にがくて、あまい

霧崎圭

にがくて、あまい

「――にがい」

 暦の上では春でもまだまだ寒い2月の教室。机の上に広げたお菓子を口に入れて結衣が渋面を作る。おそらくコンビニの新商品なのだろう。着色料で淡いピンクに色付けされたそれは、おそらく砂糖がたっぷり使われていて、適度に歯に悪そうだった。

「うえー苦いようアキちゃあん」

結衣はそう言って机の下で足をバタバタさせながら小さくて丸い顔を歪める。私は少し呆れ気味にため息を付いた。

「だから言ったでしょうに、今のあんたじゃそうなるって。てかまたなんで分かってて買うかな……」

「だって今日はひょっとしたらって思うじゃん。それにお菓子に罪はないよ!」

「いや、意味分かんないし」

 そう言って結衣の脇からお菓子を取って口に放り込む。ふむ確かにこれだと今の結衣にはゴーヤを生でかじっているようにしか感じられないだろう。たぶんそういう甘さだ。

「思春期症候群」――と言うらしい。

 いわゆる思春期と呼ばれる時期に差し掛かった私たち十代の少年少女にのみ現れる不可思議な現象。曰く、「人の心の声が聞こえた」、「心が入れ替わった」、などそうそう信じてもらえなそうな話が、ただでさえ信用度の低いネットの中にゴロゴロと転がっていて、それが実際に起きている――らしい。私もこうして実物が近くにいなければ信じられないだろう。

 結衣の症状は「甘み」が「苦味」にしか感じられない、というものだ。他の味覚は普通だが、「甘味」のみ「苦味」に変換されてしまうらしい。そしてその「甘味」が強ければ強いほど「苦味」も増す。まあ、より痛そうだったり深刻だったりする症状例もネットに上がっているのを見ると、結衣のはきわめてささやかかつ軽い部類に入るのかもしれない――なにせこちらは原因がほぼ分かっているのだから。

「よう、岡島、津川」

 どこか脳天気な声に呼び止められ、私たちは二人揃って顔を上げる。背高のっぽの大きな体にくせっ毛の小さな頭をのっけた彼が、私たちの前にいた。私は目の前の見慣れた顔に話しかける。

「何、オオサコ」

「『オオハサマ』、な。どっちでもいいけどさ」

 オオサコもとい大迫オオハサマはうちのクラスの男子だ。身体が大きく、いつものんびりとした感じで走っているところを見たことが無い。性格も身体に引きずられてしまったのか徹底的に穏やかで、細かいことは気にしないたちだった。クラスのほとんどの生徒はおろか先生にまで「オオサコ」と呼ばれても気にするどころか、「俺もずっと実は『オオサコ』なんじゃないかと思ってたんです」と言うぐらいには。

「岡島、城島先生が探してたぞ。保険委員会の用事があるって」

「ありゃ、ごめんオオサコくん。すぐ行くよ」

「うん、じゃあな」

 そう言って私たちのいる机から離れていくオオサコを結衣は熱っぽい視線で見つめていた。いや厳密には会話をしているときからずっとだった。傍目から見ても分かりやすいぐらいで、こういう時私はオオサコの鈍さにイラッとくる。

 結衣は不意に机の上のお菓子を口に含む。

「……どう?」

「……甘い。いつもどおり」

 ――結衣の味覚異常はオオサコが視界に入っているときだけ何故か治る――つまりはオオサコへの恋心が原因である――それが私たちの結論だった。




 結衣から奇妙な症状について相談されたのはひと月ぐらい前のことだ。「甘いものを食べても苦味しか感じない」という。最初聞いたときはいわゆる思春期症候群とは結びつけられず、なにかしらのストレスが原因の味覚異常(正直結衣がそこまで追い込まれること自体考えられないが。)だと思った。

