第40話

それからしばらくして前山修一のサイン会が決まったと相田に告げた。相田はそれを聴くと子供のように飛び上がって喜んでいた。本当に前山修一が大好きなようで、興奮して拓哉にまで本を薦めてくるほどだった。

サイン会がくるまでに是非読んでみて、と数冊押し付けられた拓哉は、その圧に押されて頷いてしまう。本屋で働いているだけあって本がわりと好きな拓哉は相田がそこまで言うなら、と読んでみようと思ったのだった。


サイン会当日、名取さんは妙にいつもより張り切っていた。テキパキと動いて客の待機スペースを作っている。拓哉はそれを手伝って本棚を動かしたりポールを立てたりして体を動かしていた。いつもとは違うイベントの存在に店全体が浮き足立っているようだった。

決して大きいとは言えない駅前の本屋に、前山修一ほどの作家が来るのは異例のことのようで、ツイッターなどを駆使して拡散した結果、店の前には沢山の人が立ち並んでいた。その中に相田がいないか確認する。人が多過ぎて、列形成の合間に確認するが、相田を見つけることは出来なかった。サイン会が開催されることを話した時に絶対行くと言っていたから、きっと来ていることだろう。もしかしたらもっと前の方にいるのかもしれない。


ざわざわと話し声が森の木々のように折り重なり、ひとかたまりの雑音となって人の列から響き渡る。誰も皆高揚しているようで、本を片手にどの本が好きだとか、あの表現が良かったとか話し込む人たちで溢れていた。

そして数十分後、会場に人が現れる。前山修一だ。その瞬間あたりは拍手と歓声に包まれ、一気にボルテージが上がった。前山修一は軽く会釈をしながら、用意された席へと座る。彼を包む歓声たちが彼の人気を表していた。

名取さんが司会を行い、サイン会が始められていく。列の途中で列形成を促している拓哉はサイン会が始まったことを傍目に、相田を探していた。確かに来ているはずなのに見つけられない。もし何かトラブルがあって来られていないのならいけない。拓哉は相田を見つけなければいけない使命感に駆られた。


「山岸くん」

「はい!え、もしかして相田?」


声に呼ばれて振り返るとそこには若い女性がいた。長い黒髪を編み込み、ビタミンカラーの赤いワンピースが膝の上で揺れた。白いパンプスは背の高い彼女をより高く見せ、すらりとモデルのようなスタイルを表していた。

顔には相田のトレードマークである眼鏡はない。それで一瞬誰か分からなかった。おそらくコンタクトをつけているであろう相田は大きな瞳を輝かせながら、柔らかい笑顔で拓哉を見た。


「山岸くん今日はありがとう!私本当に嬉しい!」


眩いばかりの笑顔に拓哉はどきりと胸が鳴る。いつもと違う相田のギャップに心を鷲掴みにされたような感覚があった。

こんな感覚初めてだった。どうしてこんな気持ちになるのか、よくわからない。ただ胸の高鳴りだけが確かに分かることだった。相田に目を奪われていた、それは確かだった。いつもと違う彼女に拓哉は翻弄されていたのだ。思わず相田の手を取って先へ行こうとする彼女を呼び止める。

「これ終わったら暇だから、待っててくれない?」

「え?私も暇だからいいよ。外で待ってるね」


快諾されたことに少し安堵を感じる。こうして拓哉は相田と二人きりになる機会を得たのだった。

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