第四・五章「磯際の破れ船」

磯際の破れ船


「これははずみだ」

 奥まった暗い部屋の中で、李林甫りりんぽはとある僧侶に一つの袋を手渡した。金の重みを感じ取ると、その僧──宝志ほうしは頭を下げながら微笑を浮かべる。それと並行して李林甫もにこやかに笑ってみせた。

「まさか人の心まで操れるほどの凄腕だとは思わなかった」

 宝志は李林甫の言葉を聞くと「いやいや」と腰を低くする。

「貴方様の策略が良かったのですよ。私は少し手助けさせていただいただけでございます」

 そう言う宝志に李林甫はにこやかな笑みを浮かべる。その笑みと袋の中の金には、これからも頼りにするぞという意思も現れていた。


 この二人が出会ったのは野馬台詩の試験を行う際のこと。真備の傍に鬼となった仲麻呂がついているという情報を手にした李林甫は、死霊相手ではどうしようもないのではないかという焦りを抱いた。しかし、頭のまわる彼のこと。術には術を、という考えが浮かんだのは、仲麻呂の話を聞いた直後のことであった。

 だから安禄山をはじめ、顔の広い官僚や儒学者達に命じて凄腕の呪術師または僧侶を探し始めたのだ。その時に宝志という名があった。何やら不思議な力を持っているという僧で、金品さえ与えればそれ相応の力を貸してくれるとの噂。そのがめつい性格に腹を立てる者もチラホラといたようではあるが、李林甫に関しては今一番の権力者である。もちろん大金を払うなど容易いことであるし、宝志としてもこれほどおいしい話はない。つまりはウィンウィンの関係であったのだ。


 よって、李林甫の仕事を受けようと決めた宝志は様々な術を使ってみせた。野馬台詩の試験の際に、結界を張ったり真備の視界を奪ったりしたのも宝志であるし、真備が仲麻呂を疑うよう仕向ける手伝いをしたのも彼である。心を動かすことに長ける李林甫に、真備を疑惑の道へと誘導させた上で宝志が気持ちを高ぶらせる術をかけたのだ。

 その術の効力で冷静さを欠いた真備に、李林甫が最後の一押しをかける。その結果、真備は思い通りに操られてしまい、仲麻呂を刺すという事態が発生してしまったというわけだ。


 作戦を成功させた二人は互いに微笑み合うと、深く礼をして別れた。

 もう、彼らの計画は終わろうとしている。仲麻呂は真備の手によって殺され、その真備も高楼に閉じこめた。李林甫はもう真備の元へ食事を送ろうという気はない。それどころか、あの高楼に近づこうとさえしなかった。

 つまりは餓死させようとしているのだ。これで目障りだった二人の異国人を消し去ることができる。


 李林甫は勝ち誇った気持ちで椅子に腰掛けた。誰もいなくなった部屋を蝋燭の灯りがぼんやりと照らす。その灯火をうつした李林甫の瞳は完璧に勝者のそれであった。これで皇帝の寵愛をうける者が減って、信頼はほぼ全て自分に向く。そしてその信頼を持ってして皇帝自身をも操れるようになってしまうのだ。


 李林甫は軽く肩を揺らして笑いながら窓の外を見上げた。そこに白い月はない。ただ、黒い闇が覆い尽くすばかりだ。


 もう月は消えた。李林甫は心の中で呟いて、手元にある木簡に目を移す。まもなく日本から新たな遣唐使が来るとの連絡であった。

 そこには、日本側が下道真備しもつみちのまきび阿倍仲麻呂あべのなかまろ、そして白猪真成しらいのまなりの帰国を求めてくるだろうということも書いてある。

 李林甫は最後の名前を見て、援助を頼まれていたことを思い出した。しかしもはや真成を助けようという気はさらさらない。むしろ日本に帰るか怪我が悪化するかの二択を望んでいた。

 しかし真備の話によると傷はかなり深いのだろう。放っておいても自ら死に向かっていってくれるほどに。


 李林甫は微笑しながら木簡をくるくると巻いた。これで皇帝陛下の耳にその名を轟かせた三人を闇に葬ることができる。日本の官吏たちには悪いが、彼ら······特に阿倍仲麻呂に関しては消えてもらわねば都合が悪いのだ。彼は日本へは帰らない。いや、帰れないのだから。

 皇帝である李隆基りりゅうきが仲麻呂を唐に留めおこうとしている話は李林甫の耳にも入っていた。李隆基は科挙系の人間だけに話をしたつもりなのだろうが、李林甫ほどの人脈をもってすれば大抵の話は耳に届く。万一にも彼が唐に残るとなればこちらの都合が悪くなる。彼が皇帝に愛されては困るのだ。


 だからこそ作戦を決行した。仲麻呂を抹殺しようという作戦を。

 そして今、成功した。そう、李林甫の中では成功していたのだ。だから彼は微笑むと、月のない空を見て優越に浸る。


 しかし、彼は大切なことを見落としていた。成功を間近にしながらあることに気がつけなかった。

 それは、窓の外に広がる暗い暗い空の中、ひっそりとその身を隠し続けているもの。いや、李林甫が空を見上げている今でも、確かにそこに存在しているもの。

 光はなくとも、光を失っていたとしても、それは確かにそこにあるのだ。

 闇夜の中の道しるべ。丸く清らかな白い月が。






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