 しかし色々と検証してみた(――おかげで結衣の体重が少しばかり増加した)結果、

 ・それ以外の味覚は普通である。

 ・食べるものが甘ければ甘いほど苦味が強くなる。

 ということが分かり、

 ――これはひょっとしたら思春期症候群というやつではないか――

 と少しばかり思い始めていた矢先、決定的な出来事が起きた。

 結衣の味覚が一時的に戻ったことが何回かあったのだ。色々と話を聞いて見た結果、味覚が戻った瞬間、会話をしたり極めて近くにいた人物が一人だけいた――オオサコだ。

 心当たりが無いかと聞いてみたところ、少しうつむいたあと普段の結衣から考えられないほどおずおずとした声で、小さく答えた。

「――あのさ、わたしオオサコくんのこと、好き――かも」

 その時の結衣の頬がほんのり赤みを帯びていたのも、声に聞いたことのないような熱が帯びていたのも、夕焼けでそういう風に見えたのではなかった。

 全部、本当だった。




「彼の何がいいの?」

「オオサコくん?」

「この流れで他に誰がいるのよ」

 休日の電車内は色々な層の客で混んでいた。その日、私は前日の夜に結衣にSNSで呼び出され、翌朝には結衣と一緒に少し大きな街に行く電車の中にいた。なんでも「てっとり早く治す方法を思いついた」らしい。

「中学の時から一緒だけど、いつもボーッとした感じだしさ。そりゃ人畜無害な感じはあるけど……」

「ボーッとはしてないと思うよ。ちょっと人とタイミングはズレてるけど」

「それボーッとしてるって言わない?」

「言わない。結構色々良く見てると思うよ」

 ふーん、と私は返す。だったらもう少し結衣のことも色々気づいてほしいと思うところだが。

「どこがいいのって言われても……強いて言うなら『空気』かなあ」

 結衣は少し考え込んでから答える。

「いつも電車で一緒になってよく話すんだけどね。オオサコくん話してるとふんわりしてて落ち着くんだよね。春先干した布団みたいな感じ。安心できてちょっとだけ眠たくなる」

「それいいとこ?」

「もー、アキちゃんはー。 いいとこだよー」

 ――まあ分からなくはない。オオサコは他の同年代の男の子と比べてみてもがっついてなくて、いい意味で浮き世離れしていた。結衣も一見ふわふわとした感じだが、そういう雰囲気には真に敏感で、だからこそ本当に「同類」であるオオサコに惹かれるのだろう。

