禍台子

@nazuku

第1話

「私たち、もう終わりにしましょう?」


祥子は目の前でそう言った。がやがやと喧騒の煩いチープな居酒屋の一席、トイレ近くの右側の狭いスペースに向き合って、机にはビールが露を溜めている。


「は?え?」

悠人には理解が追いつかなかった。いつも通りのデートコース、なんの変わりもない普段通りの展開、そこにスパイスがあるとしたら、キスした回数の違いだけだと思っていた。目の前の彼女は少し目を伏せて俯きながら箸を置いて、悠人の応えを待っているようだった。

「どういうこと?俺たち、別れるってこと?」

なんで急に。と言いかけた言葉は、焼き鳥の匂いのする空気に飲み込まれていった。違う、俺は知っている。心臓の裏に氷が伝うような嫌な感じのする動悸を堪えながら、悠人はゆっくりと生唾を飲んだ。俺は知っている。祥子が先輩に憧れていること、そしてそれが原因で別れたいと言い出したことも。


「ごめんなさい悠人、でも私好きな人が出来たの。だから、もう会えない」

「…そっか。」


唐揚げに伸ばした箸の手は止まったまま、周りの雑音が気にならないくらい心臓が強く脈打つのを感じた。七輪から溢れる煙たい熱気と、頭上のエアコンから送られる人工的な冷たい空気がないまぜになったごっちゃりとした大気が二人を包む。悠人は言葉を紡ぐことができなかった。

祥子、お前は先輩が好きなんだろ。だから俺と別れたいんだろ。ツイッターで仲良く馴れ合ってるのも知ってるんだぞ。

そんな言葉が頭に浮かんでは、喉に小骨のごとく引っかかり沈んでいく。吐きそうな気分だった。

目の前の祥子は、じっとこちらを見つめてくるだけで感情の見えない顔を悠人へ向けている。

祥子、お前は何を考えてるんだ?どうして、このタイミングで、俺にそんなことを言うんだ?今まで楽しくやってきたのは全部嘘だったのか?

ぐるぐると思考が回る。言葉を紡げず、無言の時間が永遠に感じられた頃、祥子は再びごめんと呟いた。


それからのことは良く覚えていない。今まで二人で笑い合って寄り添うように歩いたいつもの帰り道でも、祥子はまるで他人のように距離を取って歩いていた。変わらないネオンの電飾の輝く駅への道、通り過ぎる酒に酔った人々、コンクリートの上で奏でる乾いた足音。いつから俺と別れようと考え出したのか、考えながらも楽しく笑顔を見せていたのか、見せかけの笑顔だったのか、偽りの気持ちだったのか。もう何も分からなかった。眩暈が、思考が巡る。くらくらして暗転しそうな視界は酔いのせいではないのは確かだった。煙草の白い煙が顔面を覆い隠すように吹きかかり、噎せそうになるのも定められた運命のように感じた。俺は何故こんな気持ちを味わわなきゃいけないんだろう。彼女は何故俺にこんな気持ちを感じさせようとしているのだろう。ただそれだけをぐるぐると考えて、ふらふらと帰ったことだけは覚えている。



「というのが先週の話だ」

「それは災難だったな」


俺の長い話を聞いていた森岡はふぅと小さく息をついて俺の肩をぽんと叩いた。場所は弁当の匂いと車内特有の匂いの混ざった新幹線だ。傷心旅行と称して、京都への旅行を誘ってくれた森岡の優しさに少し涙が出そうになる。例え男二人のむさい旅行だとしても俺は嬉しかった。


「お前は悪くない。運が悪かっただけだ」

「ありがとう森岡。本当に」

「いい神社を知ってるんだ、そこでお前の運勢を上げて貰おう。きっといい彼女が見つかるはずだ」

「さすがだよ、俺めっちゃ祈るわ」

「そうしてくれ」


はは、と笑い合うと心も少し晴れやかな気もした。窓から横に差し込む光が規則正しく瞬いていく。ポーンという音の後の静かなアナウンスが心地いい。そう、俺たちは京都へ旅行に来ていた。

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