それは大体見当が付いている。

 月が地球に迫って来ているとの結果が出た時、地球人一同は血眼になって打開策を検討した。

 良く映画である様に、沢山のミサイルを撃ち込む計画も立てられ、それが理論上無意味だと分ると、今度は月に直接人が降り立ち、月の地中深くに核爆弾を設置する方法。

 しかしそれも又、理論上間違いなく不可能だとの結果をスーパーコンピューターが弾き出した。

 そうなれば口々に、やれ『ソーラーセイルだ!』『巨大なジェットエンジンを――』『大きな宇宙船で地球から離脱』『地下に巨大なシェルターを――』だのと好き勝手な事を語った物だが、そのどれもが現実味を大きく欠いた物であり、その都度人類の未来は無い物だと散々教え込まれた。

 つまり、全人類が力を合わせた所で、科学の力で地球を守る事は出来ない、それが結果だ、ならば科学以外の方法でなら現状を打開できるのではないか?

 そう考え実行したのが鮫島未来だ。

 彼女は思い立ったその日に管理される事無くなった図書館に足を運び、幾つかのオカルト本を入手。

 持っていた貯金の一部を削ると、魔女っ子の衣装制作や儀式に必要な幾つかの材料を買いにホームセンターに足を運んだ。

 そしてそこまで行くと、今度は修行と称して仕事の合間に彼女は怪しげな水晶玉を撫で回し、そして飽きたのかそのままうつ伏せになると、貴重な筈の水晶に頬を乗せて眠る奇妙な習慣のを繰り返す様に成っていった。

 「それは消さなくても誰も文句言わねぇよ」

 「共有の場所は『来た時よりも美しく』でしょ?」

 「地球が終わるまで、この場所には俺達以外誰も来ないから大丈夫だ」

 地面に引かれたチョークの線を消そうとする鮫島を制すると、煙草の灰をマナー悪く足元に溢しながら入鹿は屁理屈を呟く。

 鮫島も、その考えに同意したのか、少しだけ表情を明るくすると曲げていた腰を戻し、必要な物だけをトートバックに詰め始めた。

 鮫島としては納得がいかず、それなりに必死に運命にあらがっているつもりらしいが、入鹿としてはこの馬鹿げた魔法使いごっこは笑い話でしかない。

 だが、だからと言って彼女の邪魔をする気はない。

 何故なら、物心ついた時から約束されていた終末までの間、こうして穏やかに過ごせれば満足だと考えていたからだ。






 会社から家に帰る最中、いつもの公園ではいつもの外国人が賑やかにバーベキューをしていた。

 なんでも、折角世界が終るのなら遊び呆けてやろうという魂胆らしく。

 その場に居る仲間と団結して溜めた大金で炭を肉と酒を兎に角買い占めると、終末まであと一カ月に迫ったある日から会社を辞めてこの場所で散々肉を焼き始めた。

 内心羨ましいと思いつつ、根っからの生真面目な日本人である自分には、彼らがこうして騒ぎ始めてもなお飽きもせずに会社へと足を運んでいた。

 「Hey! you!」

 「はい?」

 ただ、いつもと違う点があるとすれば、その外国人は今夜は一段のとご機嫌だったらしく、自分たちに声をかけるとパンパンに膨らんだビニール袋を差し出してけらけらと笑っていた。

