全速力で

篠岡遼佳

その未来まで


 カタン。


 どことなくモノクロームな街の中で、彼はいつも真っ赤で無心に立っている。

 えらいぞ、郵便ポストくん。


 私は息をついた。

 マフラーは少し暑かったかと思ったけれど、ここまで歩いているうちに、あっという間に鼻先から寒くなった。

 

 いま、志望校の願書を出したところだ。

 書き直せない書類は本当に肩が凝る。けれど、今後はそんな機会もなかなかないだろう。そう思いたい。


 私はいま未来を決めた。

 なんだかどきどきする。

 受験までまだしばらくあるが、勉強自体は順調だ。赤本も段々解説なしで解けるようになって、先生の手を借りることも少なくなった。


 「――せんせぃ」


 声に出してみた。

 彼は数学の先生で、鈴木という。

 実は、下の名前は聞いたことがない。

 背が高くて、白衣を着ていて(チョークの粉防止らしい)、先生歴は長いらしく、もちろんちょっとおじさんで、でも白髪交じりのほわほわした髪がかわいいと、私は思う。(みんなはそうは言ってくれない)

 そして、補聴器をつけている。黒くて、かっこいいヤツ。


 最初に見た時は、Bluetoothのイヤホンかと思ったけど、そんなわけはなかった。

 あっさりとした自己紹介をし(「鈴木と言います」で終わったのはよく覚えてる)、そのままカリキュラムの説明に入った。すっきりとした性格と、慣れを感じさせる授業だった。

 