「ねー、わたしからもいいー?」

「なに?」

「なんでアキちゃんわたしの話割とあっさり信じたの? 目に見えるわけでもないのに」

「別に信じてるとかそういうわけじゃないけど……あんたまずウソつかないしさ、ウソついてまで私の気引く気タイプでもないし、理由もないでしょ。消去法」

「ふーん」

「……で、そろっとどうやって現状を打破する気か教えてくれない?」

「ああ、そだね。えっと今度のバレンタインに告白する! 以上!」

 わお、シンプル。でも、結衣らしい。

「というわけで今日今からチョコレート買いに行くからちょっと手伝って! ほらわたしの舌、今このとおりだし」

「別にいいけどさ……いいの? こっぴどくフラれるかもよ」

 オオサコはそこそこイケメンなのと、その人畜無害さから割と他の女子にも人気があった。また今の所フリーではあるようだが、だからといって付き合ってくれるとも限らない。

「んー。そうだねえ……でもさ」

 結衣は外を見つめる。電車の窓の中の景色は住宅地を、ビルを、いろんなものを置き去りにして進んでいく。

「……結局さ、これって平たく言えば恋の病じゃない?」

「まあ、そうだね」

「で、恋の病じゃないって成就するか、こっぱみじんになってフラれるかしか解決方法が無いと思わない? 今のままでいるより、ずっといいと思う」

 良くならないかもだけど、きっとすごく悪くもならないよ。最後に付け加えるようにして言った。私は一瞬返すべき言葉を見失う。結局少し考えて出てきたのは、

「……そうかもね」

 という言葉だけだった。電車は相変わらず周囲のものを置き去りにして進んでいく。




 そして2月14日、バレンタインデー――の放課後。

「――まだ渡してない、と」

「――申し訳ございません」

 赤い日差しが差し込む教室の自分の席で、結衣はうなだれながら言った。机の上には先日散々吟味して選んだチョコレートが置かれている。

「いざ、渡そうと思うとなんか色々邪魔が入って……なんかそうしてると色々考えちゃって……本当に受け取ってもらえるのかな、とか……」

「――ったく」

 つくづく思い切りがいいのか悪いのか。――でも、そういうところが好きだと思う。私の想像以上に色々なことを考えていて、色んな顔を見せる結衣が。

 だから――

 ――私はスマートフォンを取り出した。少しだけ間を置いてからSNSのトーク画面からオオサコにメッセージを送る――「オオサコ、少しいい?」

 ややあって返答――「何?」

 すぐさま返信――「結衣があんたに話があるみたいだから中庭で待っててくれる?」

 少し間――「別にいいけど――なんで岡島が?」

 今日が何の日か分かってないんじゃないかこいつ。少しイラッとしつつ返信する――「いいから待ってて」

 しばらくして「分かった」と返ってきた。よし、これでいいだろう。

「……中庭にオオサコ呼び寄せといたから。行ってきな」

「えっと、アキちゃん――」

「言ったよね。『今のままでいるよりずっといい』って。『良くもならないかもだけど、すごく悪くならないよ』って。……私もそう思うよ。だからここにいてじっとしてるのは違うでしょ」

「…………」

「オオサコ、帰宅部だし早くしないと帰っちゃうよ。思春期症候群とか関係なしにさ――後悔するの、イヤでしょ」

 結衣はしばらくするとスッと立ち上がった。それから小さく「行ってくる」と言って教室を駆け出していく。その目はまっすぐ、ここではないところに向かっていた。

 私は結衣が出ていってからしばらくして中庭のほうを見た――学校の中庭はちょうど私たちの教室の窓から見える位置にある。見るとオオサコのところに結衣が駆け寄ってなにか渡しているところだった。それを確かに見届けてから私は教室を出た。




 外はすっかり日が落ちて暗くなっている。

 学校の近くの公園のベンチに座った私は、カバンの中からきれいに包装された箱を取り出した。周りに誰もいないことを確認してから包み紙を外し、蓋を開ける。色とりどりの可愛らしい形に整形されたチョコレートが小さい箱の中に整然と並んでいる。私はその中の一つをおもむろに口の中に入れる。

「……にっが……」

 ――結衣は聞いた。何故自分の話をあっさりと信じたのかと。結衣はウソをつかない、それも確かにあった。けれど理由はもう一つある――

 ――すなわち、だ。

 最初聞いたときは正直信じられなかった。自分と全く同じような症状だったからだ。けれど、その後の色々な検証や、結衣の告白を受けて全く同じものだと確信していった――最悪の形で。

 そう――

 二つ目のチョコレートを口へと入れる。口の中に溶けるのと一緒に強い苦味が広がっていく。最初にこれを感じたのはいつだったろうか。確か二年前だ――中学二年の冬、オオサコにバレンタインチョコレートを渡しそこねた時。あの時からずっと、口の中にこの苦味が住み着いている。

 決して近くもないが遠くもない、悪くもないが良くもない――そういう中途半端な状態から動きたくないから何もできなかった。それでもこの季節になると渡せないチョコレートを用意してしまう。

 ――結衣は私よりずっと立派だ。停滞よりもこっぱみじんになってもオオサコくんとの関係をはっきりさせる道を選ぼうとした。だから、ほんの少しだけ背を押してあげたいと思った。それが自分自身にトドメを指すかもしれないと分かっていても。

 三つ目を口に入れた。オオサコは結衣のチョコレートを――想いをきっと受け取ってくれるだろう。お似合いの二人だ――ずっとそばで見てきたから分かる。そうなったらこの苦味はいつか口の中から消えてしまうのだろうか。あるいはずっと残り続けるのだろうか。答えは出てくれそうにない。

「本当に……苦いなあ」

 私は口元を歪めたまま青黒い空を見上げた。死ぬほど苦いチョコレートにほんの少しだけ塩味が混じって、すぐに消えた。

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にがくて、あまい 霧崎圭 @sweeney_toad

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