 恐らく『持って行け』と言いたいらしく、これといって断る理由も無かったので入鹿は受け取り、袋の中身を覗く。

 その中には、缶ビールが数缶とスナック菓子が詰まっていた。

 「ありがとう!! サンキュー!」

 鮫島は嬉しかったのか、その中身を見るや否やカタカナ英語を使って外国人に感謝の意思を示すと子供の様に跳びはねる。

 「そういや、最近じゃ何処の店にもお酒は売って無いよな」

 「お祭り気分?」

 「そんな所だろうな、泣いたりわめくより、酒を飲んでどんちゃん騒ぎして過ごしたいんだろ、みんな」

 「そんなことしなくても、私がみんなを助けるのに」

 恥ずかしげもなくそんな事を呟く鮫島、本人も自分がやっている似非魔法では現状を変えられないと知っている筈なのだが、それでもどこか自信にあふれた言葉だった。

 「随分と平和だよな……」

 世界が終るとなれば、誰かしら犯罪に走り、好き勝手に暴れる人間が現れると思っていたのだが。

 流石に20年前から予約されていた結末だ、恐ろしい程誰もが皆落ち着き、そして先ほどの外国人の様に何処か楽しげに過ごしていた。

 一応何かあってはいけないと思い、入鹿は彼女を毎晩家まで送っては居るのだが、それは杞憂に過ぎないのだろう。

 世界が終る直前位は皆笑って過ごしたいのか、それとも明確な終りが見えているからか、世界はこれまでに無く穏やかであり、電球が切れた街灯や不法投棄された自動車が転がる街中は、その外見に似合わなく不自然な程平和だった。

 「平和平和! いつもよりも平和!」

 仕事に先ほどの似非魔法にと、それなりに疲れているはずなのだが、子供の様に小さくスキップをする彼女の横顔を見て小さく溜め息をする入鹿。

 何処までが素の反応なのか、彼女の言動は子供のそれ以上に純粋で無垢ではある、だからなのか、そんな彼女の仕草の一つ一つが危な気であり無意味に庇護欲を刺激する。

 そして何より、自分が出会った時とは違った魅力を持ち、そして作り物の様に整った横顔と、出会った時から変わらない彼女の内面を見るとずっと抱いていた思いが強くなるのを感じる。

 柔らかな髪とスカートの裾をぴょこぴょこと揺らして歩みを進める鮫島、そんな彼女を静かに見つめると、入鹿は一つ息を吸いこんだ。

 だが、何かを言いかけてから直ぐに口を閉じると、当たり障りのない話題に切り変えて足を進めるのだった。

 臆病だと言われたくは無い、だが、どうせ世界が終るその瞬間に何処かぎくしゃくした係になる事が怖かったのは事実だ。






 鮫島との出会いは丁度最初の隕石騒動が終わった時期だ。

 小学校に入学し、ピカピカのランドセルを抱えて門をくぐった入鹿は、決められた教室の指定の椅子に腰かけ、真新しい筆箱に印刷されたアニメのイラストに見入って自分一人の時間を堪能していた。

 もともと入鹿はあまり元気な子供では無く、どちらかと言うと孤立しがちな目立たない子供であり、幼稚園に居た頃はおろか、義務教育が始まって2週間経過してもまだ友達らしい友達は作れていなかった。

 だから一人空想に没頭し、休み時間も机から腰を上げず大人から見たら真面目な子を演じていたのだが、不意に彼が見ていた筆箱に影が落ちた。

 その影の主こそ、鮫島未来だった。

 入鹿と同い年、入鹿よりも当時は少しだけ身長の高かった彼女は、腰くらいまで伸ばされた髪を垂らすと入鹿の持っていた筆箱を指差し、一言『かっこいい』と言ったのだ。

 それからと言う物二人は幼いながらに意気投合、偶然家の位置も近かった為、毎日一緒に家に帰り、筆箱に書かれたイラストの元になったアニメについて飽きもせず語り。

 毎日どちらかの家に行くと、ランドセルをほっぽり出してテレビに夢中になった。

 とはいえ、子供ながらに恋心と言う物には疎く、この時も単に仲のいい友達という間柄ではあったのだが、親やクラスメイトに下手気にそそのかされたのを恥ずかしがった入鹿は、一方的に彼女を嫌い気が付けば疎遠な仲になっていった。