 私は数学の成績がすごくすごく悪い。

 なんというか、数学の問題を考えると、目の前に壁が出来たように頭が動かなくなるのだ。

 なので、私は文系を選んでいた。

 本当はやりたいことはある。理系に進んで、いろんな薬のことを学んで、できれば薬剤師になって……人の役に立ちたい。

 母が看護師だからだろうか。その、「人に役に立ちたい」という気持ちは、ちいさい頃から私がためつすがめつ抱えていた未来のかたちだった。


 だから、先生にも興味を持った。

 耳を悪くしたのはなぜか、ずっと聞きたいと思っていた。

 それから、数学のことも、お世話になりそうだな、としみじみ思った。



 本当に直接聞いたのは、先生の居室である、数学科教員室に入り浸るようになってからだ。

 仲良くしようとしたら、ちゃんと仲良くしてくれる、いい先生だった。といっても、ちゃんとワークブックを持ってないと、相手にしてくれないわけなんだけど。



 その日は授業が丸一日課外授業で、なぜだか外に出ることになった。

 最寄り駅の向こうに公園があるから、そこまで行って、絵を描くことが課題だった。美術を取った覚えはないんだがな、と私は思った。


 その日はもうゆっくりと秋がやってきている日で、緑の葉と紅葉した葉がそれぞれの季節を教えてくれていた。

 あまり遠くまで行くなよ、と先生が言ったので、私は先生にくっつくことにした。


「今日はワーク持ってないけど、いいよね?」

「仕方がないなぁ……僕は担任というわけではないのだけど」

「いいじゃん、ね、一緒に描こうよ、私、絵は上手いんだよ」


 ふたりでなんとなく、公園の広くはない方へ、てくてくと歩いた。

 先生はもう私が、だいぶ先生を好きだと知っていたと思う。

 けど、それでも邪険にしたり、ダメだとも言われなかったから、慣れてるのかな、こういうの、とも思った。先生だもんね、年上だもんね、当たり前か。

 ――ちょっとさびしいな。


「ねえ、先生、私、先生のこと好きだよ」

「数学は嫌いでも?」

「数学は嫌いじゃないよ。できないだけだもん」

「おお、すごい理論だ……」

 むっとしたので、先生をぽかぽか叩いた。

 でも、手を伸ばさないと胸のところまで届かない。背が高いやつめ。

「せんせぃ」

「ん? なに?」

「――聞いていい?」

「答えられることなら」

「じゃあ」

 私は先生の前に回って、自分の耳を指した。

「なんだ、そんなこと」

 先生は笑った。目尻にしわができるのが、かわいいなと思った。

 そして教えてくれた。


 ――もうずいぶん前だなぁ。

 大学の頃にね、まあレポートはいつでも山ほどあって、それに加えて就活がすっごくストレスになってて、体がきつかったのかなぁ。

 ある日、けっこう高熱を出したんだ。

 それで次に起きたら、右耳はもうダメになってた。

 突発性難聴っていうやつ。結局、原因が高熱にあるかどうかもわからなかった。

 左の方も危うかったんだけど、それはなんとか薬で治った。

 でも、やっぱり少し普通の人より聴力がちょっと落ちるね。だから、これつけてるの。

 そこでいろんな夢が終わってしまった。音楽も好きだったし、歌うのも好きだったから、困ったなぁ。まあ、いろんなものがね、消えていったんだ。大好きだったものが手から離れていった。

 もうだめなんだ、って、体が言うんだよ。気持ちはそれについていくしかなかった――


「……もう、なんで君が泣くの」


 ――私は勝手に泣いていた。

 先生を思ってじゃない、自分のためでもない、ただ悲しかったから泣いた。

 そんな話は悲しすぎる。

 ごめんなさい、と私は言った。

 謝ることなんてなんにもないよ、と先生は言った。

 私がハンカチを出して顔を拭っていると、先生の手が優しく私の頭を撫でた。


 


 ――窓の外、青い青い空に、海鳥が飛んでいく。遠くまで。


 私は自室で思った。

 先生の話を思い出して、自分の手で、自分の耳を触ってみた。

 私には何の障害もない。

 親とだってなんだかんだ言って仲がいい。大げんかもするけど仲直りできる。

 高校までだって、大学にだって行かせてくれてる。

 私は恵まれている。

 ――それだけでなんだか涙が出た。

 そう、だとしたら、私はなんだって出来るのだ。

 手を伸ばせば、すべてに手が届く。

 迷っている場合ではない。

 走って行こう。追いつかない未来なんてないんだから。


 その日から、私は先生をもう一度好きになった。

 先生としてじゃなく、ひとりの男の人として。



 そして、冬が来て、学校は休みになり、私はいくつかの大学を受けた。



 やがて、合否が出た。


 合格。


 合格した!

 だったら、先生に、会いに、ううん、報告に、いってもいいよね?

 そう思ったら、もういてもたってもいられない。

 久しぶりに、なぜか慌てて、制服を着る。



「先生!」

 四階の数学科教員室には、先生しかいなかった。

 ぜいぜいと息を荒くしている私に、先生は目を丸くしている。

 私はそれでもまだ走って、マフラーを解いて、コートも脱いで、全部放り投げて、――先生にキスをした。

 背伸びをして、先生のネクタイを引っ張って、無理矢理キスした。


「ちょっと、君、なに――」

「先生」

「はい、なんですか」

 そんな呼ばれ方は気に入らない。もう一度。

「鈴木さん」

「――なんだい」

 そう、その優しい声が好き。

 最初からずっと、

「好きです。大好きです。私はなんでもできる、そう気付かせてくれた先生が大好きです」

「――――あぁ……」


 先生は顔に手をやった。

 耳のあたりが、真っ赤だ。 


 気を取り直した先生は、じっと私の目を見た。

「――僕は、君とは違う時間を行くよ。それに、君はまだ生徒だ」

「構わない。私はなんでもできます。先生にだって、追いついてみせる。夢は消えたりなんてしないよ。夢は叶えるものだ。何度だって、話し合えばいい。追いつかない未来なんてないんだから。

 あなたが好きです」


 私たちはじっと見つめ合った。

 先生は、持っていたコーヒーカップをテーブルに置き、白衣を脱いだ。


 そして私たちは、またキスをした。何度も、何回も、お互いの体温が上がるくらい。



 ――未来に何が起こるかなんて、わからない。

 だけど、それでも私はあなたを想って、未来に向かって両手を広げて、走っていく。

 私だけのために。あなたとのために。



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全速力で 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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