 とはいえ、そのおかげで入鹿は他の友達とコミュニケーションが取れる様になった入鹿は、至って平凡な学生生活を送れる様になった。

 鮫島とは中学までは同じ学校に通っていた為に顔を合わす機会位はあったのだが、高校に入学するころには完全に顔を合わさなくなり、更に名前も半分忘れかけてた数年後の事。

 入鹿は社会人になり、慣れた事務処理に華を咲かせていた時、会社に中途入社の新人が入る事になった。

 当時入社二年目でありたった5人しか居ない会社で一番の若手だった入鹿は、上司の『可愛い子だぞ』という売り言葉に『無理矢理』釣られ、新人の教育係を務める事になった。

 そしてその新人こそが、中学を卒業してから顔も見ることが無くなっていた鮫島であり、久しぶりに見る幼馴染だった。

 「見て見て! 氷が溶けてる!」

 「ああ、溶けてるな」

 「謎も溶けた!」

 「字が違う字が」

 目の前に溜まった書類を片付けつつ、入鹿は目の前に差し出された元々アイスコーヒーだった物をむんずと掴み、ごみ箱へ捨てる。

 近場のコンビニで買ったであろうそれは、今となっては氷と溶けた水が入ったプラ容器であり、彼女にとってもごみでしかないと思ってたのだが、わざとらしく頬を膨らませると鮫島は椅子に座り直してじっと入鹿の顔を睨む。

 「なんだ?」

 「熱いハートに溶かされたの!」

 「いや、この部屋の熱気で溶かされただけだろ」

 「つまり熱いハート!」

 「だからちげぇよ、っつうか黙ってろ」

 「熱いハー……むぐっ……!」

 そう否定を加えつつ、先ほどから五月蠅い彼女の口に消しゴムを投げ込むと入鹿は溜め息一つ吐いてから雑巾で床を拭き掃除する。

 「悪いねえ、もうそんなに時間は無いんだし、会社に来なくても良かったのに」

 「いいえ、自分にもこの会社には愛着があるので」

 集合ビルの一室、入鹿達が務める会社のオフィスには彼と鮫島、そしてこの小さな会社の社長である釧谷の三人が居た。

 そんな彼らは今後使われる事が無いであろう事務机の下に潜りこむと、手に持った雑巾で丹念に床を拭き掃除していた。

 「そう言ってもらえると嬉しいよ、皆にとっては小さな会社でも、私にとっては大切な宝だから最後の時位綺麗にしたくてね……」

 「最後にはしないよ! 私が頑張る!!」

 色々と思う節があるのか、釧谷は感慨深い表情でリノリウムの床を磨いてり居るのだが、その感傷的な空気をぶち壊す様に鮫島の元気のいい声が響き、顔を上げてみると『さぁ私をあがめよ』と言った具合で雑巾片手にポーズを決めた彼女の姿があった。

 「期待してるよ」

 「期待してて、社長さん!!」

 釧谷としてははなから期待していない様子なのだが、鮫島はよほど自身があるのかその言葉に一切の迷いが無い当たり、本当に凄い奴だとつくづく考える入鹿。

 たんまりと蓄えた皮下脂肪の影響で、通常よりも丸みを帯びた社長にとってこの会社は思い入れのある物であり、家族を持たない彼にとっては自分の子供の様な物である事も容易に判断出来る。

 だからこそ、彼は企業と言う物が意味を持たなくなった今でも、会社に足を運び今後使われる事の無いオフィスを掃除しているのだ。

 それと引き換え、鮫島と言えばそんなメランコリックな状況はどうでもいいのか、赤く塗りつぶされていないカレンダーの日付に従い、あくまでも通常の業務として足を運んでいた。

 何処からそんな自信が湧いて出るのかは不明だが、彼女はよっぽど自信があるらしい。

 つまりは、世界が終るから掃除をするのではなく、今後も働くために掃除をしており、彼女の感覚としては年末の大掃除と同じなのだろう。

 そうなると、実家からさんざんラブコールを受けている入鹿がこの場に居る理由は限られてくる。

 口では会社が好きだと言ったが、実際は口に出す程愛着がある訳では無く、かといって鮫島と同じように来年の今もこの場所に居られるとは思っても居ない。

 「さて……と、もう5時なったし、今日はおしまいにしようかね」

 額に浮いた汗を拭うと、社長は壁に掛けられた年季の入った時計を見て一息ついてからそう告げた。

 去年の今頃はまだ必死に溜まった残業を処理していた時間だが、今となってはクライアントから仕事の依頼は来ない。

 ましてや、事実上会社は機能停止をしているため、求人票に記載されていた定時を正確に守る事も用意な様だ。

 「それじゃ俺バケツ片付けときます」

 入鹿はそう言うと、汚い水が詰まったバケツを手に取り立ち上がる。

 だが、そのバケツを奪い取った釧谷は、にこやかに笑うと言葉を繋いだ。

 「いいよいいよこのくらい私がやるから、君は家にでも帰って、ゆっくりと風呂に入って寝なさい」

 「いいんすか?」

 「いいよいいよ、これは私のわがままだからね」

 いつもは何処か不貞腐れた様に椅子に腰かけ、使いなれないパソコンを人差し指二本で操作している彼だが、一人でやると決めていた掃除を入鹿達が手伝ってくれた事が嬉しかったのか、それとも世界が終るまでの間せめて上機嫌でいようと決めているのか、兎に角上機嫌だった。

 「それじゃちょっとやることやって、俺家に帰りますけど鍵とははどうします?」 

 「いつも通りしなくていいよ、どうせ悪さする人なんていないんだしさ」

 家から持ってきていた大きなバッグを抱え、オフィスを飛び出す鮫島を追いかけるように足を進めた入鹿の言葉に、釧谷は何処か含みのある声で返事をして親指を立てて見せる。

 「ま、頑張って!」

 「なんすかそれ」

 今更隠す必要も無いとは言え、此処まで露骨な反応をされるとむずがゆくてしょうが無い。

 だが、そんな事にいちいち噛みついていてもしょうがない為、入鹿は鼻を鳴らすとオフィスを後にし、階段を登りきると重い扉を開いて屋上に出る。

 「っつうか、前より大げさになってないか?」

 「気のせい気のせい……」

 案の定鮫島はお馴染みの魔女っ子衣装に着替えており、手に持っていたチョークで床に細かな模様を書き足していた。

 どうやら彼女なりに魔方陣を改良したのか、床に描かれた星型のあちこちにはこまごまとした奇怪な模様が追加されており。

 その円陣の中心には何処で手に入れたのか、良くファンタジー作品でお目にかかる銀色の聖杯が鎮座していた。

 「それで? 今度はどんな呪文を試す気?」

 「これ!」

 その質問を心待ちにしていたのか、鮫島無邪気に目を輝かせると、帽子の中から一冊の本を取り出して掲げて見せる。

 「えっと……『続・現代黒魔術Vol.7』って、どうやったらこんな胡散臭い本が此処まで続くんだよ」

 彼女が持っていた本には、やはり胡散臭いデザインのイラストが描かており、ネタにしても買う気は起きないのだが、『Vol.7』という文字や、その前に書かれた『続』の文字を見る限り、この本はそれなりに連載されていた物だと判断できる。

 「全8巻、でもね、この巻しか見つけられなかった……」

 よっぽどショックだったのか、肩を落として俯く彼女。

 「まぁ名作ってのは最終巻より、そのちょっと前の巻の方が良くできてる物さ……兎に角その魔法を試してみたら?」

 元気無く俯く彼女を元気づける為の言葉を慌てて紡ぐ入鹿に、今度は水を注いだ魚の様に目を明るくすると所定のページを開いて魔方陣の中心に立つ鮫島。

 そして目を細め、詩人の様に小さく落ち着いた口調で言葉を紡ぎ始める。

 「我命ず……こんがり溶かしバターとふわふわパンケーキの名の元受け入れよ……真の力を持つ、真の理よ――」

 色々と可笑しいというか、お菓子い具合の呪文にあっけに取られはするが、此処で突っ込みを入れたら彼女の気を害してしまうと思い、一瞬開きかけた口を必死に閉じる入鹿を余所に、鮫島は呪文の最後の一小節に取り掛かる。

 「現れよ掻き乱す物! ハンドミキサー!!」

 「いや、おかしいだろ!!」

 無茶苦茶な呪文を自信満々に唱えた彼女にとうとう突っ込みを入れてしまう入鹿。

 彼の言葉が邪魔をしたのか、まぁその可能性は限りなくゼロに近いのだが、案の定寒々しい具合の風が屋上を控えめに駆け抜けただけで、これといった変化は起きなかった。

 「ハンドミキサー!! あれ……フードプロセッサー!」

 「そこ以前の間違いだろ」

 彼女は最後の一文を間違えたと勘違いしたのか、慌てて別の言葉を紡ぐがやはり結果は同じだ。

 というか、初めから出鱈目な呪文なのは検討が付いていたが、それにしてもこの呪文は酷過ぎであり、何故彼女が此処まで本気で呪文を唱えたのか気になってしょうがない。

 「むぅ、修行不足……」

 「だから……兎に角、為すにしても別の呪文の方が良いんじゃねぇか?」

 「次に期待!!」

 やはり子供の様に、それとも山の天気の様にころころと表情を変える彼女の表情は、やっと笑顔の形で安定すると、役目を終えた本を閉じて鞄に仕舞い込み立ち上がった。

 「あれ? もう帰るのか?」

 「新しい呪文探さなきゃ」

 「あーね、そうか……」

 入鹿は、今日こそはと振ろうと思っていた話題を飲み込むと、彼女に同伴する為に彼女の鞄を受け取り空を見上げる。

 「あと1週間か……」

 空に浮いた月は、昨日よりも一段と大きく成長していた。






 「彼女、屋上に居るよ」

 会社に到着するなり、特等席となった椅子に座った釧谷は天井を指差して見せる。

 「社長までそんな事言うんですか?」 

 「別にもうすぐ終末なんだ、無礼講って物でもいいじゃないか」

 「まぁ確かに……そういやこれ、おすそ分けです」

 そう言った入鹿は、鞄の中から一つ缶ビールを取り出すと少しだけ豪華な釧谷の机に置く。

 「おお、良く手に入れたな架古野君」

 「いや、帰り道の途中で毎日バーベキューやってる外人さんからもらったんですよ、折角だから今日飲んじまおうかなって」

 それは先日公園で外国人から貰った物だった。

 その外国人は今も呑気にバーベキューをやってると思ったのだが、流石に少しだけ不安なのか、頭から紙袋を被った状態で地面に寝転んでいた。

 正直その行為にどんな意味があるのかは不明だが、それが彼らなりの最後の時間の過ごし方らしい。

 「それじゃ折角だし、頂こうかな……ってわわっ!」

 電気が止められた為にそのビールを冷やされていなかったが、折角の貴重品の為、釧谷は封を切ると噴き出した泡に悪態を突きつつも口を付けるのだった。

 「それじゃ俺、屋上行ってます」

 「はいよ、それじゃ架古野君、良い終末を」

 「社長こそ、良い終末を」

 缶ビールから口を離して、そんな言葉を言う社長に同じように返事を済ますと歩き慣れた階段を上る入鹿。

 もう時間は残されていない、そんな時でも社長は相変わらずお気に入りの椅子に腰かけ、何をするでも無くそれなりに老朽化が進んだオフィスを見渡していた事は、想像が出来なかった訳では無い。

 寧ろ彼ならそうしているだろうとは思っていたのだが、それでも実際に椅子に腰かけた彼を見ると、何処か現実味が欠けていた。

 今日は特別な日だ、だからこそ皆が思い思いの場所に居座り、ゆっくりとした気持ちでその時を待つ。

 もしかしたら慌てふためき、そしてまだ嫌だと無意味な抵抗を繰り返すのかもしれないが、流石に20年も前から成されていた約束だ、期限が決まっていたおかげか、不思議と皆が大切な時間をもてあます事無く皆が人生に満足したと言った具合なのだろう。

 寧ろ、かなり不謹慎な考えではあるのだが、終末がやって来るお陰で、ただだらだらとして過ごすはずだった人生を、皆が謳歌出来たと考えるとこれは幸せな事なのかもしれない。

 そう、世界は今夜終りを迎えるのだ。

 20年以上前から約束されていた終末は、皆に惜しまれながらも目の前に迫って来ていた。

 「ラーツァハルトォ!」

 いつもの扉を開くと、いつも通り元気な声が聞こえて来た。

 その声の主は相変わらずの鮫島であり、こんな時でも飽きもせずに胡散臭い呪文を唱え、そして両手を振りかざしていた。

 今となっては見慣れた魔女服はあちこちがほつれ、ある意味本物よりも本物らしい雰囲気すら漂わせている。

 だが、あちこち破け古びたお手製の衣装とは違い、それを身に纏った彼女はずっと昔から何一つ変わっていなかった。

 何時まで経っても子供の様にあどけなく、そして危なっかしい。

 優柔不断で何時まで経っても結論が出せない癖に、一度決めた方針は断固として変えない頑固さ。

 それが鮫島未来と言う人物だ。

 だが、そんな人物だからこそ入鹿は鮫島を見ていたかった。

 同じ空間を共有し、いつも通りあきれ顔で彼女の後姿を見守りたい、それが入鹿の最後の願いだった。

 「えっと……浅く焼けたマーマレード、白く忘れたホットミルク、魔法の呪文――」

 鮫島は先ほどの呪文も効果が無いと分ったのか、懐から新しい本を取り出してその中の一文を読み上げて行く。

 聞いているだけで胡散臭い、というかそれ以上にばかばかしい具合の言葉の旋律なのだが、その理由は聞いてるうちに直ぐ分った。

 「それってよ、子供向けのアニメの奴じゃねぇか?」

 鮫島が唱えている呪文、それは最近ちびっこの間で人気のテレビアニメの物だった。

 終末まで後1月を切る頃に最終回を迎えたそれだが、何かと娯楽が減ってきた近頃、安っぽい呪文が登場するアニメでも、子供にとっては恰好の娯楽だった。

 「そんなんどう考えても呪文としては間違……」

 そこまで口ずさみ、不意に一つの考えが浮かんだ。

 今まで鮫島は本気で月を追いやろうと考えてると思っていたが、実際は違うのかも知れない。

 最初こそは彼女なりの抵抗として、こんな似非魔法を行ってきたのかもしれないが、今となっては彼女自身が呟く呪文はどんなものでもいいのだ。

 彼女は単に、これまでと同じように時間を過ごしたい。

 最後の最後まで月に抵抗している自分で居たかった、だから飽きもせずこんなことをやって、終末が目前まで迫った今日も、彼女は空を見上げて呪文を唱えるのかも知れない。

 「そう言うところが不器用なんだよな」

 入鹿は小さく息を吐くと、鞄の中から缶ビールを取り出して封を切る。

 缶は此処に来るまでに散々振られていた様で、先ほどオフィスで封を切られたそれと同じ様に派手に泡を噴き出す。

 「うわっ……っと」

 缶を伝うそれがスラックスを濡らさない様に手を伸ばして缶を退けると、小さく悪態を吐く。

 程なくして泡は収まったのを見計らうと、缶に口を付けて一気に喉を鳴らして飲みこんだ。

 普段は酒など飲まず世間的には間違いなく下戸の部類に入る彼が、こんな勢いよく酒を飲むと次の日は決まって二日酔いに見舞われるのだが、今となってはどうでもいい。

 どうせ二日酔いよりも早く、この世界は終わってしまうのだ。

 だったら最後位羽目を外してしまおう、散々今まで真面目にやったのだから、それが彼の考えだった。

 まるで水を飲む様に一気に缶の中身を飲み干すと、空になったそれを地面に置き懐から煙草を一箱取り出す。

 終末が近づくにつれ、健康志向と言う物はどんどん薄れこのような嗜好品は一気に需要が増えた、入鹿もその様な人間の一人であり、高校時代に覚え社会人になってから辞めていた煙草を、再び吹かす様になっていた。

 だが、こうして少しの間距離を置いていた嗜好品だからか、一度口を付けるとその味は直ぐに馴染み、改めて自分はこれが好きだったのだと再確認する。

 「ラス一か、これ吸ったらまた禁煙かな……」

 入鹿は最後の一本となったそれを咥えると、皮肉を一つ呟きライターで火を点けて息を吸い込む。

 煙草の葉が乾燥しすぎていたせいか、吸い込む煙は何時もよりもとげとげしく辛い、ならば今咥えているそれを捨てればいいのだが、それをする気が起きない当たり、自身はよほど意思が弱いと再確認する。

 どうせなら、そんな思いがあるからこそ、何時も大事な事を先延ばしにしてしまうのだ。

 たとえば……

 「なぁ鮫島」

 「『光の刃』よ来たれ!!……ん?」

 丁度呪文を言い終えたのか、大きく声を放った彼女は此方を振り返る。

 その仕草は一々大げさで、その上落ち着きが無い為か、その姿は何処か小鳥を思わせ愛らしい。

 だからこそ、その見慣れた光景を今後見られ無くなることが辛くもあった。

 「魔法は成功か?」

 「……わからない……」

 案の定何の変化も見せない魔方陣、その中心で彼女は肩を落とすと力無くそう返してきた。

 どこまで本気なのかは分らないが、彼女なりに今回の魔法に力を入れていた様だ。

 もしくは、『本気で魔法を信じた自分』という主役を演じていたのかもしれないが、今はそんな事どうでもいい。

 どちらにしても、後半時もすれば終末がやって来るのだから。

 空を見上げれば巨大な月が此方へ近づき、その影響からか辺りは強風が吹き荒れていた。

 お陰で鮫島がセットした蝋燭の炎は消え、入鹿が地面へ置いた缶は風に舞い何処かへと飛んで行った。

 「あのな鮫島、その……」

 簡単な一言だ、口に出すのはずっと簡単な筈なのに、いざ声にしようとすると喉の奥でつっかえてしまう。

 慣れている相手の筈なのに、一気に緊張して胃が締め付けられるような感覚すら覚える。

 「どうしたの?」

 「そのだな……俺……」

 何時もとは違う入鹿の様子に僅かに首を傾げる鮫島、その仕草はやはり小鳥の様だ。

 「俺はだな……その……」

 自分に対して『ガキかお前は!』と渇を入れたくなるが、思っていた以上に口は言う事を聞かず、喉は震えてばかりだ。

 そんな中、少しでも気を紛らわせたらと空を見上げてみたら、不思議と肩の力が抜けた。

 約束通りにやって来ている月、それは確実にこの世界を飲み込むだろう、そう思ったら何か今自分が置かれている状況などちっぽけな事に思えてきた。

 『どうせ終末が来るから』そう口に出すとネガティブでしか無い理由だが、その理由は入鹿の緊張をほぐすには十分すぎる効果を発揮していた。

 「鮫島、俺はお前の事が――」

 意を決して紡がれた力強い言葉、それは途中から途切れてしまい肝心な彼女の耳には届かなかった。

 何故なら、不意に光り輝いた魔方陣の中心、そこに置かれた聖杯から放たれた一筋の光が、上空で待機していた月を木っ端みじんに砕いたからだ。

 「――だ……ぁあ!!!?!?!?」

 訳分らない声を発した入鹿、『開いた口が塞がらない』とはこういう事態を指すのだろうが、彼は内心『本当にやりやがった』と考え、遅れて小さく笑うのだった。

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しゅうまつの過ごし方 @nekonohige_